「失礼いたします」
カチャッと音を立てて扉が開き、姿を現したのはジルだった。机に向かっていたルークはちらっとだけ顔を上げると再び机の上の書類に視線を落とす。
「なんだ」
「ルーク様に招待状が届いております」
その言葉にルークはうんざりしたような表情で椅子の背もたれに寄り掛かった。
「招待状?また夜会か?」
「だと思いますが」
「どこだ」
「ソワイエ家です」
「……エリザか…」
渋い顔でそう呟いたルークに向かってジルは目を眇めた。その視線を感じながらも目を合わせないようにしていたルークが口を開く。
「面倒だな……行かないわけには…」
「いかないですね」
「俺一人で……」
「無理でしょう」
ルークの解りきった問いに対して答えを淡々と返していたジルが突然、くすくすと笑い出した。
「以前のツケがきましたね」
「……うるさい」
ルークは深いため息をついてジルに文句を言った。彼に文句を言うのはお門違いなのは分かっているが、つい口から出てしまう。
「ティナリア様を連れて行かないわけにはいきませんよ」
「分かってる」
夜会や舞踏会で妻を連れて行かないなど到底ありえない。しかし今回のはティナリアを連れて行きたくない気持ちでいっぱいだった。
―― なんでこんな時にエリザから招待状なんてくるんだ ――
エリザ=フィル=ソワイエ。ソワイエ家の女主人であり、ルークの元恋人である。
もっとも、恋人というには少々語弊があるかもしれないが、互いに本気だったわけではないにしろ、そういう関係であったことは明らかだ。もっと早いうちに清算しておくべきだった、と後悔してみてもすでに後の祭りだ。
せっかくティナリアが微笑ってくれるようになったというのに、昔の女が出てきてはまたややこしいことになってしまいそうだ。
「……いつなんだ」
「再来週ですね」
「分かった。出席すると返事を出しておいてくれ」
「かしこまりました。ではこちらを」
ルークは渋い顔をしてジルの手から差し出された白い封筒を受け取ると、再びため息をついた。
「ティナリア様にもお伝えしておきましょうか?」
「いや……俺から言おう」
「左様ですか。ティナリア様を悲しませないで下さいね」
思いがけないジルの言葉にルークはぎょっとした。怪訝な顔でまじまじと彼を見つめる。
「なんだ、いきなり」
「ティナリア様が悲しむとアリスさんまで悲しそうな顔になるので」
「ん?なんだ、お前たちそういう仲なのか」
初耳だったにも関わらず、ルークはそれほど驚いた様子も見せずに聞き返した。
「いえ。でもいずれは」
飄々と言ってのけるジルに苦笑しながらも、素直にそう言える彼をルークは少し羨ましく思った。
「まあアリスに逃げられないようにすることだな」
「私は大丈夫ですよ。ルーク様のようにひねくれてはいませんから」
「ははっ、直接過ぎても女は逃げるものだぞ」
「お言葉有難く頂戴します」
にっこりと笑いながらそう言ったジルはふざけ合ったようなゆるゆるとした会話を切り良く終え、ルークを残して部屋をあとにした。
彼が出て行ったあと、ルークは手にしていた真っ白い封筒に再び目をやってから放り投げるように机に置くと、腕組みをしながら椅子にもたれ掛かった。ギシッと鈍い音が耳に障る。
―― まったく……厄介なもんが出てきたな…… ――
自業自得ではあるものの、ため息をつきたくなってしまう。
ルークはティナリアに全てを話していいものかどうか迷った。昔の女のことなど話すべきことではないのかもしれないが、隠し事をしているような気分になってしまう。
「……夜会の話だけでもしておくか…」
自分に言い聞かせるように呟くと、ルークは重い腰を上げてティナリアのいる部屋へと向かった。
「入るぞ」
中からの返事も待たずに部屋の扉を開けると、窓辺に置かれているゆったりとした椅子に座っているティナリアの姿が目に映った。午後の柔らかい日差しを孕んで彼女の金の髪がより一層美しく輝いている。
立ち上がりかけたティナリアに向けて軽く手を上げ、その動きだけでその場に留めさせると、のんびりと彼女のもとに歩み寄った。
「再来週なんだが……」
そう言いかけたルークの言葉が途切れた。
ティナリアの胸元に清楚な美しさを秘めたあのネックレスが揺れているのを目にしたルークは、さっきまでの憂鬱も忘れ、思わず口元を緩めた。
「ルーク?」
不思議そうなティナリアの声にようやく我に返ったルークは、再び気が重くなるのを感じながら要件を口にした。
「あ……と、再来週なんだが、夜会に出席しなければならなくなった。ティナリアもついて来てもらうことになるが……」
言いにくそうなルークの言葉にティナリアはふっと笑った。
「相変わらず夜会がお嫌いなんですね」
「まあ……な」
口籠ったルークの心情をティナリアは少し勘違いしているようだが、夜会が嫌いなこともまた事実だ。ルークは一瞬迷ったが、やはりエリザのことは隠し通すことに決めた。
「用意はアリスに任せておく。夜会があることだけ覚えておいてくれ」
「分かりました」
ルークは素直に頷くティナリアの頬にそっと触れ、その指を首筋、鎖骨と滑らせた。ティナリアの肩が小さく震える。
そんな些細なことにいちいち体を固くさせるティナリアが愛おしく、まだ日が高いというのに思わず押し倒したくなってしまう。
「気に入ってくれたみたいだな」
ルークは持ち合わせていた自制心でなんとかその衝動を押し留めると、ネックレスへと辿り着いた指でそれを持ち上げながらそう言った。
「ええ」
「似合ってる」
照れたように微笑むティナリアは以前とは比べ物にならないほど感情が見える。それがどれほど嬉しいことか、ルークは言葉に出来ないほど感じていた。
―― この笑顔を守るためなら何だって出来る……いや、何だってしてみせる…… ――
この手の中にある全てを投げ打ってでも――――――。
そう思えるほどに。
バルコニーに乗せた腕で頬杖をつきながらアレンはぼんやりと遠くの空を見つめていた。
「……ティナ…」
そう呟いた声は自分の耳にすら届かないほど小さく、風の音に紛れて消えてしまった。
アレンの手には先日届いたばかりのイヴァンからの書状が握られている。その内容に目を通したアレンはふうっと疲れたようにため息を吐き出した。
手紙の内容はソワイエ家が主催する夜会にルークが出席する、という報告であった。ルークが出席するということはティナリアも同行するのは確実だ。
この夜会でルークに気付かれないようにティナリアと接触することが出来ればいいが、これが一番の難関でもある。一瞬でもルークが離れてくれればそれでいい。
そのチャンスはきっとあるとアレンは考えていた。
ルークはおそらく一人でソワイエ家の女主人、エリザに会いに行くだろう。
―― ティナ……まだ…信じていてくれるか……? ――
脳裏に浮かぶ彼女の姿は、あの夜の青白い表情だった。傷付け、絶望させてしまったとはっきりわかるあの表情。
アレンはそれを振り払うかのように小さく頭を振ると、部屋の中へと戻った。
机の引き出しから紙を取り出し、その一番上にティナリアの名を書き込んだ。静かな部屋の中にさらさらと筆を走らせる音だけが聞こえる。
これまでのことを全て書きたいとも思ったが、そうしてしまうといくら枚数があっても足りないだろう。アレンは必要最低限のことのみを書き込み、それを見直した。
インクが乾いたことを確認してからその手紙を小さく折ると、それにそっと口付けた。
「……もうすぐ行くよ…」
ティナリアがすぐそばにいるかのようにそう呟いたアレンの声は決意に満ちて聞こえた。彼は成功しても失敗してもこれが最後なのだと確信していたからだ。
成功すれば彼女はずっと隣にいてくれる。追われる身になったとしても、あのとき誓い合ったようにずっと二人で暮らしていける。
しかし、失敗すれば今度こそ本当にティナリアを目にすることすら出来なくなるだろう。
それでもいい。それでも彼女をこの手に取り戻したかった。
―― 後悔はもう……たくさんだ… ――
あの日、"一緒に逃げて" と泣きながら縋ってきたティナリアをどうしてすぐにでも攫っていかなかったのだろうか。
どうしてこの手を放してしまったのだろうか。
一日だって悔やまない日はなかった。その後悔の念は薄れるどころか日に日に強まっていくばかりだった。
―― でももう…… ――
これで最後。
そう思うと心が少し晴れた気がする。家を捨てると決めたアレンにはもう何も失うものはない。そう、ティナリア以外は――――――。
まるで決戦に向かうような気分にも似ている、とアレンは苦笑した。
あと数日後、運命はどちらに転がるのかわからないが、全てをやり終えたアレンにはそれを待つしかなかった。