翌朝、目を覚ましたティナリアは温かい腕に包み込まれていることに気付き、その腕の主に視線をやった。

"お前に早く会いたかったんだ"

 驚いたティナリアにそう言った彼の言葉を思い出す。
 まだ夜も明けない暗闇の中、自分に会う為だけに馬車を走らせて来てくれたのかと思うとささやかな喜びにも似た、くすぐったいような感情がふんわりとティナリアの心に広がっていった。
 それと同時に、不安な夜を彼のベッドに潜り込んで凌いでいたことが本人に知られてしまったことを思い出して、ティナリアの白い頬が恥ずかしさで紅く染まった。

―― まさか昨夜のうちに帰って来るなんて…… ――

 アリスに勘付かれているのは長年の付き合いからして致し方ないとしても、まさかルーク本人にバレてしまうなんて思いもしなかった。恥ずかしすぎて彼の顔がまともに見られなかった。
 だから余計に暗闇の中で聞こえてきたルークのため息に居た堪れなくなったのだ。疲れて帰ってきた夫のベッドを占領していた自分への呆れだと思ったから。
 だが、部屋に戻ろうとした彼女の唇を塞ぎ、腕を掴んでベッドへと引き戻したルークを見るとそうではないのだろう。むしろ嬉しそうだった気がする。
 疲れているはずなのに全くそれを見せず、それどころか気遣うような彼の優しい愛撫にティナリアの体も次第に応えていった。
 メイナードの屋敷以来、そんなことをする様子がなかったから驚いてしまったが、ルークが帰ってきてくれたこと、そして彼が自分を求めてくれることに、ティナリアは心のどこかで喜んでいたのかもしれない。
 ティナリアは隣で穏やかに眠るルークの頬にそっと指先を触れた。

―― 信じてもいいのかもしれない……もう一度…… ――

 家のために政略結婚を強いられ、愛しい人と引き裂かれ、最後の望みも絶たれてしまったティナリアが、再び誰かを信じる気になれなかったのも無理はない。
 力ずくで純潔を奪われたことを許せないとも思っていた。
 けれどルークは変わった。
 どんな時もそばにいてくれ、自分が作り上げた氷の壁をゆっくりと溶かしながら歩み寄り、不安を埋めるように抱きしめてくれた。それを思うと十分に信じるに足るものだと感じられた。
 そう思えるようになれたことが素直に嬉しかった。
「……ルーク…?」
 ティナリアは小さく名前を呼びながら頬に置いていた指先を唇へと滑らせた。彼の寝息が微かにかかる。
 よほど疲れているのだろう、ルークは一向に起きる気配を見せずに眠り続けている。夜中に帰ってきてろくに休みもせずティナリアを抱いていたのだから当たり前といえば当たり前だ。

―― そういえば、この人の寝顔見るのって…… ――

 ふと、そう思ってティナリアは記憶を辿った。が、いままでルークの寝顔を見たことはほとんどないような気がした。
 同じベッドに眠っていても大抵はルークが先に起きていて、ティナリアが目を覚ますまでその寝顔を愛おしげに見つめているのだった。だからティナリアがルークの寝顔を見る機会というのは何度もなかった。
 滅多に見ることのない彼の寝顔を見ていると、なぜだか解らないが無性に触れたくなってしまった。衝動に駆られたティナリアは静かにルークに体を寄せ、瞳を閉じて少し乾いている彼の唇にそっと自らの唇を重ねた。
 自分からこんなことをしているのが不思議でならない。けれど触れた唇からルークの確かな熱が伝わってきてそれが安心感へと変わっていった。
 ところが唇を離してから再びゆっくりと開いたティナリアの瞳は驚きに大きく見開かれ、その白い頬が見る見るうちに朱に染まった。
「……こんな風に起こされるのも悪くないな…」
 にやりとした、悪戯っぽい笑みを浮かべながらルークが目を覚ましていたのである。
「いつ………」
 いつから、と聞こうとした言葉も驚きすぎて最後まで出てこない。その途切れた言葉を察したルークは軽い調子で答えてやる。
「名前を呼ばれたあたりから気付いていたんだが」
 ティナリアは絶句した。
 てっきり眠っているものだとばかり思っていたのに、まさか寝たふりをしていただなんて考えもしなかった。起きていると知っていたらあんなことしていなかったのに、と自分の軽はずみな行動を後悔する。
「お……起きていたなら声をかけて下されば……」
「お前から触れてくれることなんて滅多にないからもったいなくてな」
 ルークが笑いながら答える。ティナリアの照れ隠しのような非難の言葉すらも楽しそうだ。
「だからって寝たふりなんて」
 さらに反論しようとしたティナリアの口が優しく塞がれた。愛おしいというルークの気持ちが彼の唇を通して伝わってくる。
「……ただいま」
 ティナリアの髪を梳くように撫で、ルークは優しく微笑みながら昨夜の言葉を改めて口にした。彼の低い穏やかな声がティナリアの耳に心地よく響く。
「……お帰りなさい」
 小さく答えたティナリアの言葉にルークが相好を崩した。
「夜中にお戻りになるなんて思いませんでした。お疲れになったのでは?」
「少しな。まあ大したことない。それよりも今回行った港町はいいところだったぞ。王都よりも活気がある」
「そうですか」
「今度時間が出来たら行ってみるか?市場なんて見たころがないだろう?」
「ええ」
 こんな風にベッドの中で他愛もない話をするようになるなんて、以前のティナリアとルークには考えられないことだったが、いまでは全く違和感のない光景だった。
「それで市場でな……あ、そうだ。ちょっと待っていろ」
 ルークはふと何かを思い出したようにそう言うと体を起こしてベッドから降り、隣の部屋へと消えていった。奥のほうからガサガサと荷をほどくような音が聞こえてくる。
 言われた通り待っている間にティナリアは投げられていた服を手繰り寄せ、手早く身に纏った。しばらくして戻ってきたルークの手に小さな箱が握られているのに気付いた。
「お前に土産を買ってきたんだ」
「お土産?」
「ああ、安物だがな」
 そう言ってルークから手渡された木箱をティナリアは両手で受け取った。
「……開けても?」
 窺うように聞いたティナリアにルークはふっと笑って促した。
「お前に買って来たんだ。聞く必要もないだろう」
 そう言われたティナリアはしなやかな指で丁寧に紐を解くとその蓋を開けた。中に入っていた柔らかい布を取り出し、それを静かに開くと彼女はじっと見入った。
「……わあ…」
「綺麗だろう?」
「………」
 ティナリアは言葉に出さず、それを見つめたままこくんと小さく頷いた。カーテンが引かれて薄らとしか陽が入らない部屋の中なのに、その石はまるで心が洗われるような柔らかい光を放っている。

―― 雫みたい…… ――

 神秘的といっていいほど美しい。ルークは安物だと言っていたが、ティナリアはこれほど美しい石を見たことはなかった。
「壊れやすい石だからあまり装飾として流通していないらしい。俺も初めて見たんだ」
 そう言いながらルークはティナリアの手からそっとネックレスを取り上げる。それを追うように見上げた彼女に微笑みかけると、その細い首に着けてやった。
 白い肌に浮かぶ透明な雫のようにその石がきらりと光る。
「これを見たときにお前に似合いそうだと思ったんだ」
 それを聞いたティナリアは自分の胸元にある石を摘まむとルークに見せるようにして微笑みかけた。
「……ありがとう…」
「その顔、石の言葉にぴったりだな」
「え?」
 首を傾げたティナリアの頬に優しく指を滑らせながらルークは言葉を続ける。
「この石の言葉は "喜び" なんだと」
「喜び……」
 そんな顔をしていたことに自分では気付かなかったから、そう言われたことが嬉しかった。
「お前の笑顔は人に幸せを与えるな」
「そんなことは……」
「ずっとそうやって微笑わらっていてくれ……俺のそばで……」
「……ルーク……」
 優しい腕がティナリアを包み込むように抱き寄せる。彼女は抵抗することもなく大人しくその身を預けながら自分の中の感情を探った。
 アレンのことを忘れたわけではない。ふと彼を想うとき、必ずこの胸が苦しくなる。いまでも愛しているのはアレンだと思う。
 けれどルークに対して何も感じないわけでもなかった。
 そばにいて欲しい、とそう思えるほどにルークに心を許していた。彼がくれる安心感は今のティナリアになくてはならないものになっていた。
 このままそばにいればあるいは――――――。

―― この人ならきっと……信じられる…… ――

 抱き締められた腕の中でティナリアはそっと微笑むとその瞳を閉じた。




 その日を境にティナリアが柔らかな表情をすることも増え、二人の間に穏やかな日々が流れていく。そして彼女の白い胸元には青く透明な雫が繊細な光を纏いながら揺れていた。
 二人の結婚から半年が過ぎようとしていた。






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