「執務を終わらせてから夜会に間に合うように戻ってくる」
 ルークは外套を羽織りながら、そばに立っているティナリアにそう告げた。近頃は彼に回される仕事は少なくないようで、何かと忙しく飛び回っている。
「分かりました」
「あまり遅くならないと思うが、迎えに来るまで待っててくれ」
 了解の意を込めてティナリアが微笑むと、ルークも嬉しそうに笑った。彼女の腰に手を回して優しく引き寄せ、その白い頬に軽いキスをする。
「行ってくる」
「お気をつけて」
 いつの頃からか、こんな風にティナリアが見送りに出てくることが増えてきていた。
 その様子を後ろからアリスとジルが微笑ましそうに見つめている。その視線に気付いた彼女は不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「いえ、なんでもないですよ。さ、ここにいては冷えますから、どうぞお部屋へお戻りください」
 柔らかい笑みを口元に残したままのジルがそう言うと、まだ不思議そうにしているものの、ティナリアは何も言わずに部屋へと戻っていった。




 それからしばらくして午後もいい時間を過ぎた頃、お茶を飲みながら部屋で本を読んでいたティナリアのもとにアリスがやってきた。
「ティナリア様、お支度を始めましょうか」
「まだ少し早くないかしら」
「いいえ、あとになってバタバタとなるのは大変ですもの」
「そうね」
 アリスの勢いに負けたティナリアは苦笑したように小さく笑って立ち上がった。アリスに背を押されながら鏡台の前に座らせられる。
「今日はどういう風に結いましょうか」
「んー……」
 ティナリアは考えながらちらりと壁にかかっているドレスに目をやった。
 度々ある夜会や式典などの場でティナリアが身に着けるものはほとんどと言っていいほどルークが選んだものばかりだった。今回のドレスもいつの間に用意したのか、新しいものが届けられている。
 深緑の上品な色合いで、裾や袖口に控えめなレースがあしらわれている。少し大きめに開いた胸元も決していやらしい感じではなく、逆にその上品さが際立って見えるつくりだった。
「少し肩に落ちるようにして、あとは上のほうでまとめてもらおうかしら」
「かしこまりました」
 アリスはにこりと微笑むと、早速ティナリアの髪を結い始めた。いつ見ても惚れ惚れしてしまうほどアリスの手さばきは見事であった。
 器用に動く手はティナリアの金の髪を丁寧にくしけずりながら結い上げていく。左右に数本入れた編みこみが飾りのように縁取っている。そして肩に落ちた残りの髪に櫛を入れると、天然の緩やかなウェーブがふわりと広がった。
「さすがね」
 見る見るうちに仕上がっていく鏡の中の自分を覗き込んでいたティナリアがそう言った。その言葉にアリスの顔も笑顔になる。
「これだけは誰にも負けませんわ」
 そう言いながらアリスは鏡台に置いてあった箱から髪飾りを取り出した。シルバーの繊細な鎖にところどころに透明な石が施されていて、それがキラキラと光っている。
 これもまたルークが用意したものなんだろう、初めてみるものであった。
「……綺麗…」
「本当ですね。さ、お付けしますから前を向いていて下さい」
 つい髪飾りに目を奪われてしまったティナリアは、アリスに言われて素直に鏡に向き直った。
「……よし、出来ましたわ」
 後ろから満足気なアリスの声が聞こえてくる。
 ティナリアは少し横を向いて、編みこみのラインに沿うようにつけられた髪飾りを見やった。彼女が頭を動かすたびにその石がゆらゆらと揺れ、光が零れ落ちる。
「それにしてもルーク様は選ぶのがお上手ですわね」
「え?」
「ドレスの色もですけど、飾りもきちんと合うものを選んでいらっしゃるもの」
「アリスのお墨付きっていうわけね」
 彼女のドレスなどに対するこだわりを嫌というほど知っているティナリアはそう言ってくすくすと笑った。
「私の趣味が奪われてしまいましたわ」
 アリスはそう言って笑いながら今度は化粧の準備を始めた。とはいっても、もともと顔立ちの整っているティナリアにはそれほどの化粧は必要ない。白粉を軽くはたいて、頬紅を薄くのせる。そして形のいい唇に紅をさせば終わりだ。
「あとはお着替えいただくだけですね。ドレスはもう少し後に致しましょうか?」
 ティナリアはちらりと時計を見た。ルークが帰って来るまではまだありそうだが、いつの間にかけっこう時間が経っていたようだ。
「今でいいわ。いつ戻ってくるかわからないし」
「そうですね。ではこちらへ」
 部屋の真ん中に立って動きやすいシンプルなドレスを脱ぎ、ルークが用意してくれた深緑のドレスに袖を通した。深い色を身に纏うとティナリアの白い肌が一層際立って見える。
 淡い色も映えるが、深い色合いは彼女の大人っぽさを引き出し、落ち着いた淑女に仕立て上げてくれた。
「あら……首飾りは……」
 アリスは独り言のように呟いた。箱の中に入っていたのはさっきつけた髪飾りと、それと同様の透明な石の耳飾りだけだったからだ。いつもはこれに首飾りも入っているはずだ。

―― これのままでいいってことかしら…… ――

「アリス……これでいいってことじゃないかしら?」
 ティナリアは自信がなさそうにそう言うと、いますでに首に飾られているあのネックレスを摘まんだ。じっと見つめるアリスの視線になぜか気恥ずかしさを感じてしまう。
「最近、よくつけていらっしゃいますね」
「ええ……ルークがくれたの…」
「左様でしたか。とてもお似合いですわ」
 その言葉にティナリアは嬉しそうに微笑んだ。
「ではあとはルーク様がお戻りになるのをお待ちになるだけですね」
「ええ」
「少し時間が余ったみたいですね。新しいお茶をご用意しましょうか?」
「ありがとう」
 ティナリアが礼を述べるとアリスはにっこりと笑ってから部屋を出て行った。そのときティナリアはふとあることを思った。

―― そういえばルークから面と向かって贈り物をもらったのは初めてかも…… ――

 いつもこうやっていつの間にか部屋に準備されているだけで、ルークから直接受け取ったことはなかった。
 そう考えると直接手渡されたこのネックレスがより意味を持つもののように感じられる。ティナリの胸の中に嬉しいようなくすぐったいような不思議な感情が広がっていった。




「急がないとまずいな」
 ルークは時計に目をやってから疲れたように呟いた。思ったよりも長引いてしまった執務を一通り終えて帰路についている途中だ。空を見上げれば陽が落ち始めて藍色の空がのぞき始めている。
 馬車に乗り込んで屋敷へと急がせると、背もたれに体を預けてふうっと息を吐いた。

―― 気が重い…… ――

 以前より少しは近付けたかとは思えるが、それでもティナリアに愛されているなんて自惚れたことは思っていない。だからティナリアにエリザとの関係を言ったところで彼女はたいして気にもしないだろう、とも思った。
 それでもルークが当日になっても彼女に言わなかったのは、そのなんとも思っていないというティナリアの態度を目の当たりにしたくなかったからだった。

―― らしくない……俺はこんなに臆病だったか? ――

 ルークは自嘲するように小さく笑った。いま優先的に考えなきゃいけないのはエリザのことのはずなのに、頭の中に浮かぶのはティナリアのことばかりだ。

"愛されたい"

 その想いが日に日に大きくなっていくのを感じていた。ティナリアの微笑みを見るたびに、望んではいけない想いが積み重なっていく。
 そばにいてくれるだけでいい。
 最初はそれだけだった。それがいつからか変わっていった。
 名前を呼んでほしい。
 自分だけに微笑んでほしい。
 次第に大きくなっていく欲を自分では制御しきれていなかった。そしていま、ルークが望んでしまったのはティナリアの心だった。

―― ティナリアの心は……まだ… ――

 あれほど想い続けた者を簡単に忘れられるとは思えなかった。いや、以前のルークならばそんな気持ちも嘲笑うだけで分からなかったと思う。
 しかしいま、そう思えるのはティナリアに出逢い、ルーク自身が彼女を本気で愛したからだ。
 仮に彼女を忘れろと言われても、ルークにはその方法が解らないし、忘れたくもない。だからティナリアもまたアレンのことを忘れてはいない、と思ったのだ。

―― それでもいつか…… ――

 一度生まれてしまった期待はなかなか消えてくれない。
「……時間はたくさんある…」
 ルークは自分に言い聞かせるようにそう言った。
 そのとき、ちょうど馬車の速度が落ちた。
 窓の外に目を向けると屋敷が目前に迫っていた。中でルークの贈った深緑のドレスを身に纏って待っているであろうティナリアの姿を思い浮かべると、思わず口元が緩んでしまう。
 今夜、きっちりエリザと話をつけたら明日からはまた平穏な日々が待っている。
 そう思うことでルークは今の憂鬱さをなんとか退けた。






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