翌朝、ティナリアが目を覚ました時にはすでにベッドの中にルークの姿はなかった。
 ティナリアは伸びをするように腕を上げ、胸一杯に空気を吸い込んだ。それからもそもそとベッドを降りるとクローゼットの中からゆったりとした楽なドレスを選び出し、それに手早く着替えた。
 上品な深緑のドレスだが、いまだにティナリアにはそれが見えていない。
「……いつになったら戻るのかしら…」
 精神的なものだと診断されたあの頃よりはティナリアの心ははるかに安定してきているはずだった。だが、彼女の瞳に色が戻りそうな気配はまだ見えてこない。

―― 焦っても仕方がないわ…… ――

 鏡に映った自分の姿を見てそう思い直すとティナリアは簡単に髪を整えて部屋を出ていった。
 まだルークがいるものだと思っていたが、ダイニングに行っても彼の姿は見当たらなかった。代わりに奥の部屋から出てきたジルがティナリアに気付いてにこりと微笑みながらこちらに向かってくる。
「おはようございます」
「おはよう……あの…ルークは?」
 なんとなくジルの前でルークの名を呼ぶのが気恥しくて小さく口籠りながら尋ねると、ジルは何ら気にしてない様子で淡々と答えてくれた。
「ああ、ルーク様でしたら今朝早くにお立ちになりましたよ」
「もう出て行かれたの?」
「ええ」
「……そう…」
 顔を見る前にルークが出発してしまったことが思っていたより寂しく感じる。そんな気持ちになったことが自分でも驚きだった。
 少し下げた視線を再びジルに向けたとき、彼の表情がえらく柔らかくなっていることに気付いた。
 何だろう、と首を傾げたティナリアを見たジルはくすっと笑ってから彼女のために椅子を引いて座るように促した。怪訝に思いながらもそこに腰かけるとジルが横に立って柔らかく微笑んだ。
「お寂しいですか?」
 いきなり核心をつかれて思わず動揺したティナリアはぱっと目を逸らすと顔を伏せた。アリスといいジルといい、どうしてこうも鋭い者が多いのだろう。
「ルーク様も同じようでしたよ。たった数日でも離れているのが嫌でたまらないっていうお顔をされて」
「………そう……」
 そんなことを言われてもどう返したらいいのか分からない。顔を赤らめながらじっと足元を眺めていると後ろからアリスの元気な声が聞こえてきた。
「あら、ティナリア様。もう起きていらしたのですか?」
 その声にやっと少し顔を上げるとアリスは驚いたように眉を上げた。それからジルのほうをじっと見てから彼を問い質した。
「……ティナリア様に何か仰いました?」
 まるで尋問するような口調だったが、ジルは飄々とした様子でアリスの問いに応じる。
「ティナリア様がお寂しそうにされていたから、ルーク様もですよってお教えしただけですよ」
「まあ、そんなにはっきり仰っては駄目ですよ」
「いいじゃないですか」
「駄目です」

―― 昔のアレンと私みたい…… ――

「ふふっ」
 ティナリアは当の本人を置いてそんなことを言い合っているアリスとジルを交互に見比べ、堪え切れなくなったように声を零して笑った。
 その澄んだ笑い声に言い合っていた二人の声がピタリと止まり、視線が一気にティナリアに集まった。
「ティナリア様、いまお笑いに……」
「これはルーク様が悔しがりますね。また八つ当たりされてしまうな」
 その言葉を聞きながら、ティナリアは自分が笑っていたことに驚いた。いや、"笑っていたこと" ではなく "笑ってしまった理由に" かもしれない。

―― 私……アレンとの想い出を重ねて笑ってた……? ――

 思い出せば過去を恋しがって辛くなるばかりだったアレンとの想い出が、いまこの瞬間は懐かしく思っただけで悲しさはひと欠片もなかった。
 自分の感情の変化について行けず、ティナリアは思わず狼狽した表情を出してしまった。
「ティアリア様?」
 心配そうに声をかけたアリスが覗き込んでくる。

―― これ以上心配させちゃダメ ――

 アリスの心配顔を見てそう思ったティナリアは気を取り直して再び彼らに微笑みかけた。
「……私からルークにあなたを怒らないように言っておくわ」
 冗談交じりに行った言葉に二人の顔がほっと和らぐ。それから言葉を継ぐようにティナリアが口を開いた。
「それにしてもあなたたちはずいぶん仲がいいのね?」
 その言葉にジルは嬉しそうにいたずらっぽく微笑み、その隣にいたアリスは恥ずかしそうに顔を赤らめた。何気なく言った言葉なのに二人の反応がやけに大きくて、ティナリアは不思議そうに彼らを見つめた。
 すると、おもむろにジルがアリスの肩を抱いて彼女の身体を引き寄せた。バランスを崩したアリスはジルの胸に手をつくように寄り添う形になる。
「ええ。未来の妻になる予定ですから」
「ジル様!?」
「まあ!」
 ジルの突然の発言に驚いたティナリアとアリスは重なるように声を出し、一斉に彼のほうを向いた。
「つきましてはティナリア様にお許しを頂ければと思いますが」
「ジル様!私はまだ……」
 そう言いながらアリスは至って平静なジルの腕から逃れようと身動きしたが、彼の力には敵わないらしい。おろおろしながらの抗議も完全に無視されている。
「……アリスの気持ちが同じなら、私の許しなんて必要ないわ」
「ティナリア様!」
 ティナリアの言葉に愕然としたアリスは叫び声に近いようなボリュームで声を上げる。けれどティナリアはそれを気にすることもなく、真っ直ぐにジルの瞳を見つめた。
「ただし」
 部屋に響いたティナリアの声にアリスも騒ぐのをやめて彼女を見やった。束の間の静寂が辺りを包み込み、ティナリアが静かにそれを破った。
「アリスを幸せにすると約束して。絶対に悲しませない、と。私にとってアリスはかけがえのない大切な人なの」
「ティナリア様……」
 アリスの泣きそうな声が聞こえる。ティナリアの瞳にも涙が浮かび始めていた。
「約束して」
 強い意思の籠った瞳に見つめられたジルは穏やかに微笑んでから、はっきりと首を縦に振った。
「もちろんです。ただそれを彼女が望んでくれるのなら、ですけど」
 最後のほうは少し大げさに言いながらアリスに向かって片目を瞑る。それを受けたアリスが恥ずかしそうに顔を伏せるのをティナリアは微笑ましく思いながら眺めていた。




「ティナリア様、お呼びですか」
「一緒にお茶を飲みたいと思って」
 そう告げると扉のところに立っているアリスが驚いたようにティナリアのほうを見た。
「こっちへ来て座って」
 ティナリアはそう言ってアリスを自分の座っていたテーブルの真向かいに座るように促すと、彼女は遠慮しながらも嬉しそうにちょこんと腰かけた。その間にティナリアは紅茶を淹れたポットをテーブルへ運んでくる。
「ティナリア様、そんなことは私が……」
「いいのよ。たまには自分で動かなくては」
 慌てて立ち上がろうとしたアリスの言葉を遮って、ティナリアは彼女のカップにお茶を注いだ。
「……申し訳ありません」
「いつもあなたにしてもらっているもの」
「でも……」
「いいの」
 少し強めの口調で言ってようやく黙ったアリスと顔を見合わせ、二人は互いに微笑んだ。お茶を一口飲んでからふうっと息を吐くとティナリアは静かに口を開いた。
「こういうの、久しぶりね」
「そうですね」
「昔はよく隠れてお菓子を食べたりしていたわ」
「そのあと必ず叱られましたけど」
 昔のことを思い出した二人はくすくすと笑いながら話しを続ける。穏やかな午後の陽射しが部屋の中を心地よく暖めてくれていた。
「またこんな風に出来るようになるなんて自分でも思わなかったわ」
「そう……ですね…」
 少し寂しげに表情を翳らせながらしんみりと頷くアリスを見たティナリアは、心配をかけ続けてきたことを本当に申し訳なく思い、自分の悲しみしか見えていなかったことを恥じた。

―― 私はアリスにこんな顔ばかりさせていたのね…… ――

 それから少しの間を置いてからティナリアは再び口を開いた。
「朝のことなんだけど……」
「あれはジル様が勝手に言ったことですから!」
 その言葉に朝の騒動を思い出したのか、顔を赤らめて慌てて手を振るアリスがいままでにないくらい可愛かった。
「本当に?アリスはジルを好きではないの?」
「………」
 否定も肯定もしないアリスの沈黙に、彼女の心の内を見たような気がした。俯くアリスの頭を眺めながらティナリアはふっと笑った。
「ねえ、アリス」
 優しく問うようなティナリアの声にそろそろと顔を上げたアリスは少女のような瞳で彼女を見つめた。
「私、いままであなたに心配ばかりかけてきたわ。我儘を言って迷惑かけて……」
「………」
「でもあなたはこんな私をいつも姉のように叱ってくれて、親友のように見守ってくれた……」
 一言も口を挟まずに黙って聞いているアリスの瞳にはこぼれ落ちそうなほど涙が溜まっている。ティナリアはテーブルの上に乗っている彼女の手をそっと包み込んで話を続けた。
「だからあなたには絶対に幸せになって欲しいの。私のことばかりじゃなくて自分の幸せを見つけて欲しいの」
「……ティナリア様…」
「ジルのこと、好きなんでしょう?」
「………」
 アリスの瞳から堪え切れなくなった雫がはらはらと頬を伝って落ちてくる。
「その気持ちを私のために我慢しないで。幸せになって」
「………」
 言葉はなくても彼女の涙がジルを好きだということを物語っている。
 侍女として非の打ちどころがないほど優秀な彼女はティナリアのことを第一に考え、自分の気持ちは後回しにしてずっと心の奥に閉じ込めてきたのだろう。
 ティナリアは柔らかく微笑んで椅子から立ち上がると彼女の横に行き、頬に口付けをした。
「大好きよ、アリス」
 そう言ったティナリアの頬にも涙の筋が光っていた。
 温かい気持ちの涙を流すのはいつ以来だろうか。ずっと昔に置いてきてしまった大切なものを再び手にしたような気持ちだった。






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