メイナードの屋敷で過ごしたのは一週間にも満たない短い時間だった。けれどその時間はルークとティナリアが心を通わせるのに充分なほど役に立ってくれた。
 あれから王都の屋敷へと戻ったティナリアはまだ少しぎこちないものの、ルークのそばに寄り添っている時間が増えたように思えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
 早々に仕事を終わらせて夕暮れ前に急いで帰ってきたルークはエントランスに出迎えたジルへ外套を手渡した。外はすっかり寒くなっているようで、ルークの外套はひんやりと冷え切っている。
「明日から港のほうを視察することになった。二、三日分の用意をしといてくれ」
「かしこまりました」
 軽く一礼をしたジルはにやっと口元を上げると、さりげなく辺りを見回すように視線を動かしているルークに言葉をかけた。
「ティナリア様なら書斎に居らっしゃると思いますよ」
「そうか」
 素っ気ないその返答にジルはさらに笑いをかみ殺す。それを見たルークは嫌そうに眉間にしわを寄せ、ため息をついた。
「そのためにお早くお帰りになったのでしょう?」
「いちいちうるさいやつだな……おい、いい加減その顔やめろ」
 笑いを堪えたジルの表情がどうにもからかわれているようで落ち着かない。
「失礼しました」
 そう言いながらもまだ顔には笑いが残っている。ルークはどうでもいい、という風に小さく首を振るとその場をあとにして歩き出した。向かう先は自室ではなく書斎の方向だ。
 その様子を後ろで見ていたジルは外套を手にしたまま、苦しそうに笑いを堪えていた。




 書斎はそれほど広くはないが奥行きがある為、入口からでは机のある場所が見えない構造だ。ルークは静かに扉を閉めると奥へと数歩進んでいった。
 暖炉に火を焚いているのだろう、部屋の中はほんのりと暖かく、外から戻ったばかりのルークには心地よかった。そうして奥まで進むと椅子にくつろいだように座っているティナリアを見つけた。
 ティナリアの豊かな金の髪がめずらしくゆるく結い上げられているのに気付いた。その下に覗く白く細い首筋がやけに扇情的で、ルークは思わずその後ろ姿に見入ってしまった。

―― たったこれだけで欲しくなるなんてガキみたいだな…… ――

 自嘲するような笑みを浮かべながらルークはしばらくの間、ティナリアの後ろ姿をじっと眺めていた。が、ひとり書斎に閉じこもっていたティナリアは読書に没頭しているのか、ルークが入ってきたことにも気付いていないようだ。
 痺れを切らしたルークは静かにティナリアに近付くと、横から覗き込むようにして声をかける。
「何を読んでいるのだ?」
 いきなり声をかけられて驚いたティナリアはびくっと肩を竦ませて後ろを振り返った。
「……ルーク……戻ってたのですか?」
「ついさっきな」
 悪戯が成功した子供みたいな微笑みを浮かべてそう言うとティナリアは少し躊躇ったようにしながら口を開いた。
「……お帰りなさい」
 その言葉にルークは目を丸くした。ティナリアの口から初めて聞く "お帰りなさい" の言葉に、驚きよりも照れくさいような喜びが湧き上がってくる。

―― これはけっこう……くるな… ――

 自分の顔が赤くなってないか心配になりながらも、それをおくびにも出さずにティナリアの頬に軽く口付けをする。
「ただいま」
 そう言ってやるとティナリアははにかんだように薄く微笑んだ。その笑顔がまた愛らしくて、ルークは思わずティナリアの細い体を抱き寄せてしまった。
 腕の中のティナリアが少し強張ったのを感じたが、その腕を離さずに次第にほぐれていくのを待った。しかしその腕の中に居るティナリアの身体がえらく冷たいことに気付くと、ルークは慌てて自分から離して彼女の顔を覗き込む。
「おい、身体冷えてないか?長くいるならこんな火では寒いだろう。ほら、これでも羽織っておけ」
 畳みかけるように言ってからルークは着ていた自分の上着を脱いでティナリアの肩にかけてやった。初めはびっくりしたような顔をしていたティナリアだったが、すぐに表情を和らげた。
「本に夢中になってしまってつい……ありがとうございます」
 彼女は大きすぎるルークの上着を前で合わせながら礼を言った。
「今日はお早いんですね」
「ん?ああ、明日から視察に……」
 ルークはそう言いかけてハッする。ティナリアからあんなことを言ってもらえると分かったいま、明日からの視察がひどく忌々しいものと化してしまった。
 舌打ちしそうな勢いのルークにティナリアはおずおずと口を開く。
「あの……何かあったんですか?」
「いや、明日から視察で二、三日空けることになったんだが、ちょっと気が乗らないだけだ」
 本当はちょっとどころの騒ぎではない。代打でジルを投げつけてやりたいくらいだ、と思ったがさすがにそんなことは出来るはずもなく、ルークは諦めたようにため息をついた。

―― まあ、これから時間はいくらでもあるんだし……仕事ばかりはどうしようもないか ――

 そう思ったところにティナリアの手が不意にルークの頬に触れた。
「お疲れなのでは?」
「………」
 あまりに予想外過ぎてルークは言葉が出てこなかった。
「ルーク?」
「……いや、大丈夫……」
「本当に?あ、私が上着取ってしまったし」
 そう言ってせっかく肩にかけてやった上着を返そうとしているティナリアの手を止めると、ルークはふっと笑って彼女を再び抱きしめた。
「大丈夫だ。こうしてれば暖かい」
「………」
 今度はティナリアが黙る番だった。暖炉からパチパチと跳ねる薪の音以外に聞こえるものは何もなく、穏やかな静寂が石造りの書斎に満ちていた。




「お休みなさい」
「今夜は冷えますから暖かくしてお休み下さいね」
「ええ、ありがとう」
 その返事を聞いても心配そうな顔をしていたアリスだが、ティナリアがベッドに入ったのを確認すると灯りをひとつ残したまま部屋をあとにした。

―― 今夜も来るかしら…… ――

 薄暗い天井を見上げながらティナリアはぼんやりとそんなことを思った。
 こちらに戻ってからというもの、ルークは毎晩ティナリアの部屋にやってきては共にベッドに入り、朝まで彼女を抱きしめたまま眠るというのが当たり前のようになっていた。
 ベッドを共にするといってもティナリアを抱くわけではなく、ただ寄り添ってその腕の中に彼女を閉じ込めるだけ。
 湖畔の屋敷でルークを受け入れたからにはティナリアにもそれ相応の覚悟は出来ていたのだが、この一週間、彼は全くそのような気配を感じさせなかった。
 それどころか、何かから護るように優しく包み込むその腕の中はひどく安心できる場所になった。
「……不思議な人…」
 ティナリアはまだ暖まり切らないベッドの中で身体を小さくしながらそう呟いた。しばらくはうつらうつらしていたが、逆らい難い睡魔に襲われて瞼が落ちかけたとき、部屋の扉が開いた音が聞こえた。
 起こさないように静かに近付いてくる足音を聞きながらティナリアは瞼を閉じる。彼の手が頬を撫でるとその手に擦り寄るように身動きをし、重い瞼を再び持ち上げた。
「……ルーク…?」
「ああ、すまない。起こしてしまったな」
「大丈夫……」
 ティナリアが意識のはっきりしないような声でそう答えるとルークはベッドの中に滑り込み、彼女の身体を優しく抱き抱えた。ルークの暖かさに縮こまっていた身体から力抜けていく。
「寒くないか?」
「平気です……あなたが抱きしめてくれる…か…ら……」
 身体が暖まったおかげで再び睡魔に襲われたティナリアは、うわ言のようにそう呟いてから眠りの中へと落ちていった。瞳が閉じられる前にルークの苦笑を見たような気もしたが、彼女の瞼が上がることはなかった。




 すやすやと寝息を立てて眠ってしまったティナリアの顔を見つめながら、ルークは片眉を下げて苦笑していた。
「……またそういうことを…」
 こんなことを邪気なく言われてしまうと手を出したくても出せないものだ。今すぐにでも抱いてしまいたいと思う気持ちと、宝物のように大切にしまっておきたい気持ちがルークの心の中でせめぎ合っている。
 分かっててやっているのではないか、と思ってしまうほどティナリアはルークの理性を容易く壊していく。それを崩れ落ちないようにするのがどれほど大変か。まるでティナリアに試されているようにすら感じてしまう。
 ティナリアの金の髪に顔を埋めるようにしてルークはため息をひとつつくと、観念したように彼女の細い体をぎゅっと抱きしめ直した。彼女の寝息が柔らかく肌に当たるのが少しくすぐったい。
 規則正しいティナリアの寝息を聞きながら、以前の苦しそうな彼女を思い出す。

―― もう夢は見ていないのか…… ――

 湖畔の屋敷で抱いて以来、こうして抱きしめて眠ってやるとティナリアはうなされること無く朝まで穏やかに眠っていた。
 それを思うと明日から彼女を一人にしてしまうのが不安だった。連れて行こうかとも思ったが、さすがに仕事にまで引っ張っていくわけにはいかない。
「いつからこんな過保護になったんだ、俺は……」
 自分でも呆れ返ってしまうほどだ。
 ルークは小さく苦笑すると、腕の中で静かに眠る彼女の背中をそっと撫で、自らも瞼を閉じた。






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