その日は夜になってからずいぶんと冷え込んだ。
 自室のバルコニーに出ていたティナリアの顔を目が覚めるような冷たい風が撫でていく。ティナリアはぼんやりと夜空を眺めながら今日の出来事を思い出し、その口元に柔らかい微笑みを浮かべた。

―― アリスとジル……幸せになって欲しい… ――

 昼間に見たアリスの涙が忘れられない。滅多に泣くことのない彼女が流した涙はとても美しいものに思えた。胸に抱えた様々な思いが込められているのだろう。
 ティナリアは瞳を閉じてアリスの幸せを心から願った。
 その時、突然強く吹いた風がティナリアの肩にかけてあったストールを翻していった。飛ばされそうになったそれを慌てて掴むと、ふうっと息を吐いて再び肩にかけ直した。
 だが冷たい風は薄着の服の中に入り込み、その寒さに思わず身震いしてしまう。ティナリアは一度だけ名残惜しそうに空を見上げてから部屋の中へと戻って行った。
 暖かい部屋の中でほっと一息ついてから、ティナリアは壁にかけてある時計にちらりと視線を向ける。時計の針はすでに三時をさしていた。
 もちろん屋敷の中はもうすっかり静まり返っている。ティナリア自身、普段ならとっくに眠りについているはずなのに、今夜はどうしてもベッドに入る気になれなかったのだ。

―― 怖い…… ――

 一人で眠るのが当たり前だったティナリアの生活はここ数日であまりにも変わってきていた。いまでは護るように抱きしめられて眠るのが当たり前のようになっていた。
 実際、ルークはあの夢から護っていてくれたのかもしれない。そう思えるほど、彼の腕の中では何も考えることなく安心して眠ることが出来たのだ。
 けれど今日はその暖かい腕はない。
 またあの夢を見てしまうのではないか、と思うと不安に駆られた。だからベッドに入って眠るのが怖いのだ。あの夢はもう見たくない。
「……ルーク…」
 ティナリアの口から心細そうな小さな声が零れた。

―― いつからこんなに弱くなったの…… ――

 ここへ嫁いできた頃は全てを拒み、アレンが来てくれるまで屈しないと心に決め、氷の壁で自分を守っていた。それが自分の強さだと思っていたがそうではなかった。氷を砕かれた自分はこんなにも弱かったのかと呆れてしまう。
 ティナリアはそんな自分を自嘲するような笑みを浮かべ、再び時計を見つめた。じっと眺めていても時計の針は刻一刻と進んでいくだけ。ため息をつきながら渋々ベッドへと潜り込んだが、やはり目を閉じるのが怖いと思った。
 だが、寝ないわけにもいかない。一日ならまだしも、ルークが帰ってくるのは早くても明後日だろう。それまで一睡もしないなんて到底無理な話だ。薄暗い部屋の中で何度か寝返りを打ちながら眠ろうと試みたが、そのうち諦めたように身体を起こした。
 項垂れたままベッドに腰掛けていたティナリアは、思い付いたようにぱっと顔を上げて立ち上がった。椅子にかけてあったストールを羽織り、ベッドのそばのテーブルからランプを手にして扉へと向かう。
 そっと扉を開けると廊下はひっそりと静まり返っており、起きている者は誰もいないようだった。足音をたてないように注意しながらティナリアは目的の部屋へと向かう。
 忍び足で歩いている自分を想像すると悪戯をしている子供のようでなんだか滑稽だ。
 ティナリアの部屋から真っ直ぐ歩いて三つ目の部屋。
 ノックをしなくてもその部屋の主がいないことは分かっていた。扉に手をかけると、静かにそれを開く。そこはルークの私室だった。
 この部屋に入るのは二度目だが、初めて入ったときのことはあまり覚えていない。あの時は激昂したルークに怯え、周りを見る余裕など全くなかったからだ。
 ティナリアは手に持っていたランプを中央のテーブルに置くと物珍しそうに部屋の中を見回した。
 薄暗くてよくは見えないがあまり余計なものは置いておらず、すっきりとした内装のように思える。おそらく調度品にはあまり興味がないのだろう。それがまたルークらしいと言える。
 重厚な椅子に触れていたティナリアの目が入ってきた扉とは別のもうひとつ扉を見つけた。再びランプを手にするとそちらの扉へと近付いて行く。
 カチャッと小さな音を立てて開いた扉の奥はルークの寝室だった。ベッドと小さなサイドテーブル、その上に置かれた時計と壁にぴったりと付けられた大きなタンス、それと櫛や髪紐が雑に放り投げられた鏡台。それしかない殺風景な寝室だった。
 けれどそこにはルークの匂いがまだ残っている。ゆっくりとベッドに近付き、ティナリアはそこに手を伸ばした。
 初めてルークに抱かれた場所。
 無理やり組み敷かれ、死んでしまおうかと思うほどの苦痛を強いられたこの場所に自分から来ることなど絶対にないと思っていた。
 ティナリアは躊躇いながらシーツを捲ると、誰もいないと分かっているにも関わらず誰かの目を気にするかのように左右に視線をやり、恐る恐るその中へ滑り込んだ。
 シーツに包まりながら身体を小さく折りたたむ。鼻にかかるまでシーツを引き寄せ、静かに息を吸い込むとルークの匂いが感じられた。

―― なんでだろう…… ――

 あの時の恐怖が甦るだろうかと不安に思っていたが、ティナリアの心の中はその反対だった。ルークの匂いが残るシーツに包まりながら横になっていると、まるで彼に抱きしめられているような安心感が広がった。
 湖畔の屋敷でルークを受け入れたことでそれまで彼がしてきたことをも受け入れたというのだろうか。いろいろなことが頭に浮かんだが、ティナリアは深く考えるのを止めにした。

―― 今はこの安心感を手放したくはない ――

 そうして安堵した途端、いままで耐えてきた眠気が一気にティナリアに襲いかかってきた。
 いつの間にか眠りについていたティナリアが夢を見ずに穏やかな朝を迎える頃、誰もいないティナリアの部屋を見てアリスが慌てふためいたのは言うまでもなかった。




「ティナリア様、いままでどちらに?」
 恐る恐る部屋に顔を覗かせたティナリアはアリスに勢いよく詰め寄られた。夜中まで眠れなかったせいで起きるのが遅くなってしまい、いつもアリスが来る時間までに戻れなかったのだ。
「あ……その…明け方に目が覚めてしまったから書斎に…」
 思わず嘘をついてしまい、ティナリアはバツの悪い顔をした。それに気付いたアリスが胡乱気な視線を向ける。
「書斎?先程探しに行ったときはいらっしゃいませんでしたが」
「行き違いになったんじゃないかしら」
「……ティナリア様?」
 嘘を吐いた手前、引っ込みがつかなくなって書斎にいたと言い張るが、細めた目でじっと見つめられ内心冷や汗をかいてしまう。白状しようかとした時、深いため息と共にようやくアリスの視線が外された。
「まあそういうことにしておきましょう。それにしてもこんな薄着でふらふらとして、お風邪を召しますよ!」
「ごめんなさい。でもほら、大丈夫だから」
 アリスの心配を取り除こうと明るく言ったのが余計にまずかったらしい。アリスは怒るのを通り越して呆れ返ったようにティナリアを眺めた。
「全く……ティナリア様は戻らずとも良いところまで戻ってしまわれたようですね。昔の悪戯っ子が帰ってきてしまいましたわ」
 ため息をひとつついてからアリスはそう言って呆れながら笑った。それにつられてティナリアも微笑みを浮かべる。
「本当ね。気を付けるわ」
 そう言ったものの、その夜もティナリアはこっそりとルークの部屋に忍び込み、彼の匂いに包まれて眠りについた。




 港には活気があり、行き交う人の数も相当のものだった。王都に近い港は諸外国からの物資の流通が盛んで、それ故、商業も盛んに行われている地域である。人々は皆、活き活きとした顔をしている。
「いい街ですね」
「ええ。最近はこの港が主になって取引しているから、いま一番活気のある場所だと思いますよ」
 この港を取り締まっている地主がルークに答えた。次期総督となるルークの視察とあって緊張しているのか、彼はこの寒い中でも汗をかいている。
「ただこれだけの人ですから、何かと面倒事も起きますがね」
「そうでしょうね。こちらにももう少し人員を配置出来るようにかけ合っておきます」
 地主の言葉に頷きながらルークはそう言った。昨日、今日と辺りを歩いてみたが、警備に当たる兵の数もこの規模の港にしてはあまりに少ないように思えたのだ。
「それはありがたい。どうぞお願いします」  彼は丸い顔に人のよさそうな笑みを浮かべて丁寧に頭を下げる。
「あとは……」
「ああ、もう結構です。大体の現状は分かりました。あとは自分で歩きながら見ていきますので、あなたの手を煩わせる必要もないでしょう。世話になりました」
「滅相もございません。では何かございましたら何なりとお声かけ下さいませ」
「ありがとう」
 そう言って彼が去っていくのを見届けたあと、ルークは再び通りを進み始めた。

―― こういう場所に来たことはないだろうな ――

 王都とは違うこの活気を見たら彼女はどんな顔をするのだろうか、と屋敷に残してきたティナリアを思い、ルークは口の端を上げる。
 そんなことを考えながら小さなテントを張った露店が立ち並ぶ市場を歩いていると、ふとルークの目にあるものが留まった。ルークは思わず道端にしゃがみ込み、それを手にとってまじまじと見つめた。
「それが気に入ったかい?」
 壮年の女性がルークに声をかけてきた。冷たい潮風に晒された手は赤くひび割れていたが、彼女の声には苦労の色は見えなかった。
「綺麗に澄んだいい色だろう」
 繊細な銀のベッドに付けられているそのネックレスを光にかざすと、ほとんど透明に近い、淡い美しい青がキラキラと輝いた。ルークはまるで見入ってしまったようにじっと眺めていた。
「でも見たところあんた、王都の人だろう?こんな市場よりもいい店があるんじゃないかい?」
「この石は王都で見たことがない」
「ああ、そうだろうね。これは本来あまり使われないんだよ。石が柔らかくて装飾品には向かないのさ」
「へえ」
 そう返事をしてからルークは再びネックレスに目を向けた。それを見つめる眼差しが優しくなっていたことにルークは自分でも気付いていないようだ。それを見ていた店主が楽しそうに笑う。
「……この石の言葉は "喜び" なんだよ。いまのあんたにはぴったりかもね」
 そう言われてハッとしたルークは苦笑いしながら上着の内側から銀貨を取り出した。それと一緒にネックレスを店主の手に渡す。
「これを貰おう」
「はいよ。あんまり乱暴にすると割れてしまうから気をつけておくれ」
 そう言って店主はネックレスを柔らかい布に包み、丁寧な手つきで小さな木箱に入れて手渡した。
「分かった」
「大事にしてやんな」
「ああ」
 店主はネックレスのことを言ったのではないのだろう。ルークは再び困ったような笑みを浮かべて店主に答え、腰を上げた。




 その夜、宿のベッドに横になりながら昼間に買ったネックレスの木箱を眺めているルークの姿があった。
 高価なものではあるが王都で売っている装飾品に比べたら全くの安物だし、箱だって細工が施してあるような美しいものでもない。けれど何故かこの石にたまらなく惹かれてしまった。
 一見、透明に見えるがよく見ると淡く澄んだ青をしている。ティナリアに似合うと思った。

―― "喜び" か…… ――

 店主の言った言葉を思い出し、ルークはふっと笑った。
 確かにいまの自分にぴったりの言葉だと思う。
 欲しくて欲しくてたまらなかったものが手に入った喜び。それをひしひしと感じながら、もう眠っている頃だろうか、とティナリアに想いを馳せた。
 目を閉じればティナリアのあどけない寝顔が浮かんでくる。彼女を抱きしめて眠ることに慣れてしまったルークは、抱くものがいなくて持て余したように自らの腕を投げ出した。
 明日の夜中には屋敷に戻れると思うことでなんとかこのやり切れなさを凌ぎ、ルークは大人しく夜明けを待った。






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