ルークが去った部屋の中でティナリアはぼんやりと彼が出ていった扉を眺めていた。朝陽だけが音もなく部屋に入り込んでいる。
 しばらくして寒さを感じたのか、ティナリアは小さく身震いすると、ルークが投げてよこした服を身につけようと身体を動かした。その身体には何とも言えない気だるさが残っているはが、今までのように不快なものではなかった。
 不快どころか、その気だるさから初めて抱くように優しく触れた手を思い出してしまってティナリアはひとり頬を染めた。誰も見ていないというのに、ティナリアは隠すように片手で頬を覆う。

―― あんな風に触れるなんて…… ――

 大切にされている、と自惚れではなく自信を持ってそう思えるほど、ルークはその身体を慈しんで触れていた。その手はあまりに温かく、不安定だったティナリアの心を落ち着かせてくれた。
 そんなことを考えていたせいで着替えようとしたティナリアの手が再び手が止まる。そのとき扉の向こうから控えめに訪ねてくるアリスの声が聞こえてきた。
「ティナリア様、お目覚めですか?」
「あ……ええ、起きてる…」
 咄嗟とっさにそう答えてからティナリアは自分がまだ一糸纏わぬ状態だということに気付き、慌てて服を手繰り寄せたが間に合うはずもない。扉を開けて入ってきたアリスが目を見開いて立ち止った。
「……あの…これは……その…」
 この状況をどう説明していいのか分からず、ティナリアはしどろもどろになりながら意味のない言葉だけを呟いた。
 しかしアリスのほうは驚いたのは一瞬だったようで、ふぅっと小さく息を吐き出すと何も言わずにクローゼットに向かい、新しいドレスを選び出してからティナリアのもとへと戻ってくる。
「まったく、ルーク様はこんな恰好のままティナリア様をほったらかしたのですか?」
「え?……いや…あの…」
 全く予想外の方向に怒り始めたアリスにぽかんとする。
「ティナリア様がお風邪を召されたらどうするおつもりかしら。女性の扱いがなってないですね」
 困惑するティナリアを余所にアリスは遠慮なくルークに文句を言っている。まるでいつものことだとでもいうようにその口調は自然だった。
「さあ、早くこちらにお着替え下さいませ。いつまでもそのような格好でははしたないですよ。ほらこんなに冷たくなって」
「アリス……怒ってない…の…?」
 おずおずと聞いてくるティナリアに対して、アリスは腰に手を当てて呆れたようにため息をついた。
「怒っているじゃありませんか。お風邪を召されますって」
「そうじゃなくて……その…」
 アリスを窺うように見上げたティナリアはアリスが微笑んでいるのを目にした。その表情でアリスは全部気付いてるんだと分かった。
「どうして私が怒るのですか。前にも申しましたよ?私はいつでもティナリア様のお味方ですって」
「でも……」
「ティナリア様が信じたものを私も信じます」
「……アリスが嫌っていたものでも?」
「はい」
 きっぱりとそう宣言するアリスの瞳はまっすぐにティナリアを見つめている。嘘や遠慮はひとつも見当たらない。

―― ほんと……アリスには敵わないわ…… ――

 心の中でそう思いながら、ティナリアは自然と柔らかく微笑んでいた。
 アリスにはいつも笑いかけてあげたかった。それが出来なくて歯がゆい想いもしたが、いまはもう微笑む術すべを取り戻したのだ。ティナリアはしっかりとアリスに向かって微笑んだ。
 それを見たアリスは驚いたように口元に手を当て、泣きそうな顔で笑った。アリスの嬉しそうな顔はティナリアの心まで嬉しくさせる。柔らかな空気が流れ、しばらくしてアリスは穏やかに口を開いた。
「誰もティナリア様を責める者はいません。それに、私はこうなってよかったと思っております」
「どうして?」
「いまのティナリア様のお顔を見られただけで嬉しいですから」
「アリス……」
 いつも明るいアリスの瞳に薄っすらと涙が浮かんでいるように見えた。ティナリアは思わずアリスの手をとり、彼女を見上げた。
「ありがとう」
「……さ、ルーク様がお待ちですよ。お早くご用意しましょう」
 しんみりしかけた空気がアリスの一言でがらりと変わる。

―― アリスの明るさはいつも私を救ってくれる…… ――

「ええ、そうね」
 ティナリアもいつになく明るい気持ちで答えると、アリスが用意してくれた服に袖を通した。
 着替え終わっていつものようにアリスに髪を梳いてもらいながら、鏡に映る自分の姿がいつもと違うように感じられた。色は失われたままなのに自分の顔が明るく見える気がする。
「どうかされました?」
 じっと鏡を見続けるティナリアに気付いてアリスが声をかけると彼女はハッとしたように首を振った。
「何でもないわ」
「そうですか?でも今日はティナリア様、お顔の色がよろしいですね」
「本当?」
 アリスは声に出さずに笑顔で答えた。
「さ、参りましょうか」
 そう言ったアリスに、ティナリアも微笑みで答える。

―― でも……大丈夫かな…… ――

 ただひとつ、ティナリアが心配だったのはルークの顔をちゃんと見られるかどうか、ということだった。
 夢心地でぼんやりとしていた思考がはっきりとしてきた今、ティナリアの中には恥ずかしさがこみ上げてきて、まともにルークの顔を見ることなんて出来そうになかった。




 ティナリアとルークがいつものように散歩に出かけたあと、アリスは居間の片づけをしていた。ここに居るのも今日が最後だと今朝ルークが言っていたので、念入りに磨き上げる。
 ふと出ていくときの二人の姿を思い出したアリスは掃除の手を止めてくすっと笑った。

―― ルーク様のあのお顔……すっかりティナリア様に参ってるわね…… ――

 少しぎこちない二人の様子が逆に微笑ましく思えて、姿が見えなくなるまでつい眺めてしまった。
 昨日までルークの数歩後ろを歩いていたティナリアが今日は彼の半歩後ろ、ほぼ隣を歩いていることに驚きながらも、アリスは心の中で安堵した。
 それに今朝のティナリアの様子からはほんの少しだけだが、まるで昔の彼女を思い出させるような雰囲気があった。自分に怒られるのではないかと恐る恐る聞いてくる様子や、喜びを含んだ声、それら全てが昔を彷彿とさせる。
「ルーク様のお陰……ね…」
 目元に浮かんだ涙を拭いながらアリスはふっと小さく笑って独ひとり言ごちた。
「何がですか?」
 部屋に誰もいないと思っていたアリスは心臓が止まりそうなほど驚き、パッと後ろを振り返った。すぐ真後ろにジルが立っていて、思いもよらない近さにさらに驚かされた。
「あ、すみません。驚かせてしまいましたね」
「いえ……あの…いつからここに?」
 本当に気配を感じなくて、アリスは恐る恐る聞いてみる。驚きすぎて心臓がバクバクと跳ねているのがよく分かる。
 そんな彼女に対して、ジルはなんてことない風に笑って答えた。
「アリスさんの姿が見えたので声をかけようとしたんですが、嬉しそうに微笑んでいたからなんとなく見入ってしまって」
 一人で思い出して微笑んでいたところまで見られていたことに気付いて、アリスは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「……お見苦しいところを…」
「いいえ?見惚れてたんですが?」
「………」
 あまりにストレートな物言いにアリスは頬が朱に染まる。しかし彼の表情は至って穏やかでアリスもつられて表情を和らげた。
「今朝は雰囲気が違いましたね」
「え?」
「ルーク様とティナリア様ですよ。やっとルーク様も素直になられたかな」
 ルークよりも年下のジルが、まるで反抗期の弟を心配している兄のような口ぶりでそんなことを言うから、アリスは可笑しくなってつい笑ってしまった。
「ふふっ、まるで兄弟のようですね」
「そちらも、じゃないですか?」
 その言葉が嬉しくて、アリスは礼を言う代わりにジルに向かってやんわりと微笑んだ。
「それと……先日はありがとうございました」
 唐突にそんなことを言われたジルは何の事だか分からないようで、首を傾げてアリスを見つめた。その視線に鼓動が速くなるのを感じながらも、平静を装ってアリスは言葉を続ける。
「ジル様の後押しがなければルーク様に任せることなど出来なかったかもしれません。そうしたらきっといまのティナリア様もいなかった」
「ああ、そのことですか」
「ティナリア様、微笑わらっておられたんです……あんな風に微笑まれたのはいつ以来かしら……」
 そう言ってアリスは記憶を思い起こすようにゆっくりと瞬きをした。
「それでさっき "ルーク様のお陰" と言っていたんですね」
「ええ」
「まあ、確かにルーク様のこともあるでしょうけど……あなたも充分支えになっていたと思いますよ」
「……だといいんですが」
 少し自信がなさそうに微笑みながらそう言ったアリスの頬に手が添えられ、反対側に柔らかいものが触れた。アリスは驚きで声も出せずにただ硬直したまま、ジルの唇が離れるのを待った。

―― なに……どうなって…… ――

「なってましたよ。ティナリア様に嫉妬してしまいそうなほど……ね」
 唇を離したジルはアリスの耳元でそう囁くように言うと、驚きに身を硬くした彼女に向かって片目を瞑つむってみせる。それと共にアリスの頬が染まっていった。
「さて、片付けましょうか。今日のうちに終われば明日の朝が楽ですから」
「……そ、そうですね」
 気を取り直したようにそう言ってはみたものの、アリスは恥ずかしさのあまりジルのほうを見ることが出来なかった。アリスがここまで狼狽えている姿は滅多に見ることが出来ないだろう。
「私は書斎のほうを見てきます。こちらは任せても?」
「あ……はい、大丈夫です」
 あからさまにホッとした顔をするアリスにジルが再び追い打ちをかけた。
「これであのお二人もやっと落ち着くでしょうから、私も遠慮せずに意中の人を口説けます。覚悟して下さいね、アリスさん」
「………」
 もう返す言葉も思い付かずにアリスは真っ赤になって俯いた。ジルはその様子を楽しそうに眺めていたが、名残惜しそうに彼女の髪を撫でると居間をあとにし、書斎のほうへと歩いて行った。
 ジルの足跡が遠くなるまでアリスは身動きが出来ないまま、自分の身に起こったことを整理していた。が、所詮、真っ白になってしまった頭の中では整理出来ようはずもなかった。






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