「お休みなさいませ」
「……お休みなさい」
いつものように寝る前にハーブティーを淹れてくれたアリスがそう言って部屋を出ようと扉に手をかけた。
「ねえ、アリス」
「はい?」
「……ううん、なんでもない」
呼びかけに振り向いたアリスに曖昧にそう答えるが、彼女は不思議そうに首を傾げながら扉の前に立ち止まったまま出て行こうとはしない。ティナリアは自分の手元に視線を落として黙っている。
昼間のルークの言葉が夕食のときも、そして今も頭から離れなかった。考えようとしても頭はうまく働いてくれないようでぐるぐると同じところを回っている。
"お前が欲しい"
ルークが言ったその言葉の意味がわからないほどティナリアはもう子供ではなかった。熱っぽい彼の表情が瞼の裏に残ったまま、時間だけが過ぎていく。
だが、昼間ルークに向かって微笑んでいたことに自分で気付いていないティナリアは、あの日から触れようとしなかった彼がどうして突然そんなことを言い出したのか分からず、ただ困惑する一方だった。
それにティナリアが知っているあの行為はただ恐ろしく、抗えない快楽に無理やり突き落とされるというだけのものであった。
欲しいと言われても素直に頷くことなど出来ない。
―― どうしたらいいの……? ――
そんなことを悶々と考えていたティナリアの手の上にアリスの手が重ねられた。顔を上げるとアリスは床に膝をついてベッドに腰かけていたティナリアを見上げている。
「……ティナリア様、こちらに来られてからお顔が明るくなられましたね」
「そう……かしら…」
「ええ。ですからあまり考え過ぎないで下さいませ」
「………」
ティナリアは黙ってじっとアリスの顔を見つめた。アリスにはなんでもお見通しなのだ、とつくづく思う。昔からなにも変わっていない。
困っていることがあればすぐに助けてくれた。迷っていることがあればいつでも相談に乗ってくれた。悪戯をしてもアリスにはすぐ見つかってしまった。
そんな彼女だからこそ、ティナリアがいま何かに悩んでいるのだとすぐに分かってしまったのだろう。
「すぐにご自分で抱え込んでしまわれるのはティナリア様の悪い癖ですわ」
「……でも」
「難しく考えずとも、ご自分のお心に真っ直ぐにいればきっと大丈夫ですよ」
「………」
アリスがにっこりと微笑むのを見ると本当に大丈夫な気がしてくる。ティナリアは素直にこくりと頷いた。
「ありがとう」
「いいえ。私はいつでもティナリア様のお味方ですからね」
そう言ってアリスは片目を瞑って見せる。そして立ち上がるとティナリアの肩に掛けられていたストールを優しくかけ直してやった。
「では私はこれで失礼致します。ゆっくりお休み下さいませ」
「お休みなさい」
アリスが扉の向こうに消えるまでティナリアはその背を見送った。
―― 自分の心に真っ直ぐに…… ――
しかし、従うべき自分の心が分からないときはどうしたらいいのだろう。
ルークの優しさに気付いたとき、いままでにない不思議な気持ちが胸の中に広がったのを覚えている。そしていまでは彼がそばにいることで安心している自分がいるということにも気付いていた。
だけど心の中にアレンがいるのも確かだ。
ずっと想い、慕ってきた人をそんなに簡単に消すことなんて出来なかった。消えないからこそ辛いのだ。
ティナリアは立ち上がってカーテンを開けると月の浮かぶ夜空を見上げた。ずいぶんと冷え込んでいるようで、開け放った窓からは冷たい風が入り込んでくる。
吐き出す息は白く、すぐに闇に溶けて消えてしまう。それをぼんやりと見ながら、ティナリアはこれから起こるであろうことを考えた。
―― 早くしないと来てしまう………でも…… ――
心を決めることも、ここから立ち去ることも出来ないまま、張り付いたように窓辺から動かなかったティナリアの耳に控えめに扉を叩く音が届いた。
ティナリアは息を呑みながらそちらを振り返ると、ゆっくりと開いていく扉をじっと見つめた。
開いた扉の向こうから暗闇に紛れるような漆黒の髪がランプの光に照らされながら入ってくる。扉からは死角になっているのか、ティナリアの姿に気付いていないらしく、彼の視線は椅子からベッドへと向けられていた。
ため息とともに肩が下がったように見えたルークの視線が窓辺にいるティナリアの姿を捉えた瞬間、彼は驚いたようにその場に立ち尽くした。
ルークは皆が部屋に下がった時間を見計らってティナリアの部屋へと向かった。
彼女の部屋の前に立ち、小さく扉を叩いた。が、返事はない。まあいつも返事が来る前に開けて入っていたが、いまはさすがに少し緊張しているようだった。
―― この俺が緊張するなんてな…… ――
そう思って苦笑いしながらその扉をそっと開けると部屋の中に目をやった。
椅子にもベッドにもティナリアの姿はなく、やはり他の部屋へ行ったのだろう、とルークは肩を落とした。こうなることは予想出来ていたし、期待もしていなかったが、やはりそれでも、という気持ちがなかったといえば嘘になる。
小さくため息を吐いたとき、ふと冷たい風が足元を撫でていったのに気がついた。
窓を閉め忘れたのかと思ってルークがそちらに視線を向けた瞬間、彼の目は信じられないものを見たように大きくなり、それにくぎ付けになった。
「……ティナリア?」
「………」
夢でも見ているのかと思った。いるわけがないと思っていたティナリアがいま目の前にいる。
ルークはゆっくりとティナリアのほうへ歩いて行くと彼女の頬にそっと触れた。どれほどの間、窓のそばにいたのだろうか。その白い肌は冷たくひんやりとしていた。
「冷えてしまうぞ」
そう言って窓を閉めながらルークはちらりと後ろを振り返った。
ティナリアは何も言わずに顔を伏せていて、その小さな背中が、細い肩が、さらに儚く見える。いまにも消えてしまいそうな幻のようだ。
ルークは思わず後ろから抱きしめて、月の光を纏ったティナリアのシルクのような髪に自らの顔を埋めた。
「いてくれるとは思わなかった」
「………」
「おいで……」
ルークは一切抵抗する素振りのないティナリアを軽々と抱き上げると部屋の中を横切り、ベッドの上に彼女を降ろした。
顔を伏せたまま、視線を合わせようとしないティナリアの肩をそっと押してその華奢な体を静かにシーツへと沈めた。古めかしい重厚なベッドがギシッと鈍い音を立てる。
胸の前で合わせてぎゅっと握りしめているティナリアの手をとると、ルークはその指に口付けを落とした。
「……ティナリア…」
囁くように呼んだその声に、ようやくティナリアが伏せていた瞳をルークに預けた。迷いが浮かぶその瞳が少し潤んでいる。その表情は何ともいえず艶っぽく、ルークはすぐにでも抱いてしまいたい衝動に駆られた。
だが以前のように抱きたくはなかった。体だけの虚しい行為。ティナリアの泣く顔はもう見たくはない。
ルークはティナリアの額に、瞼に、そしてその柔らかな唇に口付けを落としていく。ついばむように軽く、そしてティナリアの唇が自然と開くのを待って、ゆっくりと彼女の口内へと侵入した。
「……ん…っ……っ…はぁ……」
何度も何度も貪ってからようやく唇を離すとティナリアの唇から甘い吐息が零れた。その声だけで理性が飛びそうになる。
どうにか堪えながら胸元で留められているネグリジェの紐を解いてやると、薄い布はするりと落ちてティナリアの陶器のような肌が露わになった。恥ずかしそうに手で隠そうとする仕草がたまらない。
耳元から首筋に唇を這わせ、白い肌にいくつもの痕を残していく。それだけでティナリアが自分の所有物だという安っぽい独占欲が満たされる。
ルークはティナリアの手を優しく除け、その柔らかな膨らみに手を添えた。
「…っ……」
ルークは小さく反応したティナリアの弾力のある胸を揉みながら、肌を伝って下りてきた唇にその頂きにある薄紅色の小さな実を含ませた。舌先で転がすように吸いつき、優しく咬みついては甘い刺激をティナリアに与えてやる。
「あっ……っ…ん…」
思わず零れるティナリアの声がさらにルークの劣情を駆り立てる。声を我慢しようとしたのか、ティナリアは押さえるように手の甲を口元に当てたが、ルークはその手をとってベッドの上へやんわりと縫いつけた。
「抑えるな」
「や……あっ…」
遮るものを失ったティナリアの口から再び甘い声が零れる。ルークの手は一所に留まることはなく、滑らかな肌の上を何度も撫で上げた。
「……っ…あ……ん…っ…」
ティナリアの声がやけに甘く聞こえる。
無理やり組み敷いたときに上げていた声と、いまルークの下で堪え切れないといった風に零れている声とでは違うように思える。
―― 受け入れてくれたのか……? ――
顔を背けながら必死に堪えているティナリアの声がもっと聞きたくて、ルークは彼女の足に手を伸ばす。すでに蜜を含んだそこに指を滑らせるとティナリアの体がビクッと強張った。
「…やっ…っ………あ…の……」
甘かった声が急速に熱を失い、小さく震えた。
以前、乱暴に抱いていたときの痛みと恐怖を思い出してしまったのか、それまでの表情が一変してティナリアの瞳に怯えの色が映る。
その瞳を見たルークはいままで自分がティナリアにしてきたことを心の底から悔いた。力尽くで男を知らない無垢な体を貪り、その行為で彼女にどれだけ怖い思いを強いていたのか、改めて痛感させられた。
「……すまない……」
ルークは手を止めて彼女の柔らかな胸の間に顔を埋めた。漆黒の髪が白い肌の上に広がる。彼女の呼吸に合わせて上下する胸の上で、ルークはまるで赤子のように心地よい安らぎを感じた。
―― これで十分だ…… ――
強引だったかもしれないが、頑なに心を閉ざしていたティナリアがここまで許してくれたのだ。それだけで奇跡的だろう。
「無理強いして悪かった」
そう言って体を起しかけたルークを引き止めたのは他の誰でもない、ティナリアだった。
ティナリアは小さく首を振ると何かを決意したかのように瞳を閉じて、ぎゅっと握りしめていた手の力をゆっくりと抜いた。
「……いいのか…?」
「………」
ティナリアは静かに瞳を開けるとほんの少しだけ微笑んだ。震える睫毛についた涙の雫が薄明かりを纏って宝石のように光っている。その姿がルークにはまるで女神のように映った。
醜い嫉妬と欲望で力任せに手折ってしまった花が、いま自分に向かって微笑んでいる。
触れたら壊れてしまいそうなほど華奢な体をぎゅっと抱きしめ、ルークは彼女に優しく口付けた。
言えるわけがない。
ボロボロになるまで傷付け、追い詰めた自分にそんな資格なんてない。
ずっとそう思ってきた。
いまでもそう思っているはずなのにティナリアの微笑みに心を奪われた瞬間、その言葉はルークも気付かないうちに彼の唇から音となって紡ぎだされていた。