次の日もその次の日も、ルークはティナリアのそばにいて屋敷のまわりを散歩したり、部屋の中でただ黙ってふたりで読書をしていたりと穏やかに過ごしていた。
 ティナリアも緩やかに流れるそんな時間が嫌ではなかったし、むしろルークがそばにいてくれるのは気持ちが落ち着いた。しかしティナリアには疑問に思うことがひとつあった。

―― ここに来たのは仕事って言ってたのに…… ――

 そう、ルークは確かに仕事でと言っていた。ティナリアは自分を連れてきたのだから夜会ではなくても誰かと会ったり、会食などがあるものだと思っていた。
 それなのにここに来てからもう三日も経つが、ルークはそういった素振りを一向に見せない。思い返せば来る時の馬車の中で "仕事で?" と聞いたときのルークの反応がおかしかったような気もする。
 ルークが何を考えているのかさっぱりわからないティナリアは腑に落ちないまま部屋を出て階下に降りた。屋敷の中は一通り案内してもらったのでいまはもう一人で歩き回っても迷うことはない。
 屋敷の外れにある書斎に行こうかと角を曲がったとき、向こう側から歩いてくるジルの姿を見つけた。
「おや、ティナリア様、どちらへ?」
「書斎に……」
「左様でしたか。私が何か取って参りましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
 ジルはティナリアの返事ににこりと微笑むと軽く一礼した。
「では失礼致します」
 そう言ってジルはティナリアに背を向けた。その背を見ていたティナリアはふとあることに気がついた。

―― 彼なら何か知っているかも…… ――

 そしてティナリアは思い立ったようにジルに声をかけて彼を引き止めた。
「あの……待って」
「はい?」
 ジルは歩いていた足を止めて再びティナリアに向き直る。少し離れた距離を埋めるようにティナリアはジルのほうへと歩いて行った。
「あの……」
 咄嗟に呼び止めたはいいがなんて聞いたらいいのか分からずに、ティナリアは視線を落として口籠った。ジルは急かすようなことはせずにティナリアが喋り出すのをじっと待っている。
「……あの方がここへいらした理由を……知ってますか…?」
「あの方?ルーク様ですか?」
 ティナリアはこくんと頷くと、思い切って気になっていたことを聞いてみた。
「仕事でこちらに来ると仰っていたのに、そんな御様子が見えないので……」
「……仕事?」
 その言葉を疑問形で返してきたジルをティナリアは不思議そうに見つめた。
「違うんですか?」
 しばらく黙りこんでいたジルの肩が小刻みに揺れ、同時に堪え切れないというように噛み殺した笑い声を零した。
「…くっ……失礼……いえ、仕事で間違いないと……っ…」
「あの……?」
 ジルの笑いはなかなか治まらず、どうしていいものかとティナリアが困惑していると、遠くから聞きなれた足音が近付いてきた。
「おい、ティナリアを見なかったか……と、なんだ。ここにいたのか」
「あ……」
 ルークはまだ苦しそうに笑いを堪えているジルを怪訝な顔で一瞥した。
「何をそんなに笑ってるんだ?」
「いえ……っ…ルーク様…だめですよ」
「何がだ?」
 ジルの言葉にルークはさらに顔を顰める。ジルは一度大きく息を吸い込むとようやく笑いを引っ込めてティナリアの言葉を代弁した。
「ティナリア様はこちらにいらしてからルーク様がお仕事をされているご様子がないと心配しておいでです。早いとこ "お仕事" に取りかかったほうがよろしいのでは?」
 ティナリアにはジルがわざと仕事という言葉を強調して言ったように聞こえた。ちらっとその顔をのぞくといつもの柔らかい微笑みではなく、からかうような笑みが浮かんでいる。
 その視線を今度はルークに向けるとこちらは気まずさと恥ずかしさを混ぜたような複雑な表情をしていた。
「……お前、分かってて言ってるだろう」
「ええ、もちろん」
 隠すように手で顔を覆ったルークに向かってジルがにっこりと微笑む。
「……さっさと仕事に戻れ」
「言われずとも。ルーク様も早いとこ……」
「うるさい」
 ルークはジルの言葉を最後まで聞かずに不機嫌にそう言うと、隣で困惑したままこの状況を見守っていたティナリアの手をとって歩き出した。
「あ……あの…」
「………」
 ルークがいつもより大股で歩くから、手を引かれたティナリアは小走りでそのあとを付いていかねばならなかった。屋敷を出てからも無言のまま歩き続けるその後ろ姿はまるで怒っているかのようだった。
「……あの……ごめんなさい…」
 ティナリアのその言葉にようやくルークは立ち止った。
「なぜ謝る」
「私が余計なことを聞いたから……怒っているのでしょう?」
 ゆっくりとルークがティナリアを振り返る。その表情には確かに怒りの色はなく、どちらかといえば無理して不機嫌を装っているように見えた。
「……怒ってない」
「………」
 真意を探るようにティナリアが訝しげに見ているとルークは頭を掻きながら視線を逸らした。
「そういえばまだ湖畔に行っていなかったな。これから行ってみないか」
 急に話題を変えたルークが妙に不自然に思えたが、ティナリアは大人しく彼に従う。
「はい」
 湖畔への道は歩きにくく、ルークが手を引いたままでいてくれなければ何度か転んでいてもおかしくないだろう。自分の手を気遣うように包み込んでいるルークの手を見つめながら、ティナリアはさっきのジルとの会話を思い出す。

―― やっぱり変だった…… ――

 そう思うけれど話を逸らされた以上、もう訊ける雰囲気ではない。仕事ではないのならばいったい何の為にわざわざこんなところまで来たのだろうか、と疑問だけが残った。
「着いたぞ」
 ぼんやりと考え込んでいたティナリアをルークの声が引き戻した。そして伏せていた顔を上げた瞬間、ティナリアの瞳に飛び込んできたのは高くなった太陽の光を眩しいほどに跳ね返している美しい湖だった。
「……綺麗…」
 ティナリアは一言そう呟いただけでそれ以上の言葉は出てこなかった。
 ここに来るまで一度も湖を見たことがなかったティナリアにとってその美しさは神秘的ともいえた。周りにはすらりとした木が立ち並び、湖面にその姿を映し出している。見なれている海とは違う特有の空間がそこにあった。
「湖は初めてか?」
「………」
 言葉がないまま、小さく頷く。
「周りの紅葉もいまが見頃だな。湖面に映る紅葉が綺麗なんだ」
「……見てみたい…」
 ティナリアは初めて色が見えなくなってしまったことを残念に思った。白黒の瞳にも美しいと思えるこの景色が色鮮やかに見えたのならどれほど美しいのか。それが見られないということが悔しい。
 そう思いながら湖を見つめていたティナリアの肩にバサッと上着が掛けられた。上着からはルークの匂いがした。ティナリアは湖から視線をはがすとルークを見上げた。
「また来年も来ればいい。再来年でも、その次でも……お前に色が戻るまで何度でも連れて来てやる」
 優しく微笑みながらそう言ったルークの言葉がティナリアの中に染み込んでいった。そしてその言葉が呼び水となってここへきてからの彼の言葉や行動が脳裏に浮かんできた。

"ルーク様が一緒にとお誘い下さったのですよ"
"何も気にすることなく、ゆっくり休め"

 色の見えない自分を気遣って鳥の色を教えてくれたことや、包み込むように引いてくれた手。
 それらを思い出したティナリアは、ジルがあんなに笑った訳がようやく分かった。

―― 仕事で来たんじゃない……私の為に…… ――

 ルークはここへ来る前、少し疲れた顔をしていた。その理由もいまならよくわかる。
 総督の補助をしているルークが三日も四日もこんな所へ来られるほど暇があるとは思えない。ティナリアをここへ連れてくる時間を作る為に無理をして仕事をこなしてしたのだろう。
 分かりにくい不器用な優しさ。それに気付いたいま、ティナリアの心に温かいものがふんわりと広がった。
「冷えてきたな。そろそろ戻ろうか」
 そう言って再びティナリアの手をとったルークは歩き出そうとしたが、ティナリアが動かないのに気付いて後ろを振り返った。
「どうし……」
 ルークの言葉は途切れたまま、宙に消えていく。それと同時に彼は目を見開いた。
「…………ありがとう」
 そう言ったティナリアの顔には柔らかい微笑みが浮かんでいた。




 ルークは自分の目が信じられなかった。

―― ティナリアが微笑わらっている…… ――

 彼女が微笑む顔は何度も見てきた。だがそれは自分が強制した偽りの笑顔。そして相手を殺してやりたくなるほどに欲しいと思っていたティナリアの笑顔はアレンのものであった。
 しかし、いま目の前にあるのは偽りの笑顔ではなく、アレンに向けられたものでもない。正真正銘、ルーク自身に向けられたティナリアの本当の笑顔だった。

"ありがとう"

 ティナリアは確かにそう言った。
 だが、ルークとしては彼女に恨み事を言われるなら分かるが、礼を言われるようなことは何一つ思い当たらない。どうしてティナリアは礼を言って微笑んでくれたのか、いくら考えても分からない。
 というよりも微笑みを目にした瞬間、ルークはもう何も考えることなど出来なかった。気付いたら彼女の体を抱きしめて、その柔らかい唇に口付けを落としていた。
「……っ…」
 驚いたティナリアの体が強張ったのにも気付いてはいたが、もう自分を制御することは不可能だった。息を吸おうと薄く開いた彼女の唇を貪るように何度も何度も口付ける。
「……ん………はっ…」
 思わず漏れたティナリアの声でようやく我に返ったルークはゆっくりと唇を離すと彼女の腰に手を置いたまま、項垂うなだれるように頭を下げた。

―― 何をしてるんだ…俺は…… ――

「すまない……こんなことするつもりは…」
「………」
 そう言いながらも、戸惑い顔を伏せているティナリアを見ていると抑えがきかなくなる。
「……やっぱり無理だな…」
「え……?」
 ティナリアの細い顎に指をかけて優しく自分のほうを向かせると、ルークはもう一度口付けた。今度は自制をして触れるような優しいキスに留める。
 どうしたらいいか分からない、といった迷子の子供のような表情をしている彼女を見つめながらルークは想いを口にした。
「ティナリア、お前が欲しい」
 触れそうなほど近くにあるルークの唇からこぼれた率直な言葉に彼女の碧い瞳が揺れたような気がした。ルークはその視線を捉えたまま、静かに続けた。
「今夜、お前の部屋に行く。もちろん無理にとは言わない。空いてる部屋は他にもあるから嫌ならそちらに行ってくれて構わない」
「………」
「驚かせてすまなかったな」
 ルークはそう言ってふっと笑うとティナリアの頭の上に口付けを落とし、彼女の手を引いた。
「戻ろう」
 ゆっくりと歩き出したルークに合わせて今度はティナリアも足を進めた。会話のないまま、ぎこちない空気が二人の間に流れている。けれどルークはその手を離そうとはしなかった。
 そしてティナリアとルーク、それぞれの想いを抱えながら夜は静かに更けていった。






孤城の華 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system