温暖な気候の王都も秋口になると冷え込んできて、肌を撫でる風も冷たくなっていた。クロード家の屋敷の庭の木々も赤や黄色に染まり始めている。
 朝から書庫に閉じ籠って本を読んでいたティナリアは、一度だけ身震いすると冷えた体をストールで覆いながら立ち上がった。石造りの書庫は陽があまり当たらないせいか底冷えしているようで、暖炉に火をくべてもなかなか暖まってはくれないようだ。
 火の始末を簡単に済ませると古めかしい扉を開けて廊下へと出る。自らの部屋のある棟へ戻るため、渡り廊下を歩いていたティナリアはふとその足を止めると窓の外に目を向けた。
 色を失ってからどれくらい経ったのだろうか。未だその碧い瞳はティナリアに色を教えてはくれなかった。
 王都の紅葉はきっと自分が生まれ育った島とはまた違った美しさがあるのだろう、と見ることの出来ないそれらを頭の中で思い浮かべながらティナリアは窓から視線を外した。そして何かを考えるように目を閉じ、俯いて頭を振ると小さく息を吐き出して再び歩き始めた。
 広い屋敷の中をゆっくりと歩きながら部屋に戻り、窓辺に置かれた椅子に腰かけた。するとそのすぐ後にノックの音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「あら、ティナリア様、お戻りでしたか」
 ひょこっと顔をのぞかせたのはアリスだった。はたきを片手に部屋へと入ってくる。どうやらティナリアが部屋を空けている間に掃除をしようとしていたらしい。
「ちょうどいま戻ってきたところよ。邪魔かしら?」
「いえ、そのようなことは。それよりルーク様にはお会いしましたか?」
「どうして?」
 いないはずのルークに会えるはずもないのに、とティナリアは不思議そうに首を傾げながら聞き返す。
「ルーク様が先ほどティナリア様をお探しでしたので、おそらく書庫にいるとお伝えしてしまいまして」
 その答えでルークが屋敷にいると知ったティナリアは微かに動揺した。
 ここ数日、ティナリアはルークの姿を見ていなかった。以前は姿が見えないことなどしょっちゅうで、むしろルークがいない時間のほうがティナリアにとっては気が休まる時間であったはずだった。
 それなのにいまは数日その姿を見ないだけで何故か心がざわざわと落ち着かないようになっていた。だからルークがここにいると聞いたことで反応してしまったのだろう。
「……探してた?」
「はい。少しお疲れのご様子でしたけど」
「そう……行き違いになってしまったのね」
 あの時、もう少し書庫にいたのならルークに会えたのだろうか。そう考えてからティナリアはハッとして口元に手を当てた。

―― なに考えてるの…… ――

 これではまるで会いたかったみたいではないか、と自分の考えに戸惑ってしまう。
「ティナリア様?」
「えっ?あ……なんでもないわ」
 急に黙り込んでしまったティナリアの顔を覗き込んできたアリスの視線に慌てながら椅子から立ち上がろうと肘かけに手を添えたとき、二度目のノックの音が部屋に響いた。二人の視線が扉のほうへと向かう。
 ティナリアが返事をする間もなく、ガチャリと音を立てて扉が開いた。その瞬間、その扉の向こうに誰がいるのか、ティナリアははっきりとした確信をもっていた。
 返事がないまま扉を開ける者などいるはずがない。たった一人を除いては。
「部屋に戻っていたのか」
 その扉から現れたのは予想に違わずルークの姿だった。そしてその姿を見たと同時にティナリアの中になぜか安堵感が広がった。
「アリスに聞いて書庫に行ったんだが、すれ違いになったみたいだな」
 言いながら部屋の中へと入ってくるルークにアリスは頭を下げながら道を開けた。
「申し訳ございませんでした」
「いや、気にすることはない。確かにティナリアは書庫にいたようだしな」
 燻っていた火でティナリアがそこにいたことを察したのだろう。書庫に行く者など近頃ではティナリア以外にいないので簡単に推測できるようだった。
「あの……何か御用でしたか?」
 ティナリアは先ほど心に浮かんだものが二人に勘付かれないように、と平静を装いながらもおずおずとルークに問うた。
「ああ」
 その問いにルークは思い出したようにそう言ってから、ちらりとアリスに視線を向けた。その視線の意味を素早く察知したアリスは二人に向かって一礼をする。
「では私は仕事に戻りますので」
 掃除をしに来たはずのアリスはそれだけ言うと、使われることのなかった掃除道具を持って部屋をあとにした。
 ティナリアは黙ってそれを見送り、まるで人払いのようにアリスを退室させたことを不思議に思いながらルークの顔を見つめた。
 目の下に薄く影のように出来たクマが整った端正な顔の中でその存在を主張していた。アリスの言った通り、ルークのその表情には少し疲れが見える。
「明日の朝から所用で出掛けることになった。それでお前にも来てもらいたいんだが出られるか?」
 それらを観察しながらぼんやりしていたティナリアは突然言われたルークの言葉に我に返るとその言葉を復唱した。
「私も……ですか?」
「ああ」
「夜会か式典でしょうか?」
 ティナリアを共に連れていく用事などそれくらいしかないはずだ。内心、気が重くなりながらもそれが現れないよう懸命に取り繕った。
「いや……そういう用ではないが…」
 めずらしく曖昧に濁しながらそう答えたルークを怪訝に思いながらも、夜会ではないと聞いてティナリアはほっとした。
「……わかりました。明日ですね」
「ああ。用意するものは俺からアリスに伝えておく」
「はい」
 結局何の用で出掛けるのだろう、とティナリアが考えを巡らせた時、ルークと視線がぶつかった。ティナリアが思わず反射的に視線を反らせると、ふっと小さく笑う声が聞こえてきた。
 その笑い方がティナリアには少し寂しそうに感じられた。
「今日はずいぶん顔色がいいな」
「……そう…ですか?」
「明日は一日近く馬車に乗ることになる。今日は早めに休んでおけよ」
「……はい…」
 ティナリアが顔を上げて返事をすると、ルークは満足そうに頷いて部屋を出ていった。




 翌朝、朝食をとったあとルークがティナリアのそばにやってきた。
「用意が出来たらエントランスに降りてこい」
「はい」
 そこでルークと別れ、自分の部屋へと戻るとアリスが大きめな鞄を用意して待っていた。
「昨夜、ルーク様に言われて荷造りしておきました。私も御同行させて頂けるので、足りないものがございましたら仰って下さいね」
「アリスも行くの?」
 夜会ではないと言っていたがそういう関係の外出だと思っていたので、てっきり二人で行くのだと勘違いしていたようだ。少し驚いたようにティナリアの声が変わった。
「ええ。ジル様もご一緒のようです」
「そう……」
 そんなふうに出掛けたことなど一度もなかったティナリアには今回のルークの所用というものに全く見当がつかなかった。
「……何の用なのかしら…」
 独り言のようにぽつりと呟いた言葉にアリスが小さく笑った。
「なあに?」
「いえ、最近ティナリア様がよくお話しになるのが嬉しくて」
 そう言われてみればそんな気がする。
 アレンのことでショックを受けて、いまでもモノクロの世界にいるままだというのに、どうしてこんな風に話すことが出来るのか、ティナリアは自分でも不思議に思った。
「……心配ばかりかけて……ごめんなさい…」
「何を今更。ティナリア様は昔からちっとも変わっておられないんですから。それに心配するのは私の仕事ですよ」
 少し沈んだ表情になってしまったティナリアを元気付けるかのようにアリスは茶目っ気たっぷりにそう言って片目を瞑った。
「……ありがとう」
「さ、そろそろ準備をしてエントランスに降りましょう。ルーク様がお待ちになってますよ」
「そうね」
 そう言ってティナリアの身支度を整えると二人はともに部屋を出てエントランスへ向かった。吹き抜けからエントランスのほうを見降ろすとすでにルークはそこで待っており、そばには同行するジルもいるようだ。
「お待たせしました」
 ティナリアとアリスが目の前に着くとジルはアリスの持っていた大きな鞄をさっと奪い取って足早に馬車へと運んでいく。そのあとをアリスが慌てて追っていった。
 ジルとアリスがいつの間にか親しくなっていたのか分からないが、その様子がティナリアには微笑ましく映った。ルークにとってもそう映ったのか、少しだけ笑いを含んだような声で言った。
「では行こうか」
「はい」
 ティナリアの手をとってエスコートしながら馬車に乗せ、自らもそれに乗り込んだ。
「……アリスたちは?」
「もう一台の馬車だ」
 ルークは何ともないようにそう言ったが、わざわざ馬車を分けなくても一台で充分な気もする。だが、総督家ともなればそういうものなのかもしれない、と素直に頷いた。
「少し長旅だからな。疲れたらすぐに言え」
「はい」
「出してくれ」
 ルークの一声で馬車がゆっくりと動き始めた。ガタガタと振動が伝わってくる。
 馬車のような密閉した狭い空間に二人きりでいることにも、会話がないことにも以前のような居心地の悪さは感じない。走り始めてしばらくしてからティナリアは気になっていたことをルークに問うた。
「あの……どちらへ行かれるのですか?」
 少しの間を置いた後、少し困ったように眉をひそめたルークが口を開いた。
「……メイナードの屋敷だ」
「え?」
「都から離れた山間にあるんだ。湖がすぐそばにあって空気の良いところだぞ」
「お仕事ですか?」
「……………ああ」
 さっきよりも長い間を置いてから返事をしたルークにティナリアは不思議そうな瞳を向ける。
「景色でも見ておけ」
 まるで誤魔化すようなその言い方が余計に不思議に思えたが、これ以上聞いても答えてくれそうにない。ティナリアはルークから目を離すとその視線を窓の外に向けた。
 少しずつ後ろに小さくなっていく王都を眺めているとティナリアの中の囚われていた何かが解かれていくような、なんとも言えない気持ちが胸の中に広がった。

―― 涙……? ――

 気付いたらティナリアの頬に涙が一筋、痕を残していた。
 悲しいわけではない。辛いわけでもない。不思議な気持ちが胸を占めていく。
 ルークに気付かれないようにそれを拭うとティナリアは再び外の景色に目をやった。王都はもう目を凝らすほどに小さくなっていた。
 それから何度か休憩を取りながら進んでいくうちに疲れと馬車の揺れに眠気を誘われたのか、ティナリアの瞳が重たくなってきたようだった。それに気付いたルークが声をかける。
「寝てもいいぞ」
「でも……」
「俺のことは構わん。まだかかるから着いたら起こしてやる」
「………」
 ティナリアが渋ったのにはルークのことももちろんあったが、それ以上に大きな理由がひとつあった。
 毎日繰り返すあの夢だ。

―― きっとまた見てしまう…… ――

 眠れば必ず見てしまうあの夢を、この狭い馬車の中で、しかもルークの隣で見てしまうのではないかと思うと怖かったのだ。
「……大丈夫だ」
 まるで自分の心配を全て分かっている、とでも言うようなその言葉にティナリアは少し安堵した。その途端、押さえていた眠気が一気にティナリアに襲い掛かり、ゆっくりと眠りの世界へと引きずり込まれていった。
 そしてティナリアが次に目を覚ましたのはすっかり真っ暗になった部屋のベッドの上だった。
 見知らぬ天井を見つめながら、寝起きの朦朧とした頭の中であの夢を思い出す。予想した通り夢を見たはずだが、いつものようにひどく苦しいと感じることはなかったように思えた。
「………」
 ぼんやりとしたままの頭にルークの声が聞こえてきた。
「起きたのか」
「あ……申し訳ありません、眠ってしまって……」
 起き上がろうとしたティナリアをルークの手が押さえた。
「いい。朝までまだ時間がある。もう少し眠っておくといい」
 暗闇の中で表情は見えないが、その声はいつか聞いたことがある、優しく諭すような声色だった。
 それに安心したのか、ティナリアは再び静かな寝息を立て始めた。






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