翌朝、ティナリアが目を覚ますともうすっかり陽は昇っていた。カーテンの隙間から光が入り込んでいる。
 ティナリアはベッドから降りるとまっすぐに窓辺に向かい、カーテンを開ける。眩しい光に反射的に目を細めたが次の瞬間、目の前に広がる景色に目を奪われた。
 塔の天辺に位置するらしいこの部屋からはすぐ近くにある湖の全景が一望することが出来、水面からキラキラとした光が目に飛び込んでくる。モノクロの瞳にもそれが美しいものだと分かる。
 ティナリアは思わず声を漏らした。
「……綺麗…」
 景色にすべての意識を持っていかれていたティナリアは部屋に響いたノックの音にも気付かず、ただひたすらに窓の外を眺め続けていた。
「いい眺めだろう」
 突然すぐ後ろから聞こえたルークの声に驚いて、ティナリアは聞こえないほど小さく悲鳴をあげて肩を竦めさせる。それを見たルークが面白そうにクックッと声を殺して笑った。
「すまない、驚かせたな」
「あ……昨日は申し訳ありませんでした」
「よく休めたか?」
「はい」
「ならいい。さあ、朝食にしよう」
「まだ身支度が」
「構わん。身内しかいないからな」
 ルークはそう言うと鏡の前に行きかけたティナリアを促して部屋を出る。少し寝癖のある髪を押さえつけようと手で髪を梳いているティナリアをダイニングへと案内した。
 王都の屋敷ほどの大きさはないが離れとして使うには十分すぎるほどの広さがあるこの屋敷も、総督家たる気品があふれた趣のある屋敷だった。歩きながら屋敷の中のひんやりとした空気がティナリアの頭をすっきりさせていく。
 最低限の使用人しか入れていないようで屋敷内はひっそりと静まり返っている。ダイニングへ行くとすでに朝食が準備され、アリスとジルが二人を待っていた。
「おはようございます」
 アリスとジルの声が重なって届く。ルークは無言のまま、片手を軽く上げて挨拶を返した。
「……おはよう」
 依然、髪を気にして手を添えているティナリアの恥ずかしそうな返事にジルがにこりと微笑む。ルークはティナリアの席まで行くとその椅子を引いて彼女を座らせ、自分はぐるっとテーブルをまわって対面に座った。
「気にすることはないぞ。たいして分からん」
「ですが……」
 ルークは簡単にそう言うが、いくら身内しかいないとはいえ寝起きの姿のまま食事の場に出るなど恥ずかしくて仕方がない。反論しようとしたティナリアが口籠ると、横から助け船が出た。
「では髪だけでも軽く結っておきましょうか」
 そう言ってアリスは何処からともなく取り出したリボンで手早くティナリアの髪を結い始めた。
 通常ならば食事の場で髪を結うなど許される訳がない。けれどここにいる男二人は何ら気にしている様子は見せず、むしろアリスの器用な指先と形を変えていくティナリアの美しい髪を興味深げに見つめている。
 その様子に内心驚きながらもティナリアは大人しくアリスが髪を結い終わるのを待った。
「器用なものだな」
「ティナリア様の専属ですから」
 ルークの褒め言葉にアリスは得意げにそう言って胸を張った。ティナリアも気になることがひとつ消えてほっと息をつく。
「ありがとう」
「いいえ。お部屋にお戻りになりましたらきちんと結い直しましょうね」
「ええ」
 アリスの笑顔がティナリアの心にすんなりと入ってくる。ティナリアもいつもよりほんの少し明るい声で答えた。
「さ、終わったなら飯にしよう」
 待ちくたびれたルークがそう言うと隣に立っていたジルから即座に小言が飛んでくる。
「ルーク様、お言葉が悪いですよ」
「……朝からいちいち煩いやつだな」
 ぼそっと呟いたルークの言葉にジルが目を細めて冷やかに見つめ返した。
「何か仰いましたか」
「いや、なんにも」
 ルークはつらっとそう言ってかわすと、ひとりで先に食べ始めた。
 珍しいものを見るように二人のやりとりを見ていたティナリアの視線がパンを千切っているルークとぶつかった。ルークは顎をしゃくるようにして早く食べろ、と言っているようだ。
「……いただきます」
「では私たちも失礼して」
 ティナリアが食事に手を付けたのを見届けたすぐ後に、ジルがそう言ってアリスと共に食卓へとついた。驚いたティナリアは呆気にとられた顔で二人を交互に見やった。
 その視線に気付いたアリスがクスクスと笑みを零す。
「ルーク様が一緒に、とお誘い下さったのですよ」
「……そう…」
 さっきの髪もそうだが、いくら一番の側近とはいえ使用人が主人と食事を共にするなど王都の屋敷では本当にあり得ないことだ。
 ティナリア自身は島にいた頃はよくアリスとこっそり一緒にお茶をしたりしていたが、ここに嫁いでからはそういったことなど出来るはずもないと諦めていた。まあ、もっともそのようなことをしている心境でもなかったのだが。
 だからルークがこんなことを許したということが信じられないというか、不思議でならなかった。
「今日はどうされるんですか?」
 ティナリアが動揺しているうちにいつの間にか話は進んでいたようで、今日の予定をジルが訪ねているところだった。
「あー……まあ着いたばかりだしな。疲れも残っているだろうから屋敷のまわりを歩くくらいか」
「湖畔には行かれないのですか?」
「明日以降でいい」
 ティナリアはぼんやりとルークとジルの会話を聞きながら、さっき見た湖を思い出した。

―― すごく綺麗だった…… ――

「ティナリア、昼食をとったら外に出てみないか?」
「え?……あ…はい」
 突然話を振られたティナリアが少し上擦った声で返事をすると、ルークは片眉を下げて呆れたように笑った。
「いまの話、聞いていなかっただろう」
「き……聞いていました」
 ぼんやりしていたから確かにあまり聞いていなかった。図星をつかれたティナリアはちょっとした意地を張ってそう言い返す。
「そうか?」
 素直にそう受け止めてくれはしたがルークはその嘘に気付いているのだろう、彼の顔には笑みが残っている。周りを見ればアリスもジルも笑っていた。

―― こんなに明るい食事……いつ以来かしら…… ――

 ローレン家の食卓はいつも明るかったように思う。あの頃のティナリアはまだ明るく活発で、食事の席でも無邪気に話し、それを咎める者もいなかった。
 そんな懐かしい昔の光景がティナリアの頭の中を過った。




 ルークは言った通り昼食をとり終えて少し休んだ後、部屋で休んでいたティナリアを迎えに行った。
「そろそろ外に行かないか」
 椅子に腰かけてお茶を飲んでいたティナリアが自分の言葉に小さく頷くと、ルークは満足そうに口の端を上げる。
「ここは山だから王都より寒い。なにか羽織っていけ」
「ではティナリア様、これを」
 ルークの言葉にいち早く動いたアリスが暖かそうな外套を肩から掛けてやる。
「ありがとう」
 ティナリアはそれを受け取りながら礼を言った。
 金の髪は朝とはまた違っていてきちんと編み込まれており、美しい髪留めが付けられていた。その髪に触れたい衝動に駆られながらもルークは平常心を保つとティナリアのために部屋の扉を開けて押さえてやった。
「行こう」
「はい」
 屋敷を出ると予想通り冷え込んでいた。隣にちらっと目を向けるとティナリアも寒そうに外套を胸の前でしっかりと合わせている。
「寒いか?」
「大丈夫です。島はもっと寒かったですから」
 そう言ったティナリアの頬は冷たい風に当たっているせいか、いつもよりもほんのりと桜色に染まっている。
「そうだったな。だが無理はするなよ」
「はい」
 ルークが先に歩き始め、その数歩後ろをティナリアがついていく。しばらくの間、会話もないままゆっくりとした歩幅で歩き続けた。会話がなくても特に気にはならないが、何か話しのきっかけになるものはないだろうか、とルークは辺りを見回す。
 この湖畔の屋敷に着いてからというもの、ティナリアの声を聞く回数が多いように思えて、もう少し彼女の鈴を鳴らしたような美しい声が聞きたかったのだ。

―― 朝食の時もジルとアリスを席に着けたのは正解だったな ――

 ティナリアの心を休ませてやりたいが為にわざわざこの辺境の屋敷まで足を運んだルークがもっと何か出来ないだろうか、と考えた結果があの朝食の場だった。普段ほとんど表情が変わらないティナリアの少し驚いたような様子と、予想以上の和やかな雰囲気を思い出すだけで顔が緩んでしまう。
 ふと、砂利道を踏むティナリアの小さな足音を聞きながら歩いていたルークはあるものに目を留めた。
「ティナリア」
 小さな声でそう呼ぶとルークは手招きをした。少し躊躇いながらも自分のそばに寄ってくるティナリアがやけに愛らしく思える。まるで警戒しながら近付いてくる猫のようだ。
「ほら」
 そう言って林の中の一本の木を指差すとティナリアは釣られるようにその先に目を向けた。ルークが指差したものを見つけたのか、ティナリアの瞳が大きくなった。
「あっ」
「しっ……あまり音を立てるな」
 ティナリアの声に慌てたルークは思わず彼女の唇に指を当てて "静かに" という仕草をした。ティナリアは驚いたように顎を引いて少し俯いた。
「あ……ごめんなさ…」
 自分の口に手を当てて声をくぐもらせたティナリアは謝りながら恐る恐る顔を上げると、もう一度、そして今度は静かにその木に視線を向けた。

―― いまのはどっちに対してなんだか…… ――

 大きな声を出してしまったことなのか、それとも唇に触れられて俯いてしまったことなのか。どちらともつかないようなティナリアの "ごめんなさい" をつい深読みしてしまい、ルークは彼女に気付かれないように苦笑した。
 当のティナリアはその木にくぎ付けになってしまったようにじっと一点を見つめ続けている。
「見たことないだろう」
「はい……あれは…?」
 ティナリアの視線を捉えているのはこの地域ではこの季節にしか見ることの出来ない渡り鳥だった。湖の近いこの場所は恰好の餌場であるらしく、毎年遠く海を渡って飛来してくるのだ。
 鳥は見られていることを知ってか知らずか、伸びをするように一度羽根を大きく広げてから、ゆっくりとそれを背に仕舞い込んだ。
「名前は知らんが渡り鳥の一種だ。都にも来ないからこの国ではこの辺りにしか来ないんじゃないか」
「羽の形がとても綺麗」
「本当は色のほうが綺麗なんだ」
「そう……どんな色なのかしら…」
 ルークの言葉を受けてティナリアは残念そうにそう呟いた。色が見えていたなら彼女はどのくらい喜んでくれただろうか。
 ふと、そんな風に思ったルークはその視線を鳥へと戻し、じっと目を凝らしてその色を観察し始めた。
「……胴の色は緑、目の周りは青で、嘴はグレー。あとその周りは黄色だ」
 観察し終えたルークが簡単にだが色を伝えてティナリアの方に向き直ると、不思議そうに瞳が自分を見つめていた。
「あー……分かりにくいか。言葉で伝えるのはなかなか難しいものだな」
「……いえ…」
 その時、止まっていた鳥がバサッと羽音を立てて上空へ舞い上がった。
「あ……」
 ティナリアの名残惜しそうな視線が鳥のあとを追う。それを見たルークは小さく笑った。
「また何処かで見つけられる」
「……はい」
「あと少し歩いたら屋敷へ戻ろう。あまり外にいると冷えてしまう」
 そう言って再び歩き出した二人の距離は最初のときよりも少しだけ近付いたように見えた。そして少し歩いてから沈黙を破ったのはめずらしくティナリアのほうからだった。
「この辺りには他のお屋敷はないのですか?」
「ああ。この辺り一帯はクロード家の所有地だから他の者が入ってくることもない。何も気にすることなくゆっくり休め」
「………」
 ティナリアの返事がないのでルークはちらりと後ろを振り向いたが、彼女は顔を伏せていてその表情を読み取ることは出来なかった。
 その刹那、砂利に足をとられたティナリアが体のバランスを崩した。ティナリアの小さな悲鳴が聞こえるのと同時に、咄嗟に伸ばしたルークの腕が彼女の細い体を支える。
「大丈夫か」
「……申し訳ありませ…」
 抱き止めるようにしたルークの体から離れながら謝るティナリアの言葉が途切れた。その視線は手元に注がれている。
「戻ろうか」
 そう言いながらティナリアの視線に気付かない振りをして、ルークは無言で屋敷への道を歩き始めた。
 屋敷を出たときの数歩分あった距離はもうなく、戸惑うティナリアの小さな手を包み込むようにその手の中に閉じ込めたまま、並んで歩く二人の姿がそこにあった。






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