次期総督ともなれば出たくなくとも出なければならない夜会やその他諸々の式典などが多くある。既婚者ならもちろん夫婦で出席するのが通例だ。それは分かってはいるが、ティナリアはそれらに参列するのが苦痛でもあった。
 この日もルークに連れられて式典に参列していたティナリアだったが、晩餐が始まる頃には次第に気分が悪くなっていった。
 そんな彼女の様子にいち早く気付いたのはやはりルークだった。
「どうした」
「……なんでもないです」
 その言葉とは裏腹にティナリアの顔は蒼白になっている。
「ひどい顔色だ。気分が悪いのか」
 そう言ったルークにティナリアは弱々しく首を振った。
「本当に平気ですから……」
「平気そうには見えない。席を外そう、こっちへおいで」
 それでも動こうとしないティナリアを半ば無理やり立たせると、ルークは支えるようにして彼女に腕を回しながら会場から出ていった。
 庭に出て新鮮な空気を吸ってほんの少しだけ気分がよくなった気がする。ティナリアはルークにもたれるようにして彼の足の進むほうへとついて行った。
「座って。外は少し冷えるな」
 ルークはそう言うと庭にあったベンチにティナリアを座らせ、自分の羽織っていたマントを外して彼女の肩にかけてやった。そしてほんの少しの間をあけて隣に座った。
「……申し訳ありません…」
「俺もあの場にいるのはいい加減ウンザリしていたところだったから丁度いい口実が出来たよ。それより気分はどうだ?」

―― あ……また… ――

 軽口を叩くのは気を遣わせない為だということに気付いたのはいつ頃からだろうか。
 ルークの優しさは分かりにくい。だけど最近のティナリアはそれにずいぶん救われていた。
「さっきよりは良いようです」
「そうか」
 ルークがホッとしたような表情を見せ、それと同時にティナリアは俯いた。しばらく無言のまま静かな時間が流れていたが、それを破ったのはルークだった。
「……ティナリア」
「はい」
「もう無理に微笑わらおうとしなくていい」
 まるで独り言のようにぽつりと呟いたルークの言葉をティナリアは信じられないような思いで聞いていた。思わず俯いていた顔を上げ、ルークを見つめる。表情が出るのなら目を丸くしていることだろう。
 以前のルークとは変わっていたのは感じていた。けれど "人前では妻らしく笑っていろ" という、あの言葉まで撤回するとは思ってもみなかったのだ。
「………」
「お前がこういう場で具合が悪くなる理由は周りの噂のせいだろう?」
 図星だった。社交の場にいる限り、周囲の噂は嫌でも耳に入ってくる。

"精神的な病らしいですわ"
"あの瞳はまるで我らを見下しているようだ"
"いくら美しくてもあれでは……ねぇ…?"

 以前はティナリアの美しさに見とれていた人々も表情の消えてしまった彼女のことをそんなふうに好き勝手に囁くようになっていた。
 笑おうとしても出来ないだけなのに周りはティナリアの気持ちなど考えもせず、話題のタネとして好奇な眼差しで見る。それが耐えがたく苦痛なのだ。

―― 気付いてくれていた……誰も分かってくれなかったのに…… ――

「言いたい奴には言わせておけばいい。あんな戯言、気にかける価値もない」
 ルークは視線を前に向けて吐き出すようにそう言うと小さく息を吐いてから再びティナリアに視線を戻した。すまなさそうに眉を顰め、それから自嘲するように呟いた。
「いや、俺のせいか……前にああ言ったから微笑わらおうとしてくれていたんだろう?」
「それは……」
 言いかけた言葉はルークの優しい微笑みに目を奪われて声にならずに消えていった。初めて見るルークの微笑みはあの手と同じくらい温かかった。
「もういいんだ……無理をさせてすまなかった」
「………」
 ルークの視線から逃げるようにティナリアは少しだけ顔を伏せて黙り込んだ。その時、ふいに肩にかかったルークのマントから彼に匂いがして、まるで抱きしめられているように感じられた。

―― どうして…… ――

 憎かったはずなのにこうしてルークの存在を感じると不安だった心が少しずつ穏やかになっていく。それが不思議でならなかった。
 視界の端に映るルークの手にティナリアが思わず手を伸ばしかけたその時、彼の声でハッと我に返った。少しだけ浮いた行き場のない手をティナリアは咄嗟に引っ込めた。
「そろそろ戻るか。あと少ししたらキリのいいところで退散しよう」

―― 私……何を…… ――

 いつもより早い鼓動がティナリアを余計に焦らせる。自分でも不可解な行動をとってしまったことが、ルークに気付かれていないのが幸いだった。
 ティナリアは少し間を置いて気持ちを落ち着かせてから顔を上げると、来た時と同じように彼に支えられながら立ち上がる。普段は触れようとしないその手が躊躇いがちに触れてくるのが少しくすぐったい。
「行こうか」
「はい」
 ティナリアは素直にそう返事をすると彼のあとについていった。出てくるときの気分が嘘のように軽くなっているのを感じながら。




「お帰りなさいませ」
 ルークは言ったことを違えることなく早々に会を退席するとティナリアを連れて屋敷へと戻っていった。
 そんなルーク達をいつも通りにジルとアリスがエントランスまで出迎えにきている。外套を脱いでジルに手渡すとティアリアのほうへと視線を向ける。
「今日はもう休むといい」
 ティナリアがその言葉に頷くのを見て満足すると今度はアリスのほうへと視線を移した。
「会の途中で気分を悪くしたようだ。何か落ち着くものでも飲ませてやってくれ」
「かしこまりました。ではティナリア様、部屋へ参りましょう」
 アリスはルークの言葉を受けてティナリアを部屋へと促した。
「ルーク様ももうお休みになられますか?」
 二人の姿を見送った後、共にエントランスに残っていたジルがルークに向かって声をかけた。
「ああ、少し疲れたな」
「ではすぐにお召し替えをお持ちします」
「頼む」
 そう言ってひとり部屋へと戻ったルークは椅子に座りこむとふぅっと息を吐き出した。そして思い出したように苦笑いを顔に浮かべた。

―― まるで結婚式のときのようだな ――

 あの時も具合が悪いことに気付いたルークが声をかけても "大丈夫" の一点張りだったティナリアが脳裏に浮かぶ。今日の様子とまるで一緒だ。もっとも、具合が悪くなった原因はあのときとは違っているが。
 ルークははあ、と小さくため息を吐いた。
 ティナリアの手前、気にするなと言ってはいたが実際のところはルークも少しだけ参っていた。ティナリアとの不仲はまだしも、万が一にもアレンとのことが社交界に広まってしまえばクロード家の名誉にも関わってくる。
 ルーク自身にとって名誉などどうでもいいことだが、現総督、つまり彼の父親はいい顔をしないだろう。いつティナリアが矢面に立たされるか分からない。
 彼女を守り切るだけの権力ちからをルークはまだ持ち得ていなかった。

―― とにかく少しでもティナリアの気を紛らわせてやりたいが…… ――

 以前か彼女が無理をしていたのは知っていたが、最近は酷くなる一方だ。何をしてやればいいのか、見当もつかない。
 そんなことを考えながら酒でも一杯飲もうかと腰を上げた時、ノックの音が部屋に飛び込んできた。
「入れ」
「失礼致します」
 新しい着替えを手にしたジルが部屋の中へと入ってくる。
「また飲んでるんですか?」
「……まだ飲んでない。人を酒乱のように言うな」
 ジルのお小言が始まったか、とルークはしかめっ面をしながらそれに文句をつける。持っていたグラスに視線を戻し、少量の酒を注いだ。
「着替えはこちらに置いておきますね。あ、あとお酒はほどほどになさって下さいね」
「分かってるよ」
「それならいいんですが。では、お休みなさいませ」
 呆れたようにそう言って退室しようとしたジルをルークが呼び止めた。
「ジル」
「はい?」
 ジルは返事をしながら振り向いたが、呼び止めた本人は俯きながら考え事をしているようだ。ルークが口を開くまでの間、ジルは大人しく待っていた。
 そしてしばらくしてからルークが思いついたように顔を上げた。
「……メイナードの屋敷はすぐに使える状態だったか?」
「メイナードですか?」
「ああ」
 財豊かなクロード家には王都に構えた屋敷のほかにも各地に数件の屋敷を所有していた。ルークが言ったメイナードの屋敷もそのうちのひとつで、馬車で一日近く走ったところにあるものだった。
 ジルはその屋敷を思い浮かべながらルークに視線を合わせる。
「しばらくお使いになっていませんが、数日頂ければすぐに使用出来るようにはなりますよ」
「そうか」
「お使いになるんですか」
「……ああ。来週にでも使えるようにしておいてくれないか」
「かしこまりました」
 ジルがにやりと笑った。それを見たルークは怪訝な顔をジルに向けた。
「なんだ」
「いえ、なんでも」
「なんでもという顔じゃないだろ。なんだ」
 そう言って迫るルークをよそに、ジルはくすくすと笑い始めた。
「本当にお変わりになられましたね」
「何のことだ」
 何を言っているのかすでに分かっていたが面と向かって言われるのはさすがに恥ずかしいのか、ルークはそのまま素知らぬふりをし続けた。
「いえ、お気付きでないのならいいんです。気になさらないで下さい。では私はこれで」
 そう言って今度こそジルは部屋をあとにした。静まり返った部屋にルークのため息が響く。
 自分よりも年下のはずなのにいつもお小言ばかり言うジルを、ルークはじいのようだと言ったりもしていたが、こういうことに関してはしっかりと若者の勘を持っているらしい。
 ジルにからかわれたような気がして複雑な気分になりながらも持ってきてもらった服に手早く着替えると一口だけ酒を呷った。
 あと数時間したらルークの日課が始まる。
 誰にも邪魔されることなくティナリアのそばにいられる、ルークだけの秘密の時間だった。






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