波の音が聞こえる。
 晴れた青空の下、真っ白な砂浜の上にティナリアはひとり立っていた。きょろきょろと辺りを見渡せば、そこが生まれ育った場所だということにすぐに気付く。十六歳の誕生日、アレンと約束を交わしたあの場所だ。
 そしてそこから少し離れたところには薄茶色の髪が風にさらさらと揺れている。
 ティナリアは満面の笑みを浮かべてその後ろ姿を見つめた。

"アレン"

 そう呼びかけたはずなのに自分の声が聞こえなかった。声が出てこない。
 もちろんアレンにも聞こえていないようで、薄茶色の髪が振り向くことはなかった。その途端、ティナリアは言い知れぬ不安に駆られた。

"アレン!"

 さっきよりも大きな声で呼びかけてもやはりその声は聞こえず、アレンにも届いていない。それでも諦めずに何度か呼びかけたとき、後ろから現れた誰かがティナリアの横をすっと通り過ぎて行った。
 華やかなドレスを着た女性はアレンに近付くと、微笑みながらそのすらりとした細い手を親しげに彼の肩に伸ばした。アレンは肩にかけられたその手に自分の手を重ね、柔らかく微笑み返す。
 いままでティナリアに向けられていた笑顔。本当なら今でも自分に向けられているはずだった大好きな笑顔。
 だが、それはもうティナリアではなく隣に並ぶ女性に向けられている。
 アレンは空いている手を彼女の腰に優しく添え、二人はゆっくりと歩き出した。
 その様子を茫然と見つめていたティナリアは遠くなっていくアレンの背中を追いかけようとしたが、なぜか足は砂に捉まってしまったかのように一歩もそこから動いてくれない。

"アレン!……いや…行かないで!!"

 必死になって叫んでもアレンには届かない。振り返らない背中はどんどん遠くなっていく。縋るように伸ばした手は空しく宙を掴むだけだ。
 聞こえない声の代わりに涙がぽろぽろと零れ落ち、足元の砂に痕を残していく。小さくなったふたりの姿は涙で歪み、ひとつに重なって見えた。

"……ア……ティナリア…"

 どこかで自分を呼ぶ声が聞こえる。波の音に紛れて届く、優しく、そして少し悲しげな声。
 けれどいまは目の前のアレンに呼び掛けることに必死だった。

"アレン!!"

 声が出ていたのなら喉が潰れてしまうのではないかと思うほど大きく叫んだのを最後に、ティナリアの意識は再び暗闇の中へと落ちていった。




「……ア……ティナリア…」
 青白いままの瞼が頼りなく開かれ、その無垢な瞳が不安げに揺らいだ。
 リディア家で倒れたティナリアを屋敷に連れて帰ってからも彼女は目を覚ますことなく、ずっとうなされ続けていた。すでに真夜中になっている。
「ティナリア、気付いたか」
 ベッドの端に腰掛けていたルークはティナリアがようやく目を覚ましたのを見ると安堵してホッと息を吐いた。
「……ここ…」
  掠れた声はいまにも消え入りそうなほど小さく、不安が色濃く滲んでいる。
「クロードの屋敷だ」
「……私…」
 まだ意識がはっきりとしないのか、ぼんやりとしたままぽつりぽつりと言葉を発している。
「夜会の最中に倒れたんだ」
 さすがにいまの状態のティナリアに再度ショックを与えるのは忍びないと思い、ルークは核心に触れないように簡潔に説明を加える。
「気分はどうだ?」
 ルークにしては珍しく優しげな声で問いかける。しかしティナリアが答えたのは、目を覚まさないティナリアを心配してずっとそばについていた彼の想いを折るのに十分だった。
「……アレン……は…?」
 うなされている間、ティナリアはずっとその名を呼び続けていた。そして目を覚ました今もなお、その名を呼ぶ。
 そのことに嫉妬の入り混じった怒りが込み上げ、それを堪えるようにきつく拳を握りしめた。
「忘れたのか?その目で見たものを」
 核心に触れないようにしていたルークはわざと冷たくそれを言い放つとティナリアの唇を奪った。
「ん……っ……」
 起きぬけで力が入らないのか、抵抗する力はいつもより弱い。閉じようとした唇を抉じ開けるようにルークは舌を侵入させる。
「……っ……はっ…」
 唇を放すとルークはその細い手首を掴んでベッドに張り付け、真上からティナリアの青白い顔を見つめた。そして首筋に唇を這わせると昨夜付けた紅い跡を辿っていった。
 血の気が失せた肌は熱を帯びた自分の唇に比べてやけにひんやりと冷たく感じる。なんとか逃れようとするティナリアだが、ルークがそれを許すはずもなかった。
「いやっ……放して……」
「放さない」
 ティナリアの願いを撥ねつけ、ルークの唇はなおも下へと降りていった。彼の指先がアリスによって取り替えられたばかりのネグリジェをいとも簡単にはだけさせていく。
 綺麗なラインを描いている鎖骨に口付けをしたとき、ティナリアの口からルークの聞きたくない言葉が零れ落ちた。
「い…や……アレ…ン…」
 カッとなったルークはその口を塞ぐようにキスをした。それ以上、ティナリアの口からアレンを呼ぶ声を聞きたくなどなかった。
「アレンはお前を見捨てたんだろう?それなのになぜお前はまだあいつの名を呼ぶ?」
 ショックを受けたばかりでいまだに意識がはっきりとしていないティナリアに、現実を突きつけるように冷たく言葉を投げつける。

"見捨てた"

 その言葉にティナリアの瞳が揺れた。
 そしてささやかな抵抗をしていた彼女の腕から、体から、力が抜けていった。それを感じ取ったルークは掴んでいた手を少しだけ緩める。
「抵抗はもう止めか?」
「……い…」
 ティナリアの唇が微かに震えた。
 小さな声は聞きとることが出来ず、ルークはじっとティナリアの瞳を見つめて続きを待った。
「……好きに……すればいい……」
 その言葉を聞いた瞬間、ルークの怒りは急速に冷めていった。涙を流しながらもう一度呟いたティナリアの虚ろな瞳にはなんの感情も読み取ることが出来なくなっていた。
 まるで嫁いできたころのような、いや、それ以上に感情が見えない。
 抑えているのではなくて、本当に抜け落ちてしまったかのようだった。

―― 違う…… ――

 ルークはティナリアの腕を放すと涙に濡れた彼女の頬に触れた。いつもなら怯えるはずが、いまはもう顔を背けることもせず、ただ虚ろな瞳がルークを見つめていた。
 もしかしたらルークすら見ていなかったのかもしれない。その瞳にはなにも映っていないようだった。

―― こんな顔をさせたかったわけじゃない…… ――

「ティナリア」
 答えないティナリアの頬を優しく撫でる。冷たい涙がルークの手を濡らした。
「……もう何もしないから……泣くな…」
 ティナリアの上に伸し掛かっていた体を横に除け、何度か髪を梳くように撫でるが彼女がルークを見ることはない。
 ルークは小さくため息を吐くとベッドサイドの棚から小さな錠剤を取り出し、水と共に口に含んでそのままティナリアの唇に触れた。コク、と彼女の喉が動くのを確認した後、一度だけ頬を撫でたその手で瞼をそっと塞いだ。
「……少し眠れ」
 手のひらをティナリアの長い睫毛がくすぐる。そのしばらく後に静かな寝息が立ち始めた。
 起こさないように静かに手を避けるとティナリアの寝顔が現れた。しかし、今は先日見たような穏やかな寝顔ではなく、悲しそうな、苦しそうな寝顔だった。

―― 何をしてるんだ、俺は…… ――

 ショックを受けて倒れたティナリアにさらに現実を突きつけて傷付けた。彼女を前にすると子供っぽい嫉妬をいつも抑えることが出来ない。
 ルークはその眦に残る涙を拭い去るようにティナリアの瞼に優しくキスをした後、しばらくその寝顔を見つめ、空が明るくなる頃に重い腰を上げて部屋を出ていった。




 目が覚めたとき、ティナリアは何とも言えない違和感を覚えた。
 木や建物の影が地面に落ちているのだから陽が翳っているわけではないし、夜中のように闇に溶けているわけでもない。それなのにこの目に映る全てのものに色がなかった。

―― 何も見えない…… ――

 全てがモノトーンになり、夢なのか現実なのか区別すらつかない。この数ヶ月ですっかり見慣れたはずのこの天井も、この部屋も、全てが見知らぬ場所に見える。
 重たい体を起してベッドから抜け出すと、ティナリアは窓に寄って静かに戸を開けた。風が部屋の中に入り込み、ティナリアは一瞬だけ目を閉じた。
 そして目を開けたとき、ティナリアは夢ではないことを知った。
 窓の外に見える景色。色とりどりの花が咲き乱れているはずの屋敷の庭すらもその色をティナリアに見せてくれることはなく、ただ灰色に広がる空と砂塵さじんに覆われてしまったような寂しげな草花だけがそこにあった。
 それなのにティナリアは動揺することもなく、静かにその光景を受け止めた。
 霞みがかった頭の中で懸命に記憶をたどってもそこに浮かんでくるのはアレンの後ろ姿だけ。振り返らないその背中にはもうティナリアと繋がる糸は見えなくなっている。

"見捨てた"

 不意に昨夜のルークの言葉が甦った。霞んではっきりとしない愛しい人の後ろ姿に比べて、その言葉だけはやけに鮮明に頭の中に響き渡る。
 一途にアレンを信じて待っていた。
 たとえ心の奥底では無理なことだと分かっていたとしても、あの約束があったからティナリアは今日まで耐えてこられたのだ。
 アレンを想うだけでこの心は壊れずにいられた。
 アレンを想うだけで希望を失わずにいられた。
「どうして……どうして、アレン…」
 思わず彼を責めるような言葉を呟いた後、ティナリアは自嘲するように嗤った。

―― 違う……アレンじゃ、ない… ――

 自分だ。
 最初に裏切ったのは他の誰でもない、自分ではないか。
 無理矢理とはいえ何度も何度もルークに体を許してしまっていたことはアレンにとってこれ以上ないほどの裏切りだっただろう。そうして愛しい人を裏切りながら自分がしていたのは何だったか。
 何もしてなどいない。部屋に閉じ籠って逃げ出そうともせず、ただ泣きながらアレンが助けに来てくれるのを待っていただけだ。
 そんな自分がどうして彼を責めることが出来ようか。

―― 知りたくなんてなかった…… ――

 アレンには必要のなくなった存在なのだと、そんなこと知りたくなかった。自分がこんなにも浅ましい人間だったのだと、知りたくはなかった。知らないまま、いつまでもアレンを待ち続けていたかった。
 けれど知ってしまった今、大好きな彼の手を待つことは叶わない。
 あの日から縋ってきたただ一つの希望を失ったティナリアは泣くこともせず、一切の感情を失くしたまま、ただ黙って色のない景色をどこともなく見つめ続けていた。






孤城の華 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system