二人が中央まで進みそこで立ち止ったとき、朗々とした声がホールに響いた。
「皆さま、本日は我がリディア家の夜会にお集まり頂き、誠に光栄でございます。このあとも時間が許す限り存分にお楽しみ頂きたい」
 リディア家当主が壇上に上がり、来賓に挨拶を告げる。割と年のように見えるが、その声はよく通っている。
「さて、私的なことですがこの場をお借りしましてご報告致したいことがございます」
 挨拶だけで終わるのだと思っていたティナリアは当主の言葉に耳を傾ける。ふと、手を置いていたルークの腕に力が入ったように感じた。
 ルークの顔をちらりと見上げても、彼は真っ直ぐに当主を見たままティナリアのほうを向くことはなかった。そしてその眼差しはどことなく苦しそうに見える。
 それを不思議に思いながらもルークから視線を外そうとした時、その言葉は発せられた。
「我が娘、ノエル=マリク=リディアとティグス子爵家ご子息、アレン=ジル=ティグス殿が婚約致しました」
「え……」

―― 今なんて…… ――

 ティナリアは自分の聞き間違いかと耳を疑った。しかし壇上を振り返った次の瞬間、間違いではなかったことを目の当たりにした。
 アレンが先ほど一緒に踊っていた可愛らしい女性と壇上に上がってきたのだ。アレンに手を預けてエスコートされている彼女はとても幸せそうで、頬を薄紅色に染め上げている。
 周りの貴族たちはその朗報を祝福し、アレンとノエルは拍手に包まれた。

―― 婚…約……?アレンが……? ――

 目にした光景にすでに困惑していたティナリアを当主の言葉がさらに打ちのめした。
「二人が婚約したのは二ヶ月ほど前だったのですが、なかなか公表する機会がありませんで……」
 当主はにこにこと相好を崩しながら話し続けているが、その言葉はもうティナリアの耳には届いていなかった。

―― 二ヶ月前…… ――

 ティナリアがルークと結婚したのは三ヶ月ほど前だ。ということはそのすぐ後にアレンはノエルと婚約したということになる。
 耳鳴りがやかましく頭の中に鳴り響き、ティナリアは呼吸の仕方を忘れたように息苦しさを覚えた。視界は霞んでどんどん狭まっていく。
「しかも今宵はこの婚約を祝いたい、と次期総督ご夫妻がいらして下さいました。クロード様、どうぞこちらへ」
 そんなティナリアの状況を露ほども知らない当主は嬉々として二人を壇上へと呼び寄せる。周りからの拍手もざわざわと耳障みみざわりなだけだ。
 おぼつかない足取りのまま、ルークに手を引かれてティナリアは壇上へと上がった。
 夢に見るほど逢いたいと願っていたアレンの姿がすぐそこにあるのに、それすらもう霞んでしまってよく見えない。代わりについ数十分前にアレンと交わした言葉が甦ってくる。

"……ティナ……すまない……実は…"

 あの時そう言ったアレンは再会を心から喜んでいたようには見えなかった。そして言葉の端から感じた焦り。あれは約束をたがえたことへの後ろめたさだったのではないか。
 あとに続く言葉をアレンの口から聞くことが出来なかったが、その答えがいま目の前に広がっているこの光景なのではないだろうか。

―― どうして…… ――

 アレンと別れたあの日から、どんなに辛いことがあっても、幾度となくルークの手に落ちようとも、あの言葉を信じて耐えてきた。
 しかしその言葉は記憶の中に残っただけで、もうティナリアを救いには来てくれない。
 心の中に辛うじて残っていた希望の糸が音もなく切れていくのを感じたその刹那、ティナリアの意識は暗闇の中に深く深く落ちていった。




「ティナリア!」
 ホールの中にルークの叫び声が響き渡った。それと同時に祝福ムードだった会場は一転してざわざわと騒がしくなる。
 その原因はティナリアだ。壇上に上がってすぐに彼女が倒れたのだ。
 腕を掴んでいたティナリアの手から力が抜けたと思った瞬間、視界の隅に映っていた彼女の姿が消えた。ティナリアは膝から崩れるように倒れ、ルークが間一髪で支えたものの、ぐったりとしたまま起き上がる気配がない。
 ワインレッドのドレスがまるで大輪の花のように磨きこまれた床に広がった。
「ティナリア!」
 ルークが抱きしめたままもう一度呼びかけても、反応は一切ない。普段よりも血の気が失せて、蒼白な顔になっているティナリアは本物の人形さながらだ。
「ティナ……」
 そう小さく呟いたアレンの声がルークの耳に届いた。
 いまにもティナリアに駆け寄って手を伸ばしそうな様子のアレンだったが、ルークが先にそれを制した。無言のまま威嚇するようにアレンを一瞥する。
「………」
 アレンはルークの鋭い視線に射竦められたようにその場に立ち尽くした。ほんの少しの間、二人の視線はまるで睨み合うようにぶつかり合う。

―― 唯一の希望だったお前自身がティナリアの望みを断ち切ったんだ ――

 もちろん、ルークはこうなると分かっていてティナリアをこの場に連れてきた。ティナリアの心からアレンを追い出すため、自分以外に縋るものがなくなるまで彼女を追い詰めるために。
 しかし実際に目の前で気を失ったティナリアを見ると罪悪感で胸が痛んだ。
 それに気付かなかった振りをして、視線をアレンからティナリアに戻したルークは目を覚まさない彼女を横抱きに抱え上げると当主に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません。めでたい席でこのような騒ぎを起こしてしまって、なんとお詫びしたらよいか」
 あくまで低姿勢のルークに当主のほうが大慌てで取り合った。
「め、滅相もございません。そんなことよりも早く奥方様を」
「近いうちに改めてお詫びに参りますので、今夜はこれで失礼させて頂きます」
 ルークはそう言って踵を返すと貴族たちの視線を受けながら、壇上から降りた。
 ホールを出る間際、ちらりと振り返ったルークの目に映ったのはティナリアをじっと見つめ、硬く拳を握りしめているアレンの姿だった。
 そしてその姿にアレンもまた、ティナリアをまだ愛しているのだということを感じ取った。

―― どんなにティナリアが、そしてお前が望んでいたとしても……俺は彼女を手放さない ――

 心に湧き上がる嫉妬と独占欲にルークは唇の端を少し上げただけの嘲笑うような笑みを浮かべ、ティナリアを腕に抱いたままエントランスへと向かって行った。
 抱え上げたティナリアの体は力なくルークにもたれ掛かり、彼女が落ちないように抱いた腕に力を込める。普段ならば決して自分に体を預けることなどしないだろうと思うと寄りかかってくるティナリアの重みが愛おしく感じる。
 門番に声をかけて馬車を呼んできてもらい、ルークはそれに乗り込んでクロード家の屋敷へと向かわせた。ガタガタを揺れる馬車の中、自らの膝の上にティナリアの頭を預けさせると、その細い体に腕を回す。

―― 気を失うほどショックだったのか…… ――

 嫁いできた頃よりもまた少し痩せた細い肩は、ルークが力を込めればすぐに壊れてしまいそうなほど頼りない。そして陶器のように滑らかな肌は、いまやその陶器よりも白くなっている。
 ルークはまるで温めるかのようにティナリアの頬をその手で覆った。
「……ン……」
 聞き逃しそうなほど小さな声がティナリアの唇から零れた。目を覚ましたのかとルークがその顔を覗き込んだが、その瞳は閉じられたままだ。
「…アレ……ン…」
 その名前とともに閉じられた瞳のから一筋の涙が頬を伝い落ちる。

―― それでもまだその名を呼ぶのだな…… ――

 頬を伝う冷たい涙を優しく掬いとると、涙の痕にそっと口付けを落とした。
 あとどれくらい彼女を傷付ければこの歪んだ想いは満足するのだろうか。自分の感情がコントロール出来ない。
「……いつか…」
 ルークは心に浮かんだ願いを込めて、ティナリアの金の髪を梳くように優しく頭を撫で続けていた。




 アレンはリディア家の客間に戻ると手で自らの顔を覆った。

―― あの時のティナの顔が頭から離れない ――

 リディア伯爵の言葉を聞いた瞬間、ホールの中央でルークの腕に手をかけていたティナリアの顔が困惑に、そして絶望に変わっていくのをアレンは壇上から見ていた。
 一番恐れていた結果になってしまったことは誰の目から見ても明らかだった。こうなることを避けるためにいままで必死に画策してきたというのに全てが水の泡となって消えてしまった。
 きっとティナリアは裏切られたと思っているだろう。
 今更ながら、庭で出会ったときに伝えられなかった自分を恨んだ。気が動転していたなんて情けなさ過ぎて言い訳にもならない。

"信じてくれ"

 その一言だけでもティナリアなら分かってくれたはずだ。それなのになぜ言わなかったのかとアレンの心の中に後悔が渦巻いて、彼は頭を抱えたままその場に座り込んだ。
「……ティナ……」
 いつも上手くいかない。まるで目に見えない何かが二人の邪魔をしているかのようだ。しかし今回は "見えない何か" ではなく、ルークが仕組んだことだとアレンにははっきりと分かっていた。
 婚約発表のことを聞いたのは偶然かもしれないが、あえてその場にティナリアを連れてきたことは偶然なんかではない。ルークはどこかでアレンとティナリアの関係を知り、それを壊そうとしていたに違いない。
 そうでなければあの時のルークの瞳の説明がつかない。
 ティナリアが気を失って倒れたとき、勝手に動きだしそうになった体をルークの射るような視線が押し留めた。睨みつけるような視線の中にはアレンへの敵対心が燃え上っていた。
 あの視線を向けられた以上、そう考えるのが妥当だ。
 そしてふと、我が物顔でティナリアを抱き上げるルークの姿が脳裏に浮かんだ。そんなことで嫉妬している場合ではないが、混乱を極めている思考の中では感情を止めることが出来ない。

―― このままでは本当に…… ――

 アレンは心の底から焦った。
 ティナリアの柔らかい笑顔、明るい笑い声、暖かい心。それら全てがいま失われかけようとしている。
 こうなってしまったら最後の仕掛けとしてイヴァンに頼んだことがアレンにとって唯一の切り札だ。これが上手くいかなければティナリアは二度とこの腕の中に戻ってこない。
「……ティナ……どうか信じていてくれ…」 
 掠れた声でそう呟き、アレンは祈るようにぎゅっと胸元をきつく握り締めた。
 握り締めたそこには碧い石のタイピンが留まっていた。幸せが続くと思っていた頃、ティナリアが贈ったあのタイピンだ。あの日以来、一日としてそれを外した日はなかった。
 もしもティナリアがそれに気付いていたのなら、運命はまた違う方へと向かっていたのかもしれない。






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