「ティナリア様に何をされたんですか!?」
 翌日の昼過ぎにノックの音と同時に部屋に怒鳴り込んできたのはアリスだった。今にも掴みかかりそうな勢いでつかつかと間合いを詰め寄ってくる。
「昨日の夜会で何があったんです!?」
「そんなに大声を出さなくても聞こえている」
 少し疲れたような声でアリスを制しながら、ルークは椅子に座るように手で指示をした。
 昨夜、気を失ったティナリアを抱えて屋敷に戻ったルークは出迎えたジルにアリスを連れてくるように命令し、そのまま彼女を部屋に連れていった。ベッドにそっと降ろしたのと同時に部屋の扉が荒々しく開かれ、アリスは横たわったティナリアを見るなり駆け寄ってきた。
「ティナリア様!!」
 アリスの大声も届かぬほど、ティナリアの意識は深く失われている。
「とにかくドレスを着替えさせてやってくれないか」
 疲労の色を浮かべているルークに何か言いたげな視線を向けたアリスだが、はい、と小さく返事をするとすぐさまティナリアの着替えに移った。
 だが、夜会や舞踏会で着るようなドレスはただでさえ着付けるのに手間がかかる。気を失って横になっている者から脱がせるのは困難だったようで、見かねたルークが手伝おうとしたが却下された。
 部屋を追い出されてから扉が開くまでずっとルークは正面の壁にもたれて待っていた。ようやく開いた扉から出てきたアリスは今と同じように勢いよくルークに向かって突進してくる。
「ティナリア様に何を……」
「明日にしてくれ」
 アリスの言葉を遮るように言ったルークの一言は、普段聞いたことがないほど低く悲しげに聞こえた。
「頼む」
 ルークが頼みごとをするなど信じられなかったが、その真摯な態度に虚を衝かれたアリスは思わず口を噤んでしまい、その間に彼は静かにティナリアの部屋へと戻っていった。
 そんなやり取りがあって、アリスがいま殴り込みにきたというわけだ。どうやらルークの言葉通り "明日" まで待っていてくれたのだろう。
 座るように指示したルークを無視してアリスは声を荒げた。
「答えてください!ティナリア様に何をされたんですか?!」
 アリスの勢いに負けたわけではないが、ルークは小さくため息を吐くと椅子に座り、視線を彼女へと向ける。
「その前にひとつ、聞いてもいいか」
「何ですか」
「お前はティナリアが駆け落ちしようとしていたことを知っていたのか?」
 ルークの言葉にアリスは息を呑んだ。言葉なく瞠目している姿が答えを物語っている。
「……やはり知っていたんだな」
「………」
 むしろアリスが知らないわけはないと思っていたが、ルークの予想は的中だったようだ。答えない彼女を横目で見ながらルークは言葉を続ける。
「相手はアレン=ジル=ティグスだろう」
 その名を聞いたアリスの肩がびくっと震えた。
「隠さなくてもいい。昨日の夜会で会ったからな」
「……え?」
「あいつを見つけた時のティナリアの顔は忘れられない」
 そう言ってルークはクッと喉を鳴らして笑う。もはや驚き過ぎて声が出ないのか、アリスは目を見開いたまま彼の言葉の続きを待った。
「嬉しかったんだろう、引き離された恋人に会えて。でも、彼女はそこで望みが絶ち切れたことを知ったんだ」
「どういう……ことですか?」
 恐々と聞いてくるアリスから視線を逸らすと、ルークはそれを告げた。
「婚約したんだよ、リディア伯爵の令嬢とな」
「え……」
「大方、迎えに行くと約束でもしていたんだろうが、アレンがティナリアを迎えに来ることはもうない」
 咄嗟にアリスは口元を押さえた。口から出かかった声は手に阻まれてくぐもったまま小さく消えていく。
「それを知ってティナリアはショックで倒れたんだ」
「そんな……アレン様が…」
 呆然としていたアリスだが、すぐに彼女はハッとした様子でこちらを見上げてきた。
「まさかご存知だったのですか?!」
「ああ。昨日の夜会がその発表の場だと知っていてあの場に連れていった」
「知っていてどうして……」
 アリスの瞳には非難の色がありありと見受けられるが、ルークはそれを受け止めて静かに言葉を紡いだ。
「……彼女を自分だけのものにしたかったから」
「え?」
 予想外の答えだったのか、アリスは意表を突かれたように目を丸くした。しかしルークはそれ以上のことに触れないで話を元に戻した。
「しばらくはショックを受けたままだろう。アリス、ティナリアのことを頼む」
「………」
「俺では余計に気が休まらないだろう?」
 自嘲するような笑みを浮かべてそう言うと、ルークは椅子から立ち上がってアリスに背を向けた。その笑みと後ろ姿がアリスには少しだけ寂しげに見えた。
 これではまるでティナリアを想っているようではないか、とアリスは目の前にいるルークと、今までの彼の態度に違和を感じて戸惑った。
「しばらくはお前に任せるよ。何かあったら教えて欲しい」
 窓の外に目を向けたまま、ルークは静かにそう言った。
「……かしこまりました」
 ルークの真意はどうであれ、とりあえず今はティナリアのことを考えてくれているのだということは分かった。アリスは素直に頷くとそれ以上何も語らないルークの後ろ姿に一礼をして部屋から出ていった。




 ルークの部屋を出てからティナリアのもとへ向かう途中、アリスは聞いた話を頭の中で整理した。
 アレンが婚約したということは信じ難かったが、ルークの目は嘘をついていなかった。それが真実ならば、ティナリアが縋っていた最後の希望が途切れたということだ。
 あの日、アレンと引き離されたティナリアがどれだけ泣いたか、どれだけ苦しんだかはずっとそばにいたアリスが一番よく知っている。
 それでもいつか迎えに来てくれる、とそれだけを信じて待っていたティナリアにとって今回のアレンの婚約はどれだけの衝撃だったのかアリスには計り知れなかった。
 今朝はまだ起きているティナリアの姿を見ていない。一度部屋に行ったのだが、彼女はまだ目を閉じたままだった。ルークの話を聞いて急に不安になったアリスは歩調を速めると、急いでティナリアの部屋へと向かった。
 部屋の戸をノックすると中から小さいが返事が聞こえた。どうやら起きているようだ。ひとまずホッとしたのも束の間、部屋に入ってティナリアの表情を見たアリスは愕然とした。
 最近戻り始めたかと思っていた表情が消えていた。消そうとしたのではなく、消えているのだ。一片の欠片さえ残さずに。
 その様子に思わず声も出せずにいるとティナリアが部屋の中の沈黙を破った。ぽつりと話す声がアリスの耳に届く。
「……私、どうしたのかな…」
「え?」
「色がないの」
 いきなりそんなことを言われて困惑したアリスは思わずティナリアのそばに駆け寄った。
「全て白黒なの。アリスの綺麗な赤毛も今は見えない」
 そう言ったティナリアの声は感情の一切見えない表情とは裏腹に、どこか寂しい響きを持っていた。
「………」
 かける言葉が見つからず、アリスはただ黙ってティナリアの白い手を握りしめた。ひんやりとしたその手はまるでティナリアの心を映し出しているかのようだった。
「アレンと一緒に無くなってしまったわ」
「……ティナリア様…」

―― アレン様……どうして…… ――

 アリスは心の中でアレンに問いかけた。けれど答えが返ってくるはずもなく、アリスはティナリアに分からないように項垂れた。
 そしてふと、先刻のルークの姿が思い出された。
 寂しそうに笑った顔、悲しそうな後ろ姿。もしかしたら、という思いがアリスの中に浮かび上がってくる。

―― ティナリア様を救ってくれるのはあの方かもしれない…… ――

 いままでルークがしてきたことはティナリアに仕える者として許しがたいものではあった。今回のことだってそうだ。いずれ分かることとはいえ、ルークが夜会に連れて行かなければ今はまだ知らずに済んだのだ。
 けれど、それが嫉妬からくるものだったとしたらそれはルークがティナリアに心を奪われているという証拠。
 そしてティナリアがアレンに見捨てられたと思っている今、誰かが彼女を必要としてくれればその辛さも少しは癒されるのではないかと思ったのだ。

―― その "誰か" がルーク様なら…… ――

 アリスは藁にも縋る思いで、ティナリアの手を握り締めたまま、自分の勘が当たるように心から願っていた。




 その日、ティナリアが部屋から出てくることはなかった。
 昼間の話のあとで様子を見に行ったアリスがティナリアの状態を教えてくれたときはどれほど彼女に会いに行こうかと思ったが、自分が行けば余計にティナリアを苦しめるだけだと思い直し、しばらくの間は全てをアリスに任せようとした。
 しかし、任せたとはいえやはり心配になったルークは皆が寝静まった頃になってから彼女の部屋を尋ねていった。起こさないようにそっと戸を開けると、ランプの明かりを頼りに彼女のベッドに近付いた。
 入った時は気付かなかったが、側によるとティナリアは苦しそうに呼吸を乱してうなされているようだった。焦ったルークはランプをテーブルに置くとティナリアの手を握り、彼女に声をかけた。
「ティナリア?」
 数回呼びかけてやっとティナリアは目を開けたがその瞳は虚ろで、いまだに夢の中にいるような様子だった。
「………な…で…」
 小さく呟いた声はルークの耳までは届かず、空中で消えてしまった。
「なに?」
「……行か…な……いで……」
 ルークは生まれて初めて心が痛いと思った。
 こんな風になってもなおアレンを想うティナリアの気持ちが苦しくて、そしてそれを向けられているアレンが心の底から羨ましかった。
 どんなことをしてもティナリアの心は手に入らないのだ、と彼女自身が言っているみたいだ。
「……行か…な……」
 ルークはうわ言のように何度も繰り返し呟くティナリアの瞼の上に、昨夜と同じように手のひらをのせると優しく頭を撫でてやった。
「どこにも行かない。俺はここにいる」
 低く、優しい声がそう答えると、覆った手のひらにティナリアの涙が伝った。
 ルークはその涙が止まり、ティナリアが再び眠りにつくまでずっと、流れるような金の髪を梳くように静かに頭を撫で続けた。苦しげだった呼吸が次第に落ち着いて寝息に変わると、ルークはその手をそっと外した。ランプの淡い光に照らされて、伝った涙の痕が光っている。
 それを拭うように頬を撫で、ルークはありったけの愛しさを込めてその瞼に、額に、そして最後に唇にキスをした。
「……ここにいる…」

―― お前が望めば俺は……ずっとお前のそばにいる…… ――

 この日からルークは夜中にティナリアが苦しんでいるとき以外は彼女に触れようとしなくなった。夜毎うなされるティナリアの頭を撫で、夜が明ける前に部屋へと戻る。そんな生活が続いていた。
 ルークはそれでもよかった。
 いままで散々苦しめて、奪って、傷つけて、こんなになるまで追いつめておいて今更かもしれないが、いまではもう心が手に入らなくてもいいとさえ思っていた。






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