相変わらずルークに体を奪われ続ける日々が続いていたある日、ティナリアは部屋を訪れたルークから突然ドレスを突きつけられた。
「これに着替えろ」
 深みのあるワインレッドのドレスは今までのような可愛らしいものではなく、大人の落ち着きをもった仕立てになっている。合わせた靴もまた然りだ。
 そんなものをいきなり手渡されたティナリアは警戒心を強めてルークを見つめ返した。
「………」
「今夜、リディア伯爵家から夜会に招かれている。お前もついてこい」
 ルークの有無を言わせない口調にティナリアは視線を逸らせて渋々といったように返事をする。
「……分かりました」
 用件だけを伝えてルークが部屋を出ていくとティナリアはホッと胸を撫で下ろした。ルークが部屋に来る時は大抵いつもティナリアの体を求めに来ていたから条件反射で体が強張ってしまうのだ。
 しかし妙だ、と手に持ったドレスに視線を落としながらティナリアは首を傾げた。

―― 今まで夜会なんて出たことないのに…… ――

 "ルークは夜会が嫌いなのだ" と、いつか誰かから聞いたことがあったような気がする。記憶を辿るが誰が言っていたのかは思い出せなかった。
 しかし夫婦揃って夜会に出席する以上、それらしく振る舞わなければならない。
 氷の仮面を被って人形のように笑わなければならないと思うと、ティナリアは心が重たくなった。最近、なぜか分からないが感情を凍らせるのが難しくなっている、と感じていた。
 そして夕方、アリスに手伝ってもらってルークが持ってきた赤いドレスを身につけた。大きく開いた胸元にはルークがつけた紅い跡が薄っすらと残っている。それを隠すように大ぶりの首飾りをつけた。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 アリスの見送りを受けて部屋を出たが豪奢なドレスにも心は浮き立たず、ティナリアは重たいとした足取りでエントランスへと向かった。先にそこで待っていたルークの目がドレス姿のティナリアに止まる。
「……行くぞ」
 ハッとしたようにティナリアから視線を逸らせると彼女を先に馬車に乗せ、次いで自らもそれに乗り込んだ。
 リディア家までの道のりは交わす言葉もなくティナリアは居心地の悪さを感じていたが、久々に出た屋敷の外の景色に目を移すことでなんとかそれをやり過ごした。
 ようやく着いた伯爵家はそれなりに大きな屋敷で、ルークは停車場に馬車を付けさせると颯爽と降りてティナリアに手を差し出した。
 体裁のためなのかルークは人前に出るときは必ずティナリアを紳士らしくエスコートする。ティナリアは目の前に差し出された手に躊躇いながらも、射るようなルークの視線に負けてその手を掴んだ。
 馬車から下りて屋敷に入った二人は伯爵から手厚い歓迎を受けながら会場である広間に通された。外観で想像していたよりも広めなホールの中は既にたくさんの招待客でごった返している。
 次代総督夫妻の登場に周りにいた人々は色めきたって二人を取り囲んだ。スマートにそれらをかわしていくルークの一歩後ろに立つティナリアは、その顔に人形のような笑みを浮かべて人が引いていくのを待った。
 ふと人だかりの奥に目を向けた瞬間、ティナリアの瞳が信じられない、といったように大きく見開かれた。

―― うそ…… ――

 隙間から見えた後ろ姿。優しい薄茶色の髪。
「……ア……レン……」
 ティナリアは無意識のうちに、自分の耳にも届かないほど小さな声でその名を呟いた。
 一時たりとも忘れたことのないあの人を、この目が見間違えるはずがない。
 その愛しい後ろ姿はホールを出て行こうとしている。いまにも走り出してしまいそうな体を必死に抑えて、ティナリアはなんとか自分を落ち着かせた。

―― この人に気付かれないように抜け出さなくては…… ――

 そう思ったティナリアはそっとルークのそばに立ち、彼の右腕にそっと触れた。
「なんだ」
 それに気付いたルークが視線を向けると、ティナリアは耳打ちをするようにそっと顔を寄せる。
「人に酔ったみたいで少し気分が悪くなってしまって……庭に出て空気を吸ってきてもいいでしょうか?」
「ああ、俺もついていこう」
 まさかそうくるとは思わなかったティナリアは内心少し慌てたが、それを露わにすることなくやんわりと断った。
「一人で大丈夫です。あなたは皆さまのお相手を」
 ルークは少し怪訝な顔をしたが、息を吐いて小さく頷くと周りにいた人だかりを分けてティナリアが通れる道を作ってやる。そこを通って廊下に出るとティナリアはすぐにアレンの姿を探した。
 しかしどこにも彼の姿はなく、ティナリアは途方に暮れた。

―― 見つからない……こんなに近くにいるのに…… ――

 怪しまれない程度に周りを見回しながら廊下を歩くうちに一番端まで来てしまったようだ。そこには庭へと繋がる硝子戸があり、ティナリアはゆっくりとそれを押しあけた。
 庭の奥へと歩いていき、そして――――――見つけた。
 木の陰に寄りかかるようにしているその姿を見ただけで、ティナリアの胸は甘い痛みを訴え、呼吸が出来ないほど苦しくなった。
「……アレン…」
 ようやく出した声は掠れていてひどく小さいものだったが、その声に気付いた人影は驚いたようにバッと身を起こした。
「……ティ……ナ……」
 振り返ったのは紛れもなくアレンだった。その髪と同じ優しい薄茶色の瞳が驚きに揺れている。忘れかけていた愛しい声がティナリアの耳に優しく響いた。
 ティナリアは思わず駆け寄り、彼の頬に手を伸ばした。
 あの日、引き離されてから一度として逢うことが出来なかったアレンがいま目の前にいる。
 逢いたくて逢いたくて、ずっと心で呼んでいたその人が、手を伸ばせば触れられるほど近くにいる。
「……アレン……逢いたかった…」
 二度、その名を口にした途端、ティナリアの頬に透明の粒がぽつりと落ちた。あとからあとからとめどなく流れる涙は再び逢えた喜びに満ちていた。
 そしてティナリアの指先がアレンの頬に触れた時、ガサッと木の揺れる音がしてティナリアは咄嗟に手を引っこめた。
「アレン様、旦那様が探しておいでです。そろそろ会場へお戻り下さいませ」
 木陰から現れたリディア家の執事らしい男はアレンに向かってそう言うと、ティナリアにちらりと視線を向けた。その視線がなぜか嫌な感じがしてティナリアはパッと顔を逸らす。

―― リディア家の執事がどうしてアレンを……? ――

 ティナリアが知っている限り、ティグス家とリディア家は関わりがなかったはずだ。ティナリアは心の中で首を傾げた。
「……すぐに行きます」
 アレンの返事を聞いた執事は一礼してその場を去っていく。彼がいなくなったのを確かめたあと、アレンはようやくその口を開いた。
「ティナ、なぜここに」
 しかし、恋い焦がれたアレンの第一声はティナリアの求めていた言葉ではなく、そしてその声にはどこか焦りのようなものが見えた気がした。それを不思議に思いながらもティナリアは問われたことに答え、同じ質問をアレンに返す。
「リディア伯爵に招待されたみたい。アレンこそどうして」
「俺は……」
 そこで言葉を止めたアレンは唐突にティナリアを抱きしめた。
「アレン?」
 ティナリアは突然の抱擁に驚きながらもその懐かしい腕の中で短い幸せを感じていた。
「……ティナ、すまない……実は……」
「なに……」
 なかなか言い出そうとしないアレンに先を促そうとした時、またしても邪魔が入った。招待客の数人がガヤガヤと庭に出てきたようだ。
 それにこれ以上長く席をはずしているとルークに何か勘付かれてしまうかもしてない。そう思ったティナリアは名残惜しそうにしながらも自らの体を包み込んでいたアレンの腕を解いた。
「人が来たわ……アレン、私もう行かないと」
「ティナ」
「愛してるわ、アレン」
 タイムリミットだ。外に出た客人達がもうすぐそこまで来ている。
 ティナリアは背伸びをするとアレンの首に腕を絡めてそっとキスをしてすぐに離れた。それと同時に彼らが姿を現す。
 もう一度だけアレンと目を合わせると、昔と同じ心からの笑顔を向けて屋敷の中へと戻っていった。
 ランプで照らされた廊下を歩くティナリアの心の中は僅かな時間でもアレンと逢えたことへの嬉しさでいっぱいだ。しかしその片隅にはアレンが言いかけた言葉が引っかかっている。
 気にしないようにすればするほど、なぜか不安が大きくなっていく。

―― 何を言おうとしたの?アレン…… ――

 廊下に置いてある大きな鏡の前でふと立ち止まったティナリアは、それに映った自分の姿をまじまじと見つめた。そして涙の跡を拭い去ると、喜びと不安が混ざった表情を仮面の下に隠して再び歩き始めた。




「申し訳ない、妻が心配なので失礼する」
 ティナリアが出て少ししてからルークはそう言うと、周りに集まった貴族たちをなんとかかわしながら彼女のあとを追っていった。
 長い廊下を歩きながら出ていく直前のティナリアの姿を思い出す。言葉こそ聞こえなかったが、彼女が何か呟いたのはその唇の動きから見てとれた。

―― それにあの瞳…… ――

 大きく見開かれたティナリアの瞳は "アレン" がいたことを示している。具合が悪くなったというのは口実で、きっとアレンを追って行ったに違いない。
 庭へと続く硝子の扉はあっさりと見つかり、ルークは静かにその扉を開いた。屋敷の灯りで真っ暗ではないものの、薄暗い庭は人気がないように静まり返っている。
 ティナリアが庭へ行くと言ったところで本当にここにいるのかは疑わしいところだが、ルークは自分の勘を頼りにその奥に進んで行く。
 不意に後ろで戸が開いた音がしたので、ルークは思わず木の陰に隠れ、その人物が通り過ぎるのを待った。ちらりと顔を覗かせたルークが見たのは真っ黒な服を身に付けた執事らしい男だ。
 その男の足音が少し先で止まると同時に話し声が聞こえてくる。
「アレン様、そろそろ始まります」
 確かにアレンと呼んだのを耳にしたルークは執事らしい男が去るのを待って、彼が来た方へと足音を抑えながら歩いて行った。
 そこで目にしたのはルークが見たことのないティナリアの嬉しそうな顔。話している声は聞こえないが、その表情だけでティナリアの感情が伝わってくる。

―― その男にはそんな顔を見せるのか…… ――

 ルークはその身を焦がしそうなほどの嫉妬を自分の内側に感じ、無意識のうちに唇を噛みしめていた。血の味がじわりと口の中に滲む。
 相手の男は優しそうな顔つきで、ルークよりは少し背が低いようだ。薄茶色の髪に目を留めたルークは、ティナリアが抱いていた小さな子猫を思い出した。
 アレンの髪と同じような毛色の子猫を愛しそうに抱きながら涙を流していたティナリアの姿が脳裏に浮かぶ。そんな彼女を無理やり抱いてしまった自分が今更ながら幼稚に思えてくる。

―― けれどもう離してやることは出来ない ――

 ルークはそのまま彼らに背を向けるとその場を離れ、屋敷の中へと戻って行った。






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