「……ティナ…?」
 その日、ティグス家は朝からリディア家に招かれており、ノエルの両親と今日の打ち合わせを行っていた。用意周到にここまでやってきて、何事もなく終わるはずだった。
 しかし夜会に現れたティナリアの姿にアレンは目を疑った。

―― まさか…… ――

 アレンは思わず隣にいたノエルの腕を掴むと小声で彼女を問い質した。
「次代総督夫妻が来るなんて聞いてないぞ」
 アレンの詰問するような声音に驚いたのか、ノエルは少し怯えたように身を引いて答えを返す。
「私もさっき叔父様から聞いたばかりで……叔父様がお知り合いだったようで、ぜひお祝いしたいとルーク様から仰って下さったようなの」
「そう……か」
 次代総督夫妻が来たことが嬉しいのか声を弾ませるノエルに対して、アレンの声は次第に覇気を失っていく。
「アレン様?ご気分が悪いの?」
 アレンの様子に気付いたノエルは一転して心配そうに顔を覗き込んできた。
「いや、大丈夫だ」
「でも顔色が……」
「心配ない。少し風に当たってくるよ」
 そう言ってノエルの頬にキスをすると、彼女は照れたように顔を赤らめて俯いた。
「あとで一緒に踊ろう」
「はい」
 その言葉に嬉しそうに頷いたノエルに背中を見送られ、逃げるように一人庭に出たアレンは木の幹に思い切り自らの拳を叩きつけた。ダンッと鈍い音が闇に吸い込まれていく。
 ジンジンと痺れる手に視線を落とすと、アレンはその手をきつく握りしめた。

―― なんでだ……なぜ邪魔ばかり…… ――

 婚約したことをティナリアが知れば、彼女はアレンが見捨てたと勘違いするだろう。それを懸念してわざわざクロード家と関わりのない家の令嬢を選んだのに、これでは全く意味がない。
 なんとか婚約発表の前にティナに話さなければ、と思うものの、次代総督夫妻と顔を繋ごうと群がる大勢の貴族達の前では話せるはずもないし、かといってティナリアを連れて出るわけにもいかない。そんなことをすればルークに気付かれてしまう。
 突然のことで混乱した頭の中にワインレッドのドレスを身に纏ったティナリアの姿が思い浮かぶ。
 一年以上ぶりに目にしたティナリアは目を見張るほど美しい大人の女になっていた。しかしその顔には噂で聞いていた通り、美しいだけの心を感じさせない微笑みが浮かんでいた。
 アレンの中のティナリアはいつも感情豊かでくるくると表情の変わる可愛らしい女の子だった。それがどうして今のようになってしまったのかは考えるまでもないだろう。

―― あの時、俺がしくじらなければ…… ――

 アレンはあの日のことを思い出してため息を吐き、木の幹に寄りかかった。その刹那、風の音に消えそうな懐かしい声が聞こえたような気がした。
「……アレン…」

―― 聞き間違い……じゃない ――

 アレンは咄嗟に身を起こすと、声のしたほうに向き直った。
「……ティ…ナ……」
 アレンの声を聞いた瞬間、ティナリアの表情は氷が溶けていくかの如く、柔らかい笑顔へと変わっていった。記憶の中の愛しいあの笑顔。
 あの日、自分の手のひらからすり抜けていった彼女の白い手が、自分のほうに伸びてくるのをアレンはじっと見つめていた。
「アレン……逢いたかった…」
 ティナリアの頬に落ちた涙を見たらもう何も言葉が出てこなかった。彼女の細い指先が頬に触れた時、何もかも投げ捨ててこのまま連れ去ってしまいたい衝動に駆られた。
 だが、木の葉の音にその指は怯えたようにすぐに引っ込められてしまう。
「アレン様、そろそろ始まります」
 現れたリディア家の執事の冷めた声に、アレンの心も少しだけ冷静さを取り戻した。
「……ああ、すぐに行く」
 彼が立ち去ったのを確認してからティナリアに視線を戻すと、間近で見る彼女の美しさにアレンは惚れぼれした。が、今はそんなことを言っている場合ではない。
「ティナ、何故ここに」
 何故、今夜、このタイミングで来てしまったのか。
 そんな彼の心境が強く出てしまったのだろう、アレンの口から出た言葉は喜びよりも焦りと困惑が強かった。それを無意識に感じたのか、ティナリアは不思議そうにアレンを見つめ返した。
「アレンこそどうして」
「俺は……」
 ティナリアの質問に答えることが出来ず、アレンはそこで言葉に詰まってしまった。そして気付けば体が勝手に動いてティナリアの細い体を抱きしめていた。
「アレン?」
 戸惑ったようなティナリアの声にハッと我に返ると、アレンは事の顛末を明らかにしようと口を開いた。
「……ティナ……すまない……実は…」
 けれど未だ困惑した思考回路ではうまく説明することが出来ず、心ばかりが先走ってしまう。ティナリアの為とはいえ婚約したことを知れば彼女を傷つけてしまうのではないか、となかなか話を切り出すことが出来なかった。
 そうこうしているうちにティナリアの手がふとアレンの腕からするりと外れていった。
「人が来たわ……アレン、私もう行かないと」
 彼女のその言葉で初めて人の気配が近付いて来ていたことに気付いた。人の話し声にも気付かないほど、アレンは焦っていたのだ。
「ティナ」

―― 待ってくれ……行くな、ティナ…… ――

 頭の中で何度も呼ぶのに、言葉が出てこない。
「愛してるわ、アレン」
 背伸びをしたティナリアの腕がアレンの首に絡まり、唇に彼女の温かなキスが落ちる。そしてまたこの手をすり抜けていったティナリアの後ろ姿をアレンは茫然と見つめていた。




 しばらくしてルークのもとに戻ってきたティナリアの感情は、またいつもの氷の殻に閉じ込められていた。アレンと会っていたことを問い質したい気持ちを抑えて、ルークは極力穏やかな声で声をかける。
「大丈夫か」
「はい」
 ティナリアはルークの心配など必要ないとまでに短く答えると、来た時と同じように彼の一歩後ろについて立った。庭で見たアレンに向けてた表情といま自分に向けられる表情のあまりの違いに不満ばかりが胸の内に燻っていく。
 いまでもアレンが迎えに来ると思っているのか、と思わず言ってしまいそうになるのを堪え、代わりにティナリアの手を自らの腕にかけさせた。
「人前では夫婦らしく振る舞えと言っているだろう。俺の横で笑っていろ」
 冷たい声でそう言うと、ティナリアは一瞬だけ憎しみを籠めた瞳でルークを睨みつけた。
「わかっています」
「ならいい」
 ルークはそのままティナリアを連れてホールの中央へと歩いて行く。華やかな曲とともに踊り始めた貴族たちの中に入ると、ルークもティナリアの手をとった。
「踊るぞ」
「え?」
 思いがけないルークの言葉にティナリアは戸惑いながらも、ステップを踏み出した彼の動きに合わせて無意識のうちに足を動かしていた。
 "華の乙女" という愛称に相応しいティナリアとそれに負けず劣らず端正な顔立ちのルークは、その目を引くような華やかさで周りの貴族を圧倒している。ルークのリードが上手いのか、初めてとは思えないほど軽やかに、そして優雅に二人は踊り続けた。
 ティナリアの金の髪はランプの光を纏って揺れるたびにきらきらと宝石のように輝いた。ふわりと香る甘い匂いにルークはこの場で抱きしめたい気持ちに駆られる。
 それをなんとか押し留めてふと視線を上げると、すぐ近くで踊っているアレンの姿が目に入ってきた。一緒に踊っている女性がおそらくはアレンの婚約者だろう。
 ティナリアもアレンの存在に気付いたらしく、少しだけ顔を俯かせた。

―― もうすぐお前の望みは粉々になる。お前には俺しかいなくなるんだ…… ――

 困惑しながらも自分のステップに合わせて踊るティナリアの姿を見ながら、ルークは心の中で語りかけた。




"人前では妻らしく笑っていろ"

 それはいつもルークが言っていた言葉だ。ティナリアはその言葉に従い、表面上では微笑みを浮かべていた。しかし今はその微笑みの中にほんの少しの戸惑いが混ざっている。
 夜会嫌いのルークが出席したことにも驚きだが、突然この手をとって踊り始めるなんて思ってもみなかったのだ。

―― どうして急に…… ――

 けれどそんな些細な疑問はいまティナリアの心を占めているもう一つのことにあっという間に頭の隅に追いやられてしまった。
 ようやく会えたアレンが言いかけたこと。そしてそのアレンがいま、見しらぬ女性と親しげに踊っているということ。
 ルークの視線の先をふっと追ったとき、女性と踊るアレンの姿が目に留まった。
 派手なドレスを身に纏った女性はティナリアが見たことのない人で、彼女の顔に見えるのは明らかなアレンへの好意だ。嬉しそうにアレンの手をとり、彼のステップに合わせて踊る彼女の姿にティナリアは生まれて初めて嫉妬した。
 自分の中の醜い感情に気付いたティナリアはパッと二人から視線を外して俯いた。
 ルークの手を振り払って今すぐにでもこの場から立ち去りたいのに、しっかりと腰にまわされた彼の手はティナリアの逃亡を許してはくれなさそうだ。
 仕方なく俯いたままルークのステップに合わせていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「ティナリア」
 何だろう、と顔を上げたティナリアの唇におもむろにルークのそれが重なった。
「……っ…」
 ルークは器用にもキスをしながらステップを踏み続けている。ティナリアも止まりそうな足をなんとか動かしながらついていく。周りからも見られていると思うと恥ずかしさでティナリアの頬は蒸気した。
「俯いてばかりいるな」
 離れたルークの顔には不満の色が窺える。
 ティナリアが返事もせずに感情の籠らない瞳を返すと、ルークは面白くなさそうにフンッと鼻を鳴らした。その後も会話はないまま、表面上ではにこやかに二人は踊り続ける。
 しかしこの時、ひとつの疑問がティナリアの頭の中に浮かんできた。

―― アレンがこの場にいるのは偶然……? ――

 夜会嫌いのルークが突然出席すると言ったこの夜会に、アレンがいたということがティナリアの心に引っかかっていた。
 初めてルークがこの体を抱いた日、あのとき彼はティナリアの口からこぼれた "アレン" という言葉を耳にしたのではなかったか。
 そこからティナリアとの繋がりを見つけたのだろうか。しかし、もしそうだったとしてもあえてアレンと会わせる理由が分からない。言葉では言い表せない何かがしこりのように残っていく。
 そんな疑念が胸の中を渦巻いているうちにゆったりとした音楽は止まり、ホールで踊っていた人々は皆、パートナーに向かってお辞儀をした。ルークとティナリアも例外ではなく、礼儀に従って互いに頭を下げる。
 表情の変わらないティナリアはルークにエスコートされるがままホールの中央へと歩いて行った。手を振り解きたいけれどここでそんなことをすればあとでどんな目に遭うか分かったものじゃない。
 衝動を堪えながら歩を進めながら縋るように辺りを見回したがそこにはすでにアレンの姿はなく、ただティナリア心の中の言い知れぬ不安を大きくさせるばかりであった。






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