ティナリアを毎晩のように抱くようになったある日、ルークのもとに公務で客人が訪ねてきた。
「ご足労頂いて申し訳ない」
「いえ、お気遣いなさらずに。ところで例の件なんですが……」
 当たり障りない挨拶から始まった仕事の話は小一時間ほどで終わり、ルークとその男は少し世間話を始めた。
「近頃はどこも景気が悪くて……私らも頭を悩ませておりますよ」
「そうですね。たまにはいい知らせが聞きたいものです」
 ルークの言葉で何かを思い出したように男がぽんっと手を叩いた。
「ああ、でも今朝嬉しい知らせが届いたんですよ」
「嬉しい知らせ?」
「ええ、私事なんですけどね、姪が婚約したそうで今度それのお披露目があるんです」
「それはおめでとうございます」
 男の嬉しそうな顔につられて、ルークも相好を崩した。が、次の言葉にルークはハッとして動きを止めた。
「相手は子爵家のご子息で確か名はアレンと言ったかな。好青年だと聞いているので叔父としては一安心ですよ」
「……そう、ですか」
 そう答えながらもルークの頭の中にはティナリアの顔が浮かんでいた。

―― いや……アレンなんて名はどこにだってある……だが… ――

「どちらの子爵のご子息で?」
 至って普通の声で尋ねると、男は疑いもせずにアレンについて話してくれた。
「ティグス家ですが、王都ではあまり聞かない名かもしれませんね」
「そうでしたか」
「すみません、ルーク様には関わりないことでしたな」
 客人は申し訳なさそうに頭に手をやりながら笑うと、壁に掛けられた時計に目を向けた。
「では私はそろそろおいとまを」
 そう言って立ち上がった彼に向かってルークは声をかけた。
「あの」
「はい?」
 ルークの声に客人が顔を上げる。
「そのお披露目はいつなんですか?」
「二週間後くらいでしたかな。それが何か?」
 ルークは咄嗟に言い訳を考えて、思い付いたそれを口にした。
「私も出席出来ないでしょうか」
「ルーク様が……ですか?」
 突然の申し出に面を食らった客人はぽかんとした表情でルークを見やった。
「ええ。いつもお世話になっているあなたの姪御さんにぜひお祝いをと思ったのですが……やはり急すぎましたね」
「いいえ!ルーク様が来て下さるなんて光栄にございます」
 慌てた彼は大げさなほど手を振り回してそう言った。あとで日取りの詳細を送る、と言い残して男が帰ると、自室に戻ったルークは疲れたように椅子に座り込み、息を吐いた。
 客人の言う "アレン" が "ティナリアのアレン" とは限らない。それは分かっているが、ルークは自分でも驚くほどその名前に反応してしまっていた。
 ティナリアが想う相手を、彼女が心の全てを預けている相手を、この目で見てみたいと思ったのだ。
 ルークはすぐにジルを呼びつけると、今さっき聞いた名を彼に伝えた。
「ティグス子爵家の子息でアレンという者を調べて欲しい」
「かしこまりましたが……どうされたんですか?」
 突然の命令に怪訝な顔をしたジルになんて答えたらいいのか分からず、ルークは適当に言い捨てた。
「別にどうもしない」
 その答えにジルの顔が余計に顰められた。
「……左様ですか」
「頼んだぞ」
 腑に落ちないといった様子のまま、ジルはルークの部屋をあとにした。ひとりになった部屋でルークは天井をぼんやりと見上げて肩の力を抜いた。

―― 九つも下の小娘に翻弄されるとはな…… ――

 以前の自分ならまずあり得ない、とルークは小さく苦笑した。




 ルークから依頼され、次の日からジルはティグス子爵家のアレンという男について調べて始めた。
 アレン=ジル=ティグスがティナリアの幼い頃からの知り合いだということは最初の段階ですぐに分かった。それだけでも十分に驚いたジルだったが、以前ローレン家で働いていたという使用人を買収してさらに驚くべき話を聞き出した。
「ティグス様とティナリア様は恋人同士だったのよ」
「恋人?」
 そう聞き返したジルに向かって彼女は声を潜めた。口の軽いらしい彼女はここだけの話なんですけど、とありきたりな前置きを付けてから自らスキャンダルを話し始めた。
「なんでもティナリア様がクロード家に嫁ぐのを嫌がって、お二人は駆け落ちしようとしたらしいわ」
「駆け落ち……」
 その言葉に普段は穏やかなジルの顔がみるみるうちに険しくなっていく。
「結局、ウォレス様に見つかってお二人は引き離されたようだけど」
「そうですか。他に何かご存知のことは?」
「そうねぇ……ああ、ティナリア様が笑わなくなられたのはその頃からかしら」
「笑わなくなった?」
「ええ。以前はそれはもう愛らしく笑っていらしたけれど、その頃から表情がすとんと落ちてしまったみたいになられて。きっとよほどショックだったんでしょ」
「………」
 憐みの色を浮かべて話を続ける女からはそれ以上有益な情報は出て来なかった。
「色々と聞かせて下さってありがとうございました。あ、それと今後どのような者が来ても今聞かせて下さった話は他言無用にお願いしますね」
 そう言い含めて席を立ったジルは彼女の前に金貨の入った袋を置き、そのままその場を離れた。
 頭を悩ませながらしばらく歩いていたが、そのうち眉を顰めたままぴたりと足が止まった。

―― こんなことを報告しなければならないのか ――

 ルークは何か知っていて調べろと言い出したのだろうか。先日、指示を出した時の言葉や様子を思い返して首を捻る。
 それにしてもまさかこんな話を聞くことになるとは思いもしなかった、とジルは深いため息をついた。
 ティナリアに接する態度は冷たいものの、幼い頃からルークのそばにいたジルにはそれが偽りの行動だと薄々感じていた。ちょっとしたことからルークがティナリアに想いを寄せているのが分かる。
 だからこそ、この事実をどうやって報告すればいいのか迷っていた。

―― いっそ隠しておこうか…… ――

 冗談半分、本気半分でそんなことを思いながら、ジルはまだ明るい日差しの中、とぼとぼと屋敷への帰路についた。




 あれから一週間後、ルークのもとに一通の手紙が届いた。リディア伯爵家からの夜会の招待状だが、例の婚約の公表については一切触れていない。

―― 婚約発表がメインではないのか ――

 夜会と聞いてルークとしてはうんざりしてしまったが、無理を言って出席すると言ったのは自分だし、何よりもアレンの存在が気になる。どんなに夜会が嫌いでも今回ばかりは行かないわけにはいかない。
 招待状を投げ捨てるように机の上に放ったところで、部屋にノックの音が響いた。
「入れ」
「失礼致します」
 金髪の髪をさらりと落としながらジルが部屋に入ってくる。
「先日のティグス子爵家のご子息についてなんですが……」
「ああ、何か分かったのか」
 ルークがそう言うとジルは一瞬躊躇いを見せたがすぐに頷き、調べ上げたことを話し始めた。
「はい。確かにティグス子爵家の長男にアレンという名の子息がいらっしゃいました。正式名はアレン=ジル=ティグス。ローレン家と交流があり、ティナリア様とは幼い頃から友人……いえ、近年では恋人同士であったようです」
 一息に告げるジルの報告に、ルークはただ黙って耳を傾けていた。

―― まさか本当に "ティナリアのアレン" だったとは…… ――

 自分の勘の鋭さに半ば呆れてしまい、ルークは心の中で苦笑した。
「そうか、分かった。わざわざすまなかったな」
 それで終わりだと思っていたルークはそう言ってジルに背を向けたが、部屋を出て行く気配がないので不思議に思って再度、彼のほうを振り向く。
「どうした?」
「ルーク様……これはお知りにならないほうがよろしいかとも思ったのですが……」
 ジルのその重い口調に嫌な予感が駆け巡る。こういうときの勘だけはなぜかいつも鋭い。
 聞きたくない気持ちと聞きたい気持ちがルークの胸の中でせめぎ合う。短い時間だが逡巡した結果、聞きたい気持ちが勝った。
「話せ」
 静かに先を促すと、ジルは考えたように一度だけ視線を下に向けてからルークの目をまっすぐに捉え、言いにくそうに口を開いた。
「……ルーク様、落ち着いてお聞き下さいね」
 そう前振りを置いてからジルは話し始める。ルークが取り乱すかもしれないと思うほど悪い話らしいことは確かなようだ。
「噂に過ぎないかもしれませんが……」
 ジルはそこで言葉を途切らせたが、ルークは無言のまま視線だけで先を促した。ジルは諦めたようにゆっくり息を吐き出すと、その重い口を再び開いた。
「ティナリア様はクロード家に嫁がれる前、彼と……駆け落ちをしようとされたらしいです。結局、ローレン卿に連れ戻されたようですが、その頃から一切笑わなくなったと聞いております」
「……そうか」
 あっさりとした反応が予想外だったのか、ジルは少し驚いていたようだが、ルークはそんな彼に礼を告げた。
「調べが早くて助かった。ありがとう」
「いえ」
 そう言って一礼をして部屋を出ようとしたジルを呼び止めると、ルークは招待状を持たせた。
「これに出席する。出しておいてくれ」
「夜会……ですか?珍しいですね」
 どれだけ言っても滅多に出ることのないルークが自ら出席するなんて珍しい、とジルの目が無言で語っている。
「まあ、ちょっとな」
「かしこまりました」
 さらっとかわしたルークに深く問うこともせず、ジルはそれを懐にしまうと再度ルークに一礼をした。
 そしてバタンと扉が閉まった瞬間、ルークは小さく声をあげて笑った。笑うしかないとでもいうような、嘲笑うような笑い方だ。
「……まさか駆け落ちとはな」

―― 馬鹿なことを…… ――

 外敵も何もないぬくぬくとした温室で蝶よ花よと育てられた令嬢が何も知らない外の世界に飛び出して行くなんて暴挙としか言いようがない。が、そうしてまでも自分の元に嫁ぎたくなかったのだろう。
 そして、それほどまでにその男のことを愛していたのだろう。
 笑うのを止めたルークの顔には、怒りでも、悔しさでもなく、ただ悲しそうな表情だけが浮かんでいた。




 その夜、皆が寝静まってひっそりとしている廊下をひとり歩いていくルークの姿があった。向かう先はティナリアの寝室だ。
 ティナリアの部屋の中からは物音ひとつせず、ルークは扉に手をかけると音を立てないように気をつけながらそっとその扉を開ける。カーテンの隙間から差し込む月明かりが少しあったお陰で物にぶつかることもなく彼女が眠るベッドまで辿り着くことが出来た。
 薄明かりの中に眠るティナリアの顔は普段よりも少しあどけなく、ルークが来たことにも気付かずにすやすやと可愛らしい寝息を立てている。
 ルークはベッドの端に座るとそっとその頬に触れ、絹のような滑らかな肌を優しく撫でた。
「ティナリア……」
 小さく呼びかけてみても、ティナリアは目を開けることなく眠り続けている。
 抱いたあとは自己嫌悪から彼女のそばにいるのが辛くていつもベッドに置き去りにしていた為、こうして彼女の寝顔を見るのは初めてだった。
 穏やかな表情で眠るティナリアの姿は本当に清らかな天使のようで、ルークは視線を移すことなくしばらくの間じっと見つめ続けた。
「……愛しているのか…」

―― その男のことを……いまでも… ――

 答えることのないティナリアに問いかけたルークは、彼女の額に優しい口付けを落とすとベッドから腰を上げた。これ以上ここにいたらまた感情を抑えきれなくなってしまいそうだ。
 せめて今だけはティナリアのその穏やかな表情を壊したくなかった。
 さらりと金の髪を撫で、ルークは静かに彼女の部屋をあとにした。






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