ティナリア=ヴァン=ローレンは緑溢れる美しい島とその周りを取り囲む海路の一部を所有する侯爵家の一人娘として大切に育てられてきた。
 白く大きな屋敷の中で成長したティナリアは先日の誕生日で十六歳を迎えたばかりだ。
 背中に流れる見事な金の髪に陶器のようになめらかな白い肌、愛らしい瞳とふっくらとした紅い唇。いまはまだ少しだけ幼さの残るその容姿は、あと数年もすれば色気をまして近隣諸国からの求婚が後を絶たなくなるだろうことは目にみえていた。
 その証拠に、まだ社交界デビューしていないティナリアが貴族たちの間で "華の乙女" とすでに噂になっている。
 来月開かれる夜会についにティナリアが出席することになったという話は、今か今かと待ちわびていた彼らの間にあっという間に広まっていった。
 そしてもう一人、ここに彼女の社交界デビューを心待ちにしていた者がいた。
 ティナリア付きの侍女であるアリスは夜会を前にして本人を上回る気合の入りようで、夜会に着て行くドレスから靴、首飾りに髪飾り、ありとあらゆるものの手配に忙しく動き回っている。
 そんなある日の昼過ぎにティナリアが部屋で本を読んでいるとノックの音が静かに響いた。
「どうぞ」
 椅子に座ったままドアに向かって声をかけると、アリスが頭を下げて入ってくる。
「失礼致します」
 その腕に抱えられたドレスを見て、ティナリアは思わず笑ってしまった。
「アリスったらまたドレスを持ってきたの?これでもう三着目よ?」
「いいんです。ティナリア様はこれからお召しになる機会がたくさんあるんですから。初めての夜会に華々しくお出になるためには至高の一品でなくてはなりませんわ」
 ティナリアとそう年の変わらないアリスはまるで姉のように言うと、ティナリアを椅子から立たせて鏡の前に連れていき、持ってきたドレスを試着させた。
 薄紅色のそのドレスは肩先に引っかけて着るタイプのもので、鎖骨が綺麗に見えるデザインだった。
 生地のまわりにつけられた繊細なレースは一見すると幼く見えそうだが、着てみるとそんなことはなく、逆に清楚で初々しい感じが出ている。裾に施された刺繍にも職人とアリスのこだわりが見えるようだ。
「素敵なドレス……」
 最初はまたか、と少々呆れもしたが、袖を通して見るとその美しいドレスについうっとりしてしまった。
 そんな彼女のまわりをくるりと一周したアリスは満足そうに何度も頷いている。そして箱から取り出したシルバーの首飾りをつけるとにっこりと微笑んだ。
「完璧ですわ」
 アリスの自信たっぷりな褒め言葉にティナリアは思わず苦笑しながらも、その首飾りにはめられている碧い石を見て、あの指輪にぴったりだ、と心の中で密かに思った。
 幼いころから大好きだったアレン=ジル=ティグスが十六歳の誕生日にプレゼントしてくれた碧い指輪。
 二人の未来が詰まったあの指輪。
 ティナリアはずっとつけているつもりだったが、アレンがローレン卿、つまりティナリアの父親に挨拶に行くまではあまり目立たないほうがいいと止めたので仕方なく外していたのだ。
 毎日それを眺め、一人で部屋にいるときにこっそりつけるだけだった。

―― 夜会のときはつけていこう ――

 父の目の届かないところならばはめていたって問題はないだろう。もう一度あの指輪を堂々とはめることが出来ると思うと自然と顔が緩んでしまう。
「ティナリア様?どうかされましたか?」
 さっきまで苦笑していたティナリアが急ににこにこし始めたのでアリスはいぶかしがって尋ねた。
「ううん、なんでもないの。こんな素敵なドレスを用意してもらって夜会が楽しみだなと思って」
 誤魔化すために咄嗟にでた言葉だが、あながち嘘でもない。本当に素敵なドレスだと思っていた。その言葉にアリスは飛びあがらんばかりに喜んだ。
「左様でございますか!選びに選んだ甲斐があるってものです」
「ありがとう、アリス」
 素直に礼を述べるとアリスはにっこりと笑って会釈した。
「ドレスも手直しは必要ありませんね。どうぞお召し替え下さいませ」
 ティナリアの着替えを手伝いながら最後に首飾りを外した。それらすべてをティナリアの部屋にきちんとしまい、アリスは部屋から出て行った。
 パタンとドアの閉まる音がして一人になると、引き出しから紅いリボンの箱を取り出し、中に入っていた指輪をその首飾りの横に並べた。

―― 思った通りぴったりの色……嬉しいな… ――

 それらを見比べながらティナリアは一週間後に控えた夜会が待ち遠しく、期待に胸を膨らませていた。




 そして夜会の前日、ティナリアとアリスを含めた数人の使用人を乗せて島から船が出発した。晴れた日は島からも見ることが出来る対岸の大陸には一時間もかからずに到着した。
 そこから馬車に乗って大陸の中央に位置する王都まで移動する。そこにあるローレン家のタウンハウスが今日の目的地だ。
 あまり島から出ることのなかったティナリアはその景色に目を奪われ、ひたすら馬車に乗るだけの道のりも一向に退屈しなかった。
「ねぇ、アリスはもともと大陸の北で生まれたのよね?王都にはよく行っていたの?」
 うきうきと声を弾ませながら隣に座っているアリスに声をかける。
「いえ、王都には滅多に行けませんでした。祭典のときなどは無理をしてでも行きましたけど」
「そうなの。じゃあ今日一緒に来ることが出来てよかったわ」
 ティナリアがそう言うと、アリスは何故か申し訳なさそうな顔をした。
「ティナリア様が旦那様に頼まれたそうですね。でも夜会には私よりも慣れている者のほうがよかったんじゃありませんか?」
「いいの。私がアリスと行きたかったの。だって私のためにあんなに頑張ってくれたんですもの。綺麗な姿を見てもらわなくちゃ」
 にっこり笑うとアリスも不安顔が解けてその笑顔につられるように笑った。
「ありがとうございます。腕をふるってティナリア様のお支度をさせて頂きますわ」
「期待しているわ」
 それからタウンハウスに着くまで馬車の中からはきゃっきゃっと女の子特有の明るい声が零れていた。
 夜になってようやく王都に到着すると、ティナリアは久しぶりのタウンハウスへと入っていった。島の屋敷と変わらず手入れが行き届いている。
「ティナリア様、今日はもうお疲れでしょうからお早めにお休みくださいね」
「ええ、そうするわ」
 アリスの気遣いにそう答え、ティナリアは夕食をとるとすぐに部屋に入った。




 街の灯りがぼんやりと辺りを照らしている。窓を開ければ夜もまだ早いため、広場からはまだ賑やかな声も聞こえてくる。
 ティナリアは島から出た解放感と、持ち合わせの好奇心でついよからぬことを考えてしまった。

―― すぐに戻ってくれば平気よね……? ――

 持ってきた服の中でも一番地味なワンピースに着替え、上からストールを深くかぶって町娘を装うと、少し迷いながらも誰にも見つからないようにこっそりと裏口から外に出て行った。
 初めて一人で歩く夜の街は想像以上にティナリアの心を浮き立たせた。
 生地屋に帽子屋、食堂に奥のほうには酒場などもあるようだ。物珍しそうにあたりを見回しながら進んで行くうちに、いつの間にか薄暗い路地に入り込んでしまっていた。
「お嬢さん、どっから来たの?」
 いきなり目の前の道を塞がれて顔を上げると、見るからにガラの悪そうな男が立っていた。その仲間と思われる他の二人は壁によりかかりながらにやにやとこっちを見ている。
 まずい、と頭の中で警鐘が鳴る。ティナリアは来た道を引き返そうと後ろを振り向いたが、男に腕を掴まれ動けなくなってしまった。
「逃げることねぇだろ。お話しようぜ」
「は、放してください!」
 ティナリアが力いっぱい腕を振っても男はびくともしない。男は笑いながらティナリアの顔を覗き込んだ。
「うわ、すげぇ上玉。おい、こっち来て見てみろよ」
 その声に仲間が集まってくると次々にティナリアの顔を舐めるように見ていく。皆、酔っているのかひどく酒臭い。
「本当だ、こりゃすげぇ」
「着てるものも上等だぜ。どっかの令嬢か?」
 ティナリアは蒼白になりながらこの状況をどうにか切り抜けようと考えたが、大の男三人に囲まれては為す術はなかった。
 男たちは震える彼女の腕を掴んだまま、引きずるようにさらに奥へと歩き始めた。奥に行くにつれて灯りが減り、辺りはどんどん暗くなっていく。

―― どうしよう……声が出ない…… ――

 ティナリアが怯えて大人しくなったからだろう、男が腕を掴むその手を緩めた。その一瞬にティナリアは渾身の力を込めて腕を振り払うと、来た道を全速力で駆け戻っていった。
「逃げたぞ!追え!」
 心臓が早鐘のように鳴っていて周りの音が聞こえない。さっきの大通りからそんなに離れていないはずなのに、通りの明るさがやけに遠く感じる。
 目深にかぶっていたストールも風を受けて頭からはらりと落ち、隠されていた金の髪が走るたびに背中で波打った。
 ティナリアは形振りかまわず、もつれる足を懸命に動かしながら走り続けた。だが、所詮男の足に敵うはずがない。追いかけてくる男たちの足音がもうすぐそこまで迫っている。

―― だめ……逃げ切れない…………誰か!! ――

 男たちが手を伸ばした瞬間、ティナリアは目の前に現れた男に思い切りぶつかった。
「きゃっ」
 ぶつかった反動でよろけたティナリアの体を抱えるように、男は彼女の背中に腕を回した。自然と抱き寄せられる形になり、ティナリアはその男の腕の中に納まった。
「なんだ、てめぇ」
 後ろから追ってきた男たちはいきなり現れた男に若干警戒しながらも威勢よく文句をつけた。が、それに答える声はない。
 その男は腕の中にいるティナリアにちらりと視線を落とすと、いきなり彼女の頬にキスをした。
「……っ…」
 ティナリアが声を上げようとしたその唇に人差し指を押しつける。驚いたティナリアが顔を見上げると、その男の目が "黙っていろ" と言っていた。
「こんなところにいたのか。探したよ、マイレディ」
 優しそうな声でそう言うと男はティナリアの唇から静かに指を離した。






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