屋敷から少し歩くと目が覚めるようなエメラルドグリーンの海が眼下に広がった。照りつける太陽の光にきらきらと反射する海面に思わず目を細める。
 緑が豊かなこの島は、海路の一部を保有するほどの財力をもつ侯爵家の所有地だった。島の中央にはその権威を象徴するかのような白く大きな屋敷が佇んでいる。
 少女は振り返ってその屋敷を見ると、小さくため息をついてすぐに海へと視線を戻した。

―― ここから出たい……どこか違うところに…… ――

 少女は悲しそうな目を足元に向けると落ちていた石を拾い上げ、意味もなく海へ投げ捨てた。少女の手を離れた石はあっという間に見えなくなり水に落ちた音さえも届かなかった。
 退屈そうにその場に座り込むとただ黙って波と風の音に耳を傾ける。
「……ナ…」
 ふと風の音に紛れて自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして辺りを見回した。が、誰も見当たらない。気のせいかと思ったが、奥のほうからガサガサと葉の揺れる音が聞こえる。
 あっちは屋敷からつながる道だ。誰かが探しに来たのかとじっと見ていると木の奥から薄茶色の髪のすらりとした青年が顔を出した。
「ティナ……ああ、やっぱりここにいたのか」
 青年はティナと呼ばれた少女を見つけるとにこりと微笑んだ。
「アレン!来ていたのね!いつ来たの?」
 少女は驚きながらも嬉しそうな声をあげ青年のほうへ駆け寄ると、先ほどとは180度変わった笑顔で彼に抱きついた。
 陽に透けるような美しい金の髪がふわりと揺れる。その瞬間、香水も付けていない少女から花のような何とも言えない甘い香りが広がった。
 青年はその愛らしい少女を抱きとめると、思わず目を閉じてその香りを吸い込んだ。
「ねぇ、アレン、海まで降りてお散歩しましょう?」
 少女は腕を青年の背中に回したまま顔だけ上げると思いついたように言った。
「でも今日はティナのバースデーパーティーだろう。海に行ったら汚れてしまうよ」
 まるで子猫がじゃれてくるような少女の仕草にたまらなく愛しさを感じながらも、青年は少女の行動を優しくたしなめた。
「少しくらいなら平気よ。だって誕生日だもの、これくらいのわがままは聞いてくれるでしょう。そうだわ、これがプレゼントってことすればいいのよ」
 名案だとでもいうように両手をパチンと合わせると、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
 返事も聞かずにさっさと歩きだしてしまったその楽しそうな後ろ姿を見て、青年はもう何も言うことが出来ず、口元に笑みを浮かべたまま少女の後をついていった。
「きゃっ」
 可愛らしい声をあげて少女がバランスを崩した。とっさに後ろから腕を支えて態勢を立て直す。
「大丈夫か?ほら、掴まって」
 砂に足をとられそうになっている少女に手を伸ばすと、一瞬躊躇ためらったあとにおずおずとその手を重ねた。うつむいた顔を横目で見ると頬に赤みがさしている。

―― 相変わらずだな ――

 さっきは自分から抱きついてきたというのに、手を握るだけで恥ずかしがる。
 そんなところも可愛く思いながらも、それを口にすれば少女はさらに赤くなってしまうだろうから、と青年は心の中だけに留めた。
「なあに?」
 そんな青年の様子を察したのか、まだ赤いままの顔を少しだけ上げると小さく尋ねた。
「なんでもないよ」
「うそ、何か隠してるでしょう」
 含み笑いのまま答えた青年に口をとがらせる。
「ティナはいつ見てもかわいいなと思って」
 にこやかに話をそらすと少女は予想外の返しだったのか、呆気にとられたように目を丸くした。
「そういうことじゃなくて………もういい!」
 そう言ってふてくされると少女は青年の手をするりと離れて歩いて行く。そんな少女を見てさらにかわいいなどと思いながら青年は追いかけて行った。
「ごめん、ティナ」
 少女は謝る青年から顔を背けたまま歩き続けた。
「ティナ、プレゼントはこれだけでいいの?」
 しばらく無視をしていたらいきなり話が飛んだ。何だろうと訝しがって少女はようやく後ろを向くと青年が口の端を上げながら立ち止っていた。
「やっとこっち向いてくれた……」
 その表情と優しげな声に思わず胸がドキッと跳ね上がる。
「本当はちゃんとプレゼントを用意してきたんだよ。散歩だけと言わずに受け取ってくれないかな」
 そう言って青年は上着の内ポケットから小さな小箱を取り出し、少女のそばに近づいていく。少女の手をとると、光沢のある綺麗な紅いリボンで包まれたその箱をそっとのせた。
「……開けて…いい?」
 しばらくじっと小箱を見つめていた少女が反応を伺うように聞いてきた。青年は笑みを浮かべたまま、どうぞというように首を少しだけ傾けて少女を促してやる。
 少女はまた視線を小箱に戻すと、心なしか震える手でおそるおそる紅いリボンを解いていった。
 そしてゆっくり箱を開けると、少女の視線は入っていたものにくぎ付けになった。
「……これ…」
 箱の中にあったのは美しい海色の石がついた指輪。光を浴びてキラキラと光るそれは目の前の海よりも美しく輝いていた。
「気に入ってもらえたかな?」
 青年はそう言って少女の手から箱をとると、中の指輪を取り出した。
「ティナが十六になるのをずっと待ってたんだ」
 少女は頬を赤く染め上げながら青年の言葉を静かに待った。しばらくの沈黙のあと、指輪を眺めていた青年の目がまっすぐに少女を捉えた。
「ずっと好きだった……俺と結婚してほしい…」
 その言葉を聞いた瞬間、少女はまるで花が開いたようにふわっとやわらかく微笑んだ。
「……そう言ってくれるの……待ってた…」
 その瞳にうっすらと涙を浮かべながら笑う少女はあまりにも美しく、青年は無意識のうちに少女の細い体を抱きしめていた。
「必ず幸せにするから……」
「……うん」
 二人は間近で見つめ合うと同じタイミングでふっと息を漏らして笑った。
 そしてどちらからともなくそっとキスをした。
 少女にとって初めてのキスは優しく、心があったかくなるものだった。




「それ、つけてもいいの?」
 互いの体が離れると少女は赤くなった顔を少しうつむかせたまま、照れ隠しのようにぎこちない明るい声で聞いてきた。
 青年はそんな少女の手をとると、細く華奢きゃしゃな指にそれをはめた。碧い石が白い手に一層映える。
「やっぱりティナは青がよく似合う」
「……綺麗…」
 碧く輝く石に、繊細な模様が彫りこまれているリングは決して派手ではなく、上品に少女の指におさまっている。指輪をはめた手を空にかざしながら少女は魅せられたようにつぶやいた。
「ありがとう、アレン。今まででいちばん幸せよ」
 まだ少し幼さの残るその笑顔が青年の目に眩しく映った。
「喜んでいただけて何よりです、我が姫」
 冗談っぽく跪いてみせると少女は照れたように笑う。
「近いうちに改めてティナの御父上にご挨拶に伺うよ」
「そうね……でもきっとお父様はもう半分くらい気付いていると思うわ」
「それはまずいな。じゃあそろそろ戻ろう」
「どうして?」
 突然帰ると言い出した青年を不思議に思って顔を覗き込む。
「ティナがパーティーに遅れたら、遅刻させた俺にティナをくれなくなってしまうかもしれないだろ」
 茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせると少女も納得したように青年の横に並んだ。
「ふふっ…それは困るわね。帰ったら急いで準備をしなくちゃ」
「さ、行こう」
 そう言って青年は立ち上がると少女に手を差し伸べた。
 来る時と同じように差し出された手を今度は躊躇うことなくしっかり握ると二人は屋敷へと戻って行った。




 屋敷に戻るといつもそばについてくれている侍女が腰に手を当てて待っていた。
「ティナリア様、どちらに行ってらしたんですか?もうすぐパーティーが始まりますのに」
「ごめんなさい。ちょっとお散歩に」
 悪戯っぽい笑顔を浮かべてそう答えると侍女は少し呆れたような顔で笑った。それから少女は部屋へと急がされ、すぐにドレスに着替えて髪を整えられる。
 胸元を広く開けた淡い水色のドレスは少女の透けるような白い肌によく映え、歩くたびに袖や裾に施されたレースがふわりふわりと軽やかに舞った。
 長い金色の髪はさらっとおろしたまま、サイドからみつあみをして清楚にまとめる。仕上げにパールの首飾りに同じくパールの耳飾り、髪にもパールをちりばめた。
 準備の途中、つい指にはまっているリングに何度も目がいってしまう。そのたびに先ほどの青年とのやりとりを思いだしては手が止まってしまった。
 そして侍女の声ではっと我に返り、急いで仕度を再開する。それの繰り返しで結局、仕度が整ったのはパーティーが始まる直前だった。
「ティナリア様、そろそろお時間ですよ」
 準備を終えた少女は部屋を出ようと立ち上がり、ドアノブに手をかけた。と、その手にある指輪を見てはめたままでいいものかと考えて立ち止る。

―― どうしよう……お父様に見られたらまずいかしら…… ――

 しかし、せっかく青年がはめてくれた指輪を外したくないという気持ちもあった。
「ティナリア様?」
 再度、急かされて少女は慌てた。
「ごめんなさい。いま行くわ」
 そう返事をしてから少女は部屋を出るとホールへと向かった。
 十六歳の誕生を祝うパーティーは終始、集まった人々の笑い声が溢れ、穏やかに過ぎて行った。少女は明るく快活な笑顔を振りまきながらホールの中を挨拶してまわっている。
 美しいドレスに身を包んでいるせいか、それとも青年と将来を誓い合ったせいだろうか。少女のその姿はさっきよりも少しだけ大人びて見えた。
 青年はそんな彼女を未来の妻として誇らしく思いながら遠くから優しい眼差しで見守っている。
 時折、少女は青年の方に視線を向け、目が合うとはにかんだ笑顔を浮かべて彼に手を振った。青年もまた相好を崩して手を振り返す。
 少女の白く小さな手には青年が贈った碧い指輪が光っていた。




 少女は幸せだった。
 島を出たいと願うことはあったが、彼が共にいてくれるのなら一生出られなくてもかまわないとさえ思っていた。
 そんな幸せがあっけなく終わることになるなんてこのときはまだ少女も青年も思ってもみなかった。






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