突然現れた男は、よく見れば上品な身なりをしていて明らかに追ってきた連中とは違うようだった。
 すらりとした均整のとれた体に漆黒の髪。背も高い上、暗がりで陰になっていて表情ははっきりとしないが、その顔は整っているように見える。
 ティナリアはその男の腕の中でさっきまでとは違った混乱に陥っていた。

―― 誰……? ――

 とにかく "黙っていろ" というような視線に従って口を閉じたまま、動けずにじっとしていると彼はさらに言葉を続けた。
「あまり遠くに行くなといっただろう。心配したぞ」
 ティナリアの停止していた思考回路がようやくつながり、彼は自分を助けるために演技しているのだと思い当たる。
 しかし、その優しく諭すような声はまるで本当に心配していた恋人そのもののように聞こえて、演技とは思えないほどだった。
「ご……ごめんなさい」
 その雰囲気にのまれて、ティナリアはつい本気で謝ってしまった。
「さぁ、戻るぞ」
 ティナリアの肩を抱いたまま引き返そうと背を向けると、今までその存在を完全に無視されて呆気にとられていた男たちが彼の肩を掴み、乱暴に引き止めた。
「なんなんだよ、お前。そいつは俺らと遊んでんだよ」
 ガラの悪い男たちが喧嘩を吹っ掛けるように彼の肩を突き飛ばす。彼はぽんぽんとさりげなく肩を払うと男たちにその視線を向けた。
「彼女は私の連れだ。お前たちの相手をするような女じゃない。他をあたれ」
 淡々と言う彼に男たちは逆上した。
「いいから女、置いてけよ。痛い目みたくねぇだろ?」
「ああ、ついでにお前の有り金も置いてけ」
 最初にティナリアの腕を掴んだあの男がナイフを持って彼の目の前に突きつけている。暗いにも関わらず、男の目が異様にギラついて見えた。
 ティナリアは息を呑んだ。
 ようやく落ち着きかけていた恐怖がまた膨らんでくる。

―― どうしよう……ナイフまで持っているなんて…… ――

 しかし、向けられている本人は一向に動じる様子はなく、逆に男たちのほうがおどおどしているように見えた。
「私の後ろに下がっていて」
「でも……」
「いいから下がっていなさい」
 そう言ってティナリアを自分の背に隠すと、彼はナイフを持った男に真正面から歩み寄っていった。
「どうした?痛い目みせてくれるんだろう?」
 さっきまでの優しい声ではなかった。背筋がぞくりとするような冷たい声が耳に届く。
「うるせえ!それ以上、こっち寄るな!」
 彼の静かな迫力に気圧されたように後ずさると、男は大声で叫びながらナイフを振り上げた。
「きゃっ……」
 そのあとのことは一瞬だった。
 ティナリアには何が起きたかすらわからなかった。ただ悲鳴を上げる間もなく、気付いたときには男は頭を鷲掴みにされて壁に叩きつけられていた。
「…う……あ…」
 そのまま手を離すと脳震盪を起こした男はズルズルと壁に沿って崩れ落ちた。男の仲間たちは目を見開いて呆然としている。
 彼は後ろで止まっている仲間のほうに向き直ると、穏やかに、しかし恐ろしさを感じる声で告げた。
「もう一度言うぞ。あれは私の連れだ。他をあたれ」




 彼は男が振り下ろしたナイフをいとも簡単に叩き落とすと、そのままその手で男の頭を掴み、思い切り壁に叩きつけたのだ。その様子を一部始終見ていた仲間は彼の警告に身を竦めると、意識を失いかけた男を見捨て、バタバタと逃げていった。
 男たちの姿が見えなくなってから、彼はティナリアのほうを振り向いた。そして無言のまま近付いて彼女の肩を抱くと、明るい大通りに向かって歩き出した。
 彼にしてみれば普通より少し速い位のスピードだったのだが、その歩幅の違いにティナリアは小走りに近い感じなりながら必死について行く。大通りまで出ると彼はティナリアの肩からぱっと手を離し、彼女に向き直った。
 ティナリアが上がった息を整えながら礼を言おうと彼を見上げて口を開いた時だった。
「あ、あの……ありが…」
「何を考えてる!女がこんな時間にあんな裏道ふらふら歩いて!あんなんじゃ襲ってくれといってるようなもんだぞ!」
 礼の言葉を遮って彼はティナリアを怒鳴りつけた。いきなり響いた彼の怒鳴り声にティナリアがびくっと肩を縮めると、辛うじて引っかかっていたストールが音もなく地面に落ちた。
 さっきの優しい声を出していた人とは到底思えないほど迫力があり、その声にまわりにいる人々の視線が集まる。
「まったく気分が悪い。俺があんな連中に喧嘩を売られるとは」
 苛立ちをぶつけるように口調を荒げると、ティナリアは俯いたまま小さく肩を震わせた。すぐに彼女が泣いているのだと悟り、彼は呆れたようにため息をついた。
「……泣くな。まるで俺が悪いみたいじゃないか。これだから女は嫌なんだ」
 彼の周りには涙が武器と言わんばかりの女性がたくさんいた。またか、と呆れかけたその時、手の甲で涙を拭ったティナリアが彼を睨みつけるようにして顔を上げた。
「……な……泣いてなどいません……」
 負け惜しみのようなその言葉に意外そうな顔をすると、彼女はすぐに視線を逸らした。

―― へえ…… ――

 無意識のうちに彼の口の端が上がった。
「あの……助けて頂いてありがとうございました」
 ティナリアはぶっきらぼうに礼を告げると深々とお辞儀をし、顔も見ないままくるりと背を向けた。歩き出したその背中に彼が優しい声をかける。
「送っていこうか」
 考えるように一瞬立ち止ったが、彼女から返って来たのは否だった。
「……ここからは近いので結構です」
「そうか。じゃあ気をつけて……マイレディ…」
 思わずからかいたくなり、とびきり甘い声でそう言った。正面からその表情が見られないのは残念だが、少し俯いた彼女の背中からでも恥じらっているのがよく分かる。
 そのまま振り返ることなく歩いて行く後ろ姿を、彼は愉快そうな笑みを浮かべて見送った。
「気が強いというか、意地っ張りというか……おもしろい女だ」
 自分が言った言葉に腹を立てたのか、拭いきれなかった涙の跡を残しながら "泣いてない" などと確実に分かる嘘をついた彼女を思い出して小さく笑った。

―― それにしても美しい娘だったな…… ――

 夜なのに輝くような金の髪、闇に紛れることのない白い肌、そして自分にぶつかったときのあの表情が彼の目に焼き付いていた。
 ふとティナリアがさっきまで立っていた場所を見ると、彼女がしていたはずのストールが落ちていた。彼は何気なく拾うともう一度ティナリアが去った方角に目をやった。
 その手にしているストールは派手さはないが、かなり上等な生地だ。

―― どこかの令嬢か……まあ、会うこともないだろう ――

 そう思いながら男は拾い上げたストールとともに街の中へと入っていった。




 一方、タウンハウスに戻ってからのティナリアがアリスのお説教を延々と受けることになったのは言うまでもない。
 ティナリアがいなくなったことが発覚したタウンハウスの中はそれはもうひどい慌てようで、アリスなど辺りを何周したかわからないぐらいだ。
 小一時間ほどしてようやくアリスの気が治まると、ティナリアの部屋でお茶を淹れてくれた。
「本当にごめんなさい、アリス」
 戻ったときのアリスの様子を目の当たりにして、本当に申し訳ないことをしたと思ったティナリアは心からアリスに謝った。
「いいえ、私もつい叱り過ぎてしまいました。使用人の分もわきまえずに申し訳ありません」
 アリスはティーカップをティナリアの目の前に置きながら心苦しそうに微笑んだ。
「アリスが謝ることないわ。勝手に抜け出して皆に心配をかけたんだもの、叱られて当然よ」
「ティナリア様がご無事で何よりでした」
「もう二度としないわ」
「お約束下さいね」
 そう言って念を押すとアリスは部屋をあとにした。
 一人になって落ち着くと、今日の疲れがいっぺんに出てきたようだ。だが、頭は妙に冴えていて、ティナリアはベッドに横たわりながらもついさっきの出来事を思い返した。
 暴漢に襲われかけたことはアリスには話していなかった。これ以上心配をかけたくなかったし、そんなことを言えばおそらくアリスは卒倒してしまうだろう。
 今日のことは自分の胸の内にしまっておこう、とティナリアは決めていた。
 それにしても見知らぬ男に助けて貰ったとはいえ、あんな風に人前で怒鳴られるなど思ってもみなかった。怒鳴られるということ自体、ティナリアにとっては初めてに近く、助かったという安堵感と怒鳴られている恥ずかしさで思わず目に涙が溢れていた。
 そしてかけられた言葉に思わずムッとして、子供っぽい言い返しをしてしまっていた。
 だけど、とティナリアは思い直す。

―― 助けて頂いたのにあんなお礼の仕方してしまった…… ――

 いまこうして冷静になって考えると、恥ずかしさのあまり意地を張ってまともなお礼をしていないことに気付いた。それに名前も聞かなかったから後で訪ねて行くことも出来ない。
 自分の浅はかさに思わずため息が零れる。
 顔を思い出そうと思ってもあまりじっくり見ることが出来なかったから彼の顔は既にうろ覚えだった。もう一度会うことがあったとしても、おそらく気付かないだろう。
 しかし、頬に落ちた唇と抱き寄せられた腕の力強い感触ははっきりと残っていた。

―― それにあの声…… ――

 心を掻き乱すような、甘く、不思議な声。
 彼の最後の声を思い出し、ティナリアは思わず頬に手を当てた。心なしか熱いような気がする。
 その頬の熱さを色々なことがありすぎて疲れているせいだと思うことにして、ティナリアは今度こそ大人しくシーツのなかに潜り込んだ。






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