儀式当日、気が高ぶっている所為か、美雨はいつもより早く目が覚めてしまった。目を瞑っても眠れそうになく、ベッドから抜け出ると浴室へ向かった。
 少しだけ湯を張り、その中に身を沈める。しばらくそうしているうちに強張っていた気持ちが解れていった。
 しばらくぼんやりとしながら浸かっていた美雨はおもむろに手にお湯を掬うと勢いよく顔にかけた。バシャバシャと水の跳ねる音だけが浴室内に響く。
「大丈夫」
 弱気になりそうな自分を叱咤するように言い聞かせると、そのままザバッと立ち上がった。
 服を着直して部屋に戻る途中、美雨は小さく身震いした。水分を軽く拭き取っただけでまだしっかり濡れている髪が冷えてしまったようだ。
「ミウ様?」
 後ろから声をかけられ振り向くと、すっかり身支度を整えたカヤが駆け寄ってきた。
「おはようございます。まあ、こんなに髪を濡らしたままではお風邪を召してしまいます。早くお部屋へ参りましょう」
 挨拶もそこそこに、美雨はカヤに引っ張られるようにして部屋へ戻って行った。
「仰って下されば私がご用意しましたのに」
「あ、いえ……早く目が覚めてしまっただけなんで」
 丁寧に髪の水分を取り、少量の香油を塗り込んでいくのを鏡越しで見ながら美雨は言った。
「お支度するにはまだ早いですね。召し上がれるようなら朝食をお持ちしましょうか」
 そう言われれば空腹感がある。儀式は夜からだと言っていたが、この後緊張で食べれないかもしれないし、食べられるうちに少しでも何か口にしておいた方がいいだろう。
「それじゃあ、少しだけ」
「ではすぐにご用意しますね」
 カヤは最後に美雨の髪を丁寧に梳り、しっかり乾いたことを確認すると食事を用意する為に退室した。




「ミウ、準備はよいかの」
 部屋に入ってきたアヴァードは美雨の姿を視界に捉えると蒼い瞳を細めて柔らかく微笑んだ。美雨はカヤに手伝ってもらい、すっかり儀式の支度を整え終えていた。
 穢れのない純白の衣に身を包み、艶のある黒髪は緩く上に結わえられ、ほっそりとしたうなじが覗いている。西洋風の衣装なのに美雨の東洋の顔立ちはしっくりと馴染み、むしろ楚々として佇む姿は何処か神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「では行こうかの」
「はい」
 アヴァードが部屋の扉を開けるとその左右に二人ずつ四神官が立っているのが目に入った。彼らもまた白い祭服を纏っていたが、それぞれの服の袖と裾、襟にはその瞳と同じ色の刺繍が施されている。
 彼らは美雨の姿を認めると皆、一様に胸に右手を添えて頭を下げた。
「さあ、ミウ」
 思い掛けない仰々しさに思わず後退りしそうになったが、アヴァードの言葉にハッとして美雨は再び歩を進めて部屋を出る。四神官が美雨の後ろに並ぶとアヴァードはゆっくりと歩き始めた。
 緊張と不安を胸に隠しながら彼の後をついて行く。一行が向かったのは美雨がまだ見たことのない場所だった。
 扉の前に立っていた二人の若い神官は深々と一礼をしてから扉に手をかけた。ギイッと鈍い音が鳴り、ゆっくりと開かれたその奥の光景に美雨は息を呑んだ。
 正面には美しい模様の大きなステンドグラスがはめられ、そして数段下りた先には水面が広がり、壁に掛けられたランプの灯りを受けてキラキラと瞬いている。
 "白花の社" も綺麗だと思ったがここはまた別の美しさがあり、薄明りの中で輝く水面は正に幻想的で、夢の中にいるようだった。
「ここがいのり場じゃ」
 アヴァードの声が美雨を現実に引き戻し、彼女はきゅっと唇を引き結んだ。
「ミウ、中央まで進みなさい」
「はい」
 彼の指示に従って扉をくぐり、美雨はゆっくりと緩やかな階段を下りて行った。最後の一段を下り、水の中に足を踏み出すと鏡のように静かだった水面に波紋が広がった。
 足首ほどしかない深さの水は不思議なことに冷たさも温かさも感じない。中央に向かって一歩ずつ進む度、水面に浮かぶ美雨の衣の裾がゆらゆらと揺れた。静まり返った場の中に水の音だけが微かに聞こえる。
 ようやく部屋の中ほどに辿り着いた美雨は、心を落ち着かせようと瞳を閉じて深呼吸をした。
 遠くで扉が閉じられた音が聞こえ、アヴァードが祷り場の中心にいる美雨の元までがゆっくりと歩いてくる。彼はステンドグラスと美雨の間に立つと右手を胸に当てた。
「これより "清めの儀" を執り行う」
 朗々としたアヴァードの声が祷り場に響く。
 この儀式が終わればどちらに転んでも美雨の生きる世界は大きく変わることになるだろう。心の中で最後の覚悟を固めると美雨はゆっくりと瞳を開き、目の前の美しい模様を見上げた。




 開式を告げたアヴァードは美雨の瞳の奥を覗き込むようにじっと見つめた。全てを見通すような深い青に捉えられ、彼女は瞬きすることすら出来ずに見つめ返す。
 この静けさで聞こえてしまうのではないかと思うほど、自分の心臓がバクバクと鳴っているのが分かる。
「ミウ、そなたに尋ねる。偽りなき心で答えよ」
 その声はいつもの優しげな祖父のようなそれではなく、ピンと張りつめた賢者のものだった。
 美雨は深く息を吸い込んで心を落ち着かせるように努めると、震えそうになる声を抑えながら毅然として答えた。
「はい」
 その答えを受け、アヴァードは美雨の頭に静かに手を置いて問答を始めた。
「その身を捧げ、この地の為に尽くすことに迷いはないか」
「はい」
「闇に怯える民にその手を差し伸べることに迷いはないか」
「はい」
「いつか重い枷となった時も、決して揺らがぬと誓えるか」
「はい」
 全ての問いに美雨は間髪置かずに答えた。決めたはずの覚悟がほんの少しでも鈍ることがないように、と。
「女神レゼルよ、異界より来たりしこの少女を貴女の娘とし、民の光となるよう祝福を与え給え」
 言い終えるとアヴァードは美雨の頭に置いていた手をゆっくりと下し、彼女の背をそっと押した。
「では祝詞を」
 美雨は小さく頷くと胸のあたりで両手を重ねてきゅっと握りしめ、瞳を閉じて静かに息を吸い込んだ。

―― 心を……籠めて… ――

 以前、アヴァードが言っていた言葉を思い出す。意を決してからゆっくりと瞼を上げると、美雨は微かに震える唇を開いた。
「……荒れた大地に咲く花の、闇に呑まれた星たちの、声無き声に導かれ、我はこの地に辿り着く」
 真っ直ぐに前を見つめたまま、一言一言を区切るようにゆっくりと紡いだ言葉は祷り場の中に吸い込まれていく。それまでの緊張や不安が嘘のように声が自然と出てきた。
「女神レゼルの祝福に、眠りし我が血、いま目覚めん。深く澄み切る水の底、全てを染める秋西日、夢か現か霞み空、水面に浮かぶ弓張月。四つの守護の光と共に、この地を癒す巫女とならん」
 途中でつかえることもなく、美雨は歌うように全てを唱え終えた。
 それからどのくらいの時間が経ったのか。おそらく実際には一分にも満たないほどであっただろうが、ずいぶんと長く感じられる。その間、美雨はじっとその場に立ち尽くしていた。
 張りつめた静寂の中、不意に足元が仄かに光り、それに呼応するように周りの水面がゆらゆらと揺れ始めた。美雨を中心に広がる波紋はその光を反射して輝かせながら絶え間なく波打ち続けている。
 目の前に広がる不思議な光景に美雨は息をすることすら忘れていた。
「ミウ」
 アヴァードの呼びかけにハッとして顔を上げると同時に彼女は目を瞠った。彼らが一斉に跪き、頭を垂れていたからだ。
「女神の祝福は為され、今この時よりそなたは "光の巫女" となった。どうか我らと共にこの地に光を」
 その言葉を合図に顔を上げた彼らの真摯な眼差しが向けられ、美雨はそれに引き寄せられるようにして小さく頷いた。
 彼らがすっと立ち上がるとアヴァードは四神官の方を見やった。
「それでは四神官、巫女に誓いを」
 そう促されて最初に美雨のそばに来たのはディオンだった。彼女の足元に再び跪き、その手を取って口付けを落とす姿は神官ではなく、まるで騎士のようであった。
 男の人に見上げられることなど滅多になく、まして手の甲にキスなんてされたことなどあるはずがない。初めてのことに動揺し、胸が鳴った。
 そんな美雨の心の内など知らないディオンは真摯な瞳で彼女を見つめた。
「我は剣となり、貴女を阻む全てのものと戦うと誓う」
 落ち着きのある低い声でそう言ってから手を離し、懐から取り出した何かをそのまま美雨の足首につけた。それが終わると彼は静かに立ち上がり、胸に手を当てて一礼してから元の場所に戻って行った。
 何をつけたのだろう、と思ったがそれを見る間もなく、次いでクートが彼女の目の前にやって来る。
 彼もさっきディオンがしたように跪いてから美雨の手の甲に口付けをし、彼女を見上げた。だが、その瞳は何処か冷たく、仇視きゅうししているようにすら思え、美雨は少したじろいだ。
「我は盾となり、傷付ける全てのものから貴女を守ると誓う」
 そして誓いの言葉を紡ぐと、今度は手首に何かをつけた。ちらりと見えたそれはブレスレットだった。ということはディオンが付けたのはアンクレットだったのだろう。
 クートと入れ代わって現れたマティアスは、滑るように優雅な動作で同じように美雨の手に口付けをする。貴公子さながらな雰囲気だ。
「我は智となり、貴女の進む道を示す標となると誓う」
 誰もが見惚れるような微笑みを浮かべながら誓いを立てると、彼は立ち上がって美雨の耳に手を寄せた。
 マティアスがつけたのはイヤリングだった。ひとつずつ左右の耳につけ終えると彼は満足そうに目を細めてから下がっていった。
 そして最後の一人、レイリーもまた彼らと同じようにうやうやしく膝をつき、優しく触れるようにそっと手に口付けをしてから誓いの言葉を紡いだ。
「我は静となり、貴女に降りかかる痛みを癒すと誓う」
 凪の海のように穏やかな声でそう言うとレイリーは立ち上がり、少し屈んで美雨の首の後ろに抱えるように腕を回してネックレスをつけた。ひんやりとした石の感触が肌に触れる。
 レイリーが美雨の前から下がり、四人全てが元の立ち位置に戻ると、横に控えていたアヴァードが再び彼女の前に立った。
「そなたを守る神官は揃った」
 そう言ってアヴァードは美雨の額に祝福の口付けをし、それから髪飾りをつけた。シャラ、と冷たい音が小さく鳴る。
「これから進む先、そなた達にレゼルのご加護があらんことを」
 言い終えると同時に今つけられたばかりのそれぞれの石が一瞬の光を放ち、その光は弾かれたように欠片となって美雨達の上に降り注いだ。

―― 綺麗…… ――

 ふと視線がぶつかると、アヴァードは穏やかに笑みを浮かべ頷いた。
「これにて "清めの儀" を終了する」
 始まりと同じように彼の声が響き、儀式は美雨が心配していたことも起こらず、無事終わりを告げた。






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