カーテンの隙間から射し込む朝日に目を覚ましたルークは、隣に眠る姿を見ると陽の光よりも眩しそうに目を細めた。
 波打つように広がる彼女の髪に指を通し、一掴みの束に静かにキスをする。昨夜のことを思い出し、ルークはふっと口元に笑みを浮かべた。
 ティナリアがメイナードの屋敷にいることになっている今、昨夜のうちに彼女を連れて屋敷に戻るわけにはいかず、ルークは王都の街中で宿をとった。
 顔を隠すようにストールをかぶったティナリアの表情はよく見えなかったが、抱き寄せるように肩に置いたルークの手から逃げるわけでもなく、むしろ少しも離れようとしない彼女が愛おしくて仕方なかった。
 そして部屋に入るとすぐにどちらからともなく互いを求め、二人は少しでも離れることを厭うように寄り添って眠った。

"愛しています"

 確かにそう言った彼女のあのときの表情はいまも鮮明に思い出すことが出来る。花のような笑顔とはよく言ったものだ、とルークは思った。彼女の笑顔はまさにそれだった。
「ティナリア……」
 その名を呼びながら頬に優しく触れると、彼女がほんの少し身動みじろいだ
「ん……」
 ゆっくりと開かれるそのまなこにルークの姿が映った。まだ半分眠っているような無防備な表情はまるで少女のようでルークはそれを見るのが好きだった。
「おはよう。よく眠れたか?」
 ぼんやりとした瞳が次第にはっきりとしてくると、ティナリアは頬を赤らめて目を伏せた。
「……はい…」
「そうか、それならよかった」
「ルーク」
 伏せた視線がおもむろに上がり、視線はまっすぐにルークへと向けられた。
「ん?」
「ありがとう……私を許してくれて」
 躊躇うことなく自分に向けられる笑顔が嬉しくて、ルークも相好を崩した。

―― これからこの笑顔がいつもそばにあるのか…… ――

 そう思うとたまらなく愛しい気持ちがこみ上げてくる。
「礼を言うのは俺のほうだな」
 ルークはそう言ってふっと微笑むと、ティナリアの唇に触れるようなキスをした。甘い恋人同士のような時間にくすぐったさを覚える。
「ところでティナリア」
「はい?」
 思い出したように唇を離したルークの顔は何故か渋面になっている。
「女が一人で夜道を歩くんじゃないと前にも言っただろう。俺が来なかったらどうなっていたか分かっているのか?」
「ご……ごめんなさい…」
 小さくなって謝ってから、ティナリアはふと不思議そうに首を傾げた。
「……私、あなたから言われたことありましたか?」
「言っただろ……と、そうか、お前はまだ気付いてないんだったな」
「何のことですか?」
「ちょっと待ってろ」
 ルークはベッドから降りると椅子に投げるようにして掛けてあった外套の内側から一枚のストールを取り出した。
 それを持ってティナリアの元に戻ると彼女に手渡した。
「見覚えないか?」
「……これ……私の…?」
 ルークは自信なさげに呟くティナリアに微笑みかけると彼女のそばに腰掛けた。
「そうだ。初めて会ったときにお前が落としていったんだ」
「初めて? だって初めて会ったのはクロードのお屋敷で……」
 そう言いながら考え込むようにしていたティナリアが顔を上げた。その表情は何かに思い当たったようだった。
 ふっと笑ってルークは答えを口にした。
「あのときも昨夜のように追われていたな」
「もしかして……あの夜、助けてくれたのはあなた?」
「ああ、気付いた時は俺も驚いたよ。あんな夜道をうろついていた娘が自分の婚約者だなんて思いもよらなかったからな」
 頷きながらルークは懐かしそうに笑った。からかうような物言いに、ティナリアは恥ずかしそうに頬を染めている。
「いつから気付いていたんですか?」
「屋敷に来た時も似てるとは思ったんだが、気付いたのはそのあとだ」
「そんなに前から……」
 驚きに目を丸くしていたティナリアが小さく笑った。
「なんだ?」
「昨日、ルークが来てくれたとき、あの時のこと思い出したんです。ルークの後ろ姿があの時の人と重なったの」
「そうか」
「まさかとは思ったけれど……本当にあなただったんですね」
 ティナリアはストールを持っていた手を下げると、おもむろにルークに向かって深く頭を下げた。
「ティナリア?」
「あの時はありがとうございました。もう一度会いたかったんです。会ってきちんとお礼が言いたかった」
 そう言いながら顔を上げたティナリアに思わずルークは見惚れていた。
 そこにいたのは間違いなく、あの夜の少女だった。表情豊かで、可愛らしい意地を張った、一目見た瞬間に己の心を奪っていったあの少女だ。

―― 運命なんて信じていなかったが…… ――

 あの夜、二人が出逢ったのは偶然ではないと思いたい。こうして今を迎えるための必然であったのだ、と。
 ルークはそんな柄にもないことを思いながらふっと笑みを浮かべた。
「ああ、俺も会いたかった。これを返して、名前を聞きたかったんだ」
 そう言って悪戯っぽく笑ったルークはティナリアの手からストールを取り、それを彼女の肩にふわりと掛けた。
「やっとあなたに会えた。レディ、あなたの名前を教えて頂けますか?」
 あの夜、二人が確かに出逢った証。
 それを懐かしそうにひと撫でしたティナリアがくすりと笑う。
「……はい、喜んで」
 そう答えた彼女の瞼に、頬に、唇に、戯れるようなキスを降らせ、二人は顔を見合わせて微笑んだ。




「これから屋敷へ?」
 支度を整えたティナリアはルークに問うた。
「ああ。さすがに二人で歩くと目立つから、馬車で屋敷まで行く」
「あの……私がいなくなったことは…」
 言いにくそうにティナリアが口を開くと、ルークはくっくっと悪戯っぽく笑いながら答えた。
「皆、気付いてない。お前はメイナードの屋敷で養生していることになってる」
「え?」
「アリスに協力してもらってな」
 自分がいなくなってからの事の顛末を聞かされたティナリアは姉のように見守ってくれていたアリスを思い浮かべた。
「そう……アリスが…」
 いつも自分のことを一番に考えてくれるアリスが離れた後も守ってくれようとしていたことを知り、ティナリアは泣きそうになった。
 早くアリスに会って安心させてあげたい、と思っているとルークが自分の心を読んだような提案をしてくれた。
「屋敷に戻ったらすぐにジルと共にメイナードの屋敷に向かおう」
「……ありがとう」
「それはアリスに言ってやれ」
「はい」
 二つ返事で答えると、ルークは笑いながらティナリアの頭を撫でた。
「本当にお前たちは姉妹のようだな」
「小さな頃からずっと一緒にいましたから……心配ばかりかけてしまったけど」
「これからはそんなこともないだろう」
「そうですね」
 そんな話をしているうちに少し前に頼んだ馬車が宿の前に到着したようで、宿の者が呼びに来た。二人はすぐに部屋を後にして馬車に向かう。
「そうだ、少し寄り道をしていいか」
 ティナリアを馬車に乗せてからルークは思いついたようにそう言った。断る理由もないティナリアは素直に頷いた。
「どちらに?」
「着けば分かる」
 御者に行き先を告げて車内へと戻ってきたルークの横顔を見ながらティナリアは不思議そうに首を傾げたが、それ以上聞こうとはせずに黙って彼に従った。
 それからしばらく走ったあと馬車の速度が落ち、ゆっくりと停車した。
「少し待っていろ」
 そう言ってルークは一人降りて行き、車内に残されたティナリアは手持ち無沙汰に窓の外を眺め、そして目の前にある建物を見て驚いた。
「……ここ…」
 驚きと疑問を抱きながら窓の外をしげしげと眺める。少ししてガチャリと馬車の扉が開く音にハッと我に返った。
「待たせたな。中に入ろう」
 戻ってきたルークの手を取って馬車から降り、そのまま彼の手に引かれながらティナリアはその建物の中へと入って行った。
 やはりこの場所は見覚えがあった。いや、見覚えというよりは、ティナリアにとって忘れ得ぬ場所であった。
 ゆっくりと歩くルークに連れられながら、ティナリアは周りを見回した。大勢の人がいたあの時とは違い、がらんとしてひどく静かだ。二人の歩く足音だけが響いて聞こえてくる。
 ルークの足が止まり、ティナリアが視線を前に戻すとそこには数段の階段があった。それを上り、ルークとティナリアは祭壇の前に立った。
 そう、ここはルークとティナリアが夫婦の誓いを交わした場所。二人の結婚式を執り行った聖堂だった。
 こうしてこの場に立っていると、あの時の記憶が鮮明に思い浮かんでくる。
 あの日、ティナリアは凍らせた心でこの場に立ち、愛してもいない婚約者と誓いの口付けを交わした。その時、心に想い描いていたのは愛しい恋人の面影であった。

―― どうしてここに…… ――

 そう思ったとき、おもむろにルークがティナリアの左手を取った。
「ティナリア」
 それまでずっと黙っていたルークが彼女の名を呼んだ。突然呼ばれたその低い声にティナリアがパッと顔を上げると、二人の視線が重なった。
「俺はいままでどれだけお前を傷付けてきたか分からない。我ながら本当に最低な夫だった。愛してもらえないのなら、と憎まれてでもお前の心を手に入れようとして……浅はかなことをした」
「………」
 ティナリアは黙ったまま、ルークの言葉の続きを待った。
「だけど、お前はこんな俺の元に戻ってきてくれた。だからここから……誓いを交わしたあの時からもう一度やり直したいんだ」
 逸らすことなど出来ぬほど真っ直ぐに見つめてくる瞳は本当に真摯で、言葉など必要ないくらいルークの想いが、心が、溢れているようだった。
「……ルーク……」
「もう二度と悲しい思いはさせない。辛い思いはさせない。必ず幸せにしてみせるから………これから先の時間を、俺と共に生きて欲しい」
 その言葉がティナリアの心の中にすとんと落ちた。温かな感覚がじんわりと内側から隅々にまで広がっていき、残る僅かな氷の欠片を全て溶かしていく。
 ティナリアが瞬きをするように瞳を閉じ、再びゆっくりとそれを開いたとき、彼女の瞳に映る世界は一変していた。
 陽の光を受けたステンドグラスが床に落とした色とりどりの輝きや、歴史の面影を伝える古びた床の色。ティナリアの瞳はそれらを色鮮やかに映し出していた。
 鮮やかに蘇った色のある景色。その中で唯一、変わらない漆黒の髪。目の前にいるルークはどんなにティナリアの世界が変わっても、変わることのないただ一つのものだった。

―― これからもずっと…… ――

 ティナリアは零れるような笑みをルークに向けた。
「はい」
 その笑顔と答えにルークも顔を綻ばせた。
 彼は取っていたティナリアの左手の薬指にポケットから取り出した指輪を彼女の細い指にはめた。美しい銀のそれは屋敷を出るときに部屋に置いてきた誓いの指輪だった。
「愛してるよ、ティナリア」
 たった半年前、同じ場所で同じ誓いを交わしたティナリアの心は、想いは全く別のものだった。
 だが、今は心から誓える。彼を愛している、と。
「私も……愛しています、ルーク」

―― ずっと……そばに…… ――

 ルークの唇がティナリアの唇にそっと重ねられた。
 神父も聖歌隊も参列者も誰もいない二人だけの誓いの式。口付けを交わしたティナリアは初めて感じる幸せに温かな涙を一粒零した。
 再び二人の指にはめられた揃いの指輪が穏やかな光を受けて小さく輝いていた。




 それから数年後。
 立派な屋敷が立ち並ぶ王都の中でも威厳ある総督家の屋敷。取り囲まれた塀の中にそびえ立つ孤城のように大きな屋敷には美しい華が咲いている、と人々は言う。
 若くして総督の地位に就任したルークのそばには、いつも花のように優しく微笑むティナリアの姿があった。
「ティナリア」
 優しく名を呼ぶ声に振り向くと、ルークがこちらに向かって来るところだった。ルークの腕の中には小さな女の子が気持ちよさそうに眠っている。ティナリアは彼らのそばに歩み寄ると彼から女の子を抱き受けた。
 すやすやと小さな寝息をたてる女の子に愛情の籠った眼差しを向けるティナリアをルークの腕が優しく包み込む。
 まるで "愛してる" と伝えるような温かな腕の中でティナリアはルークを見上げて幸せそうに微笑んだ。

end...      .





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