この目に映った姿は涙で滲んだ幻だと思っていた。けれど、自分の体を抱くこの腕は、服越しに伝わる体温は、決して幻なんかではなかった。
「……ルー…ク…」
 ぽつりと名前が零れた瞬間、回された腕にギュッと力が籠められた。優しく抱きしめる腕の温かさにティナリアはこれ以上ないほどの安心感を覚え、恐怖で強張った体から力が抜けていく。
 けれどそれも束の間、その安心感は男たちの品のない声によって破られた。
「なんだ、お前」
「俺たちの女を横取りする気か」
 その言葉にルークの腕がぴくりと動いた。
「俺たちの女?」
 不機嫌さを隠そうともしない苛立ちの籠った声でそう呟くと、ルークはティナリアの体を離し、自分の背に庇うようにして男たちに向き直った。
「誰がお前たちの女だと?」
 背筋が寒くなるような冷たい声に男たちは怖気づいたのか、一瞬その場に立ち止った。
 だが、男たちも今更あとには引けないのか、声を荒げながらルークに食って掛かる。
「そ…その女だよ!俺たちが先に目を付けたんだ」
「いきなり現れて出しゃばるんじゃねぇよ」
 そう言いながら殴りかかる男の拳をいとも簡単に受け止めると、ルークはそのままその男の手を捻りあげた。護身術を修め、普段から鍛えているルークにとって、この程度のゴロツキなど相手ではなかった。
「これは俺の女だ。お前らなどが相手に出来る女じゃない」
「は…離せ!くそっ」
 もう一人が向かってくるのを横目で見ながら、捕まえていた男をそちらへと投げ飛ばす。見事に衝突した二人は互いに頭を打ったのか、フラフラとその場に崩れた。
「まだやるか?」
「……この野郎…」
 最初にティナリアを捕まえた男が唸るように呟くと、自棄になったようにルークに突進してきた。ルークは冷静にその足を掬い、バランスを崩した男の顔に思いきり拳を打ち付ける。
 そして道に倒れる男に向かって刺すような視線を向けながら再び口を開いた。
「もう一度言う。これは俺の女だ」
 ルークの迫力に気圧されて男たちは背を向けて逃げ出した。バタバタと走る足音が聞こえなくなり、辺りは再び静けさに包まれた。
 ふと、ティナリアは思い出した。いつかの夜、今みたいに助けてくれた男がいたことを。似たような場面だったからだろうか、顔も覚えていないその男の後ろ姿とルークの背中が重なる。

―― あれは…… ――

 まさかとは思いながらもどうしても重なって見えてしまう。だが、いま言うべきことはそれではない。
 手を伸ばせば届くところにルークがいる。知らずに伸ばしてしまいそうになる手をギュッと胸の前で押さえ、ティナリアは目の前にある彼の背中をじっと見つめていた。まだ、この背に触れることは出来ない。
「……ルーク……」
 ティナリアは静かに彼の名前を呼んだ。
 震え、掠れた声が闇夜に溶ける。けれど、ルークが振り向くことはなく、不機嫌そうな声だけがティナリアの元に届いた。
「……こんなところで何をしているんだ」
 その声音にビクッと肩を竦ませながらも、ティナリアはルークの背中に向かって口を開いた。
「私……お屋敷に戻ろうとして……その……」
 予期せぬところで再会を果たし、心の準備もままならないティナリアはうまく言葉にすることが出来ずに口籠った。
 何から話せばいいのだろう。どうやって伝えればいいのだろう。
 緊張と不安でティナリアの瞳に再び涙が浮かんでくるが、泣くところではない、いまここで自分が泣くのは違う、と零れ落ちそうになる涙をグッと堪えた。

―― もう、心を……偽らない ――

 ゆっくりと深く息を吸い込み、そしてティナリアは心に強く願う想いをそのまま口にした。
「……私……あなたのそばにいたい……」
 ルークが息を呑む気配がした。シンと静まり返った空間に押しつぶされそうになる。
「本当はあなたから逃げて……アレンとこの国を出るつもりだった………だけど…」
 途切れ途切れになりながら、ティナリアは言葉を続ける。うまく話せなくても、どんなに拙くても、やっと気付いた自分の本当の気持ちを偽ることなくルークに伝えたかった。
「だけど出来なかった…………心の中にあなたがいたから……」
「………」
「ずっと気付かなかった……あなたの優しさに甘えてばかりで、気付こうとしなかった。今更虫のいいことを言っているのは分かっています。それでも……もし、許してくれるのなら…」
 振り返ることのないその広い背中が、いまのティナリアにとってはひどく冷たい壁のように感じる。けれど懸命に心を伝えた。その壁が壊れるように。もう一度、その瞳を見るために。
「……私……あなたのそばで微笑っていたい…」
 そこまで話してティナリアは口を噤んだ。
 これ以上、言葉は出なかった。否、出せなかった。様々な感情が胸に溢れかえり、言葉ではなく涙が零れてしまいそうだったから。
 ルークからの言葉を待ったがいつまでたっても応えはなく、二人の間に張りつめた空気だけが流れていった。
「……ルーク……?」

―― お願い……何か言って…… ――

 何も言ってくれない沈黙に耐え切れず、ルークに背中に祈るように声をかけると、ようやく彼がティナリアのほうを向いた。
 伏せられていた瞳が少しだけ持ち上がり、ティナリアの視線とぶつかる。街灯の灯りに照らされた彼の顔は苦しそうにしかめられており、その表情にティナリアの心は一気に不安に揺らいだ。
「……どうして…」
 小さく吐き出すように言ったルークの言葉にティナリアの心臓が大きく跳ねる。続きを待つ時間が異様に長く感じられた。
「……どうして戻ってきた」
 そう言って顔を背けるルークから視線を外すと、ティナリアは静かに瞳を伏せた。




 ルークは自分の耳を疑った。
 "あなたのそばにいたい" と言ったティナリアの言葉が信じられなかった。

―― 本当に戻ってきたのか……? ――

 期待と不安が混じった複雑な想いから、つい咄嗟に情けない言葉が口をついて出てしまった。その言葉を聞いた瞬間、ティナリアはまるでそう言われるのを覚悟していたかのように弱々しく微笑んだ。
「そう……ですよね…」
 ティナリアは小さく呟いて顔を伏せた。泣いているのだろうか、横目に映る華奢な肩が微かに震えているように見える。
「戻れるはず……ないですよね」
 ルークはその一言でティナリアが自分の言葉の意味を間違って捉えているのだ、ということに思い当たった。
「アレンの手をとった私が……今更、あなたの元に戻るなんて…」
「違う!!」
 ティナリアの言葉を遮るようにルークは声を上げると、彼女の体を強く抱きしめた。華奢な肩がびくりと跳ねる。
「そうじゃない……そうじゃなくて…」
「……ルーク…?」
 不安そうな声で問うてくるティナリアの体を抱きしめたまま、ルークは柔らかな髪に顔を埋めるようにこうべを垂れた。たった数日の間だったのに鼻をくすぐる匂いがひどく懐かしく思えた。
「せっかく手放してやったのに……俺から……逃がしてやったのに…」
 情けない声になっているのは自分でもよく分かる。だけどもう抑えることが出来なかった。
「アレンのほうがお前を幸せにしてやれると……そう思ったから手放したのに…」
「……ルーク…」
 ティナリアが腕の中で顔を上げたのを感じるとルークは体を離し、彼女の頬にそっと両手を添えて自分のほうに向けさせた。
 全てはティナリアの為だった。ティナリアが幸せに笑っていてくれるのならそれでいい。だから閉じ込めていたこの檻から逃がしてやろうと決意した。
 それなのに逃がしたはずの鳥は自らこの腕の中に戻ってきた。
 "心の中にあなたがいた" と、そう言って――――――。
「戻ってきたらもう……もう二度と放してやることなんて出来ない」
 真っすぐに見上げてくるティナリアの瞳を見つめ返す。その目がふわりと和らぎ、頬に添えた手に彼女の涙が伝った。
「……いい…」
 彼女の顔に微笑みが広がった。いつもそうであって欲しいとルークが願い続けた笑顔。
「放さなくていい……もう二度と……放さないで…」
 そう言いながらティナリアはルークの首に腕を伸ばした。それは彼女からの初めての抱擁だった。
 抱き締め返すことも出来ずにいるルークの体に温かな体温が伝わってくる。

―― ティナリア…… ――

「……叶うならもう一度……あなたのそばにいさせて…」
 耳元で聞こえてくるティナリアの言葉に、言い表すことに出来ない感情が湧き上がってくる。ルークはゆっくりとその背に手を回し、壊れ物に触れるように優しく抱き締めた。
「いいのか……本当に…」
 ルークの言葉に腕の中でティナリアが小さく頷いた。
「……もう二度と逃がしてやれないぞ…」
 それに答えるかのように首に回されたティナリアの腕にきゅっと力が籠った。
「……やっと気付いたの…………ルーク……」
 ティナリアは少しだけ体を離すと、ルークと視線をしっかりと合わせた。意志の感じられる青い瞳は今まで見たことがないくらい美しく輝いている。
 そして一粒の涙が零れ落ち、綻んだ花のような笑顔がルークへと向けられた。



「………愛しています……」



 ティナリアと出逢ってからずっと、心から欲しいと望んできた言葉がルークの耳に届く。
 誰よりも愛おしい彼女の心がやっとこの手に入った瞬間だった。
「ティナリア……」
 夜の闇さえ霞めてしまいそうなほど明るい、零れるような笑顔。
 ルークは初めて彼女の本当の笑顔を見たような気がした。己が奪い取り、凍らせてしまった笑顔がやっと彼女の元に戻ったのだ。
 思わず泣きそうになるのをぐっと堪え、ルークはティナリアの笑顔に応えるように優しく微笑んだ。
 そして彼女の頬に伝う涙を指で拭うとその唇にそっと口付けを落とした。






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