「教えてほしい?」
 勿体ぶってそう言うと、伊坂は期待したような顔でにかっと笑った。
「おう」
「じゃあちょっと耳貸して」
 私は耳打ちする風を装って、答えを待っている伊坂を手招きした。
「誰もいないんだし、いんじゃね?」
「いいから」
「へいへい」
 私が企んでるだなんてこれっぽっちも疑わない伊坂は、手招きに誘われて渋々と私のほうに寄ってきた。こんなに近くに顔があることなんていままでなかったから、それだけで緊張してしまう。
 私はいたずらする前の子供みたいにドキドキしながら、近付いてきた伊坂にゆっくりと自らも顔を寄せた。左手を伊坂の肩にちょこんと乗せ、右手は内緒話をするときのように自分の口元の持っていく。
 その手がほんの少し震えている。伊坂に気付かれないか不安だった。

 ―— このくらい許してよね……―—
 
 心の中でそう前置きをしてから私は瞳を閉じた。
 そうして近付けた私の唇が向かった先は耳ではなく、触れたのは彼の唇。
「………」
 0.5秒。
 触れたか触れないか分からないくらいのキス。だけど私には時間が止まってしまったみたいに感じられた。
 短いのに、長い。長いのに、短い。
 音のない公園でこの耳に響いてくるのは自分の心臓の音だけ。伊坂にまで聞こえるんじゃないかってくらい、バクバクと胸を打ちつけている。
 肩に置いた手をするりと離したが、私はうつむいたまま顔を上げるのを躊躇ためらった。離れたあとのことはなにも考えてなかったのだ。
 伊坂がどんな顔してるのか分からないが、彼もまた一言も発しないで黙ったままでいる。
 しかしやってしまったものはどうすることも出来ない。私は覚悟を決め、もうどうにでもなれという勢いのまま、伊坂の顔を正面から見た。
 当たり前かもしれないが伊坂は呆然としたまま固まっていて、それは今までずっと見てきた彼の顔のなかでも一番と言えそうなほど間抜けな顔をしていた。
 その顔を見て、私は思わず声に出して笑ってしまった。
「なにその顔。すごい間抜け」
「……お前…いま…」
「なに?」
 いまだにこの状況を呑み込めていない伊坂の動揺した声に対して、私は至って普通を装った返事をする。
「なにって……」
「伊坂が教えてって言ったんじゃない。これがあたしの欲しいプレゼント」
 
―— こんなときに伊坂が聞くから悪いんだよ ―—
 
 言葉には出さずに心の中でそう続ける。 
「だからってほんとにしなくたっていいだろが。言葉で言えよ」
 伊坂の間抜け顔が次第に怒り顔に変わっていく。いつもより低いその声にも怒りが滲んでいるのが分かる。それでも私は怯むことなく、飄々ひょうひょうとした顔を繕ってあっさりとかわした。
「言ったらしてくれるの?」
「するわけねぇだろ」
 半分本気で言った言葉を、躊躇ためらわずにバッサリと切られてしまい、苦笑いを浮かべながら心の奥が傷んだのを感じた。
「いいじゃない、一回くらいプレゼントくれたって」
 それを隠すために大げさに拗ねたような演技をする。が、分かっていたことだが伊坂は取り合ってくれなかった。
「なんで俺がお前にやんなきゃなんねぇんだよ」
 まあ、もっともな意見だと思う。
 でもどうしても今、欲しかったのだ。このタイミングで会ってしまったから。だからどうしても今日、欲しかったのだ。
 私は少しだけ目を伏せて、ぽつりと言った。
「……誕生日」
「は?」
 不機嫌な声が聞き返す。私はさっきよりも声を大きくしてもう一度言った。声が、震えそうになった。
「今日、誕生日なの」
 伊坂が知っているはずのない、私の誕生日。
 だから伊坂から彼女の誕生日の話が出てきたときはほんとにつらかった。そうとも知らずに嬉しそうな顔している伊坂を見るのが寂しかった。
 好きな人から "おめでとう" の言葉を聞いてみたかった。
 素直に誕生日なんだ、と言ってれば伊坂は "おめでとう" と言ってくれただろうか。
 そんなことを思いながらちらりと伊坂を見る。誕生日という言葉を聞いた彼は困ったように頭をがしがしと掻いて私の視線から逃れるように顔を背けた。
「……あっそ」
 ぼそっと言ったその声にはもう怒りは滲んでいない。むしろ戸惑いのほうが多そうだ。
 ケンカをしても、ずっと怒り続けることの出来ないお人好しなところは相変わらずで健在で、そんなところもまた好きだった。
 しかし、予想以上の困りように、仕掛けた張本人ながらも伊坂がちょっと可哀想に見えて笑ってしまう。
「ごめんね」
「………」
 返事はない。ついさっきまで楽しく話をしていたのが嘘のように、このベンチのまわりに居心地の悪い空気が漂っているのがよく分かる。
 
―— 言ってみようかな…… ―—
 
 ずっと好きだった、と。
 三年間、ずっと心にしまいこんできた想いは、さっきのキスを合図に決壊してしまったかのように、いまにも溢れかえってしまいそうだった。
「伊坂……私ね……」
 そこまで口にして言葉を呑み込んだ。
 
―— やっぱりこわい…… ―—
 
 伊坂の答えを面と向かって言われることが。はっきりと線を引かれてしまうのが。いまのこの距離すらも失くしてしまうことが。
 キスまですればどんなに鈍い伊坂でもきっともう気付いていると分かっているのに、それでも勇気が出なかった。私の覚悟なんてこんなものだ。いざとなったらしり込みをしてしまう。
 しばらくの間を置いて、口にした言葉はやはり情けないものだった。
「……やっぱなんでもない」
 そしてそれに対する伊坂からの言葉はいつまでたっても返ってこなかった。追求されても困るけれど、聞かないほうがいいと判断されてしまったのは思いの外ショックだった。
 私の気持ちは伊坂にとってそういうものだった、ということだろう。
 
―— やっぱりそうだよね…… ―—

 言葉にならなかった三年分の想いを再び奥へと押し込めると、その想いたちが心の中で涙に変わった。じんわりと夜の公園が滲んでいく。
 涙の溜まったその瞳で伊坂を見ると、彼は反対を向いていて私の涙には気付いていないようだった。そのことにホッとして、零れ落ちないうちにジャケットの袖でぐいっと涙を拭う。
 涙で声が震えないように気をつけながら、少し茶色い伊坂の頭に向かって声をかけた。
「……プレゼントもらったことだし帰るわ」
 その言葉に伊坂がちらっとこっちを向いた。泣いてたことが気付かれないように私は咄嗟とっさに顔を伏せたが、その瞬間見えたのは困り切った伊坂の顔だった。
 最初の目的が伊坂を困らせたかったということだったのを思い出し、その顔を見れてほんの少しだけが心が晴れた気がした。
「じゃあ……」
 私はさっと立ち上がると、そのままひとりで歩き出した。と思ったら後ろから足音が遠慮がちに追いかけてくる。振り向くと伊坂が気まずそうにうつむきながら私の一歩後ろに立っていた。
「なに?」
「……送る」
 仏頂面で一言そう呟く。
「いいよ、近いし」
「いいから」
 有無を言わせない口調でそう言うと、伊坂は私の横に並んで歩き出した。家に着くまでの間、私たちは一言も話さないまま、ただ黙々と歩き続けた。
 息を吐くたびに目の前の夜空が一瞬白く霞む。冷え切って冷たくなったはずの唇が、さっきのキスを思い出すたびに熱く感じるような気がした。
 隣を見上げれば、いまだに仏頂面の伊坂の姿がある。その仏頂面がいまは嬉しかった。
 意地っ張りな私たちはケンカをした後、いつもお互いに謝れないでいた。そんなとき決まって伊坂は仏頂面になるのだ。ただ機嫌が悪いわけじゃなくて、謝りたくても謝れない。そんな感じのその表情。私は密かにこの表情が好きだった。
 カッコつけの伊坂のことだ、きっとあのコの前ではこんな顔しないんだろうと思う。
 その顔を見せてくれるということはやっぱり私は対象外なんだっていう証拠でもあるけれど、私しか知らない、私だけが知っている伊坂なんだと思えて嬉しくなる。
 そのときだけは伊坂を独り占めしているような錯覚を覚えて、幸せな気分になってしまうのだ。
 そんなことを考えながら、二人の足音だけが住宅街に小さく響いているのをぼんやりと聞いているうちに、いつの間にか家の近くまで来ていたらしい。
 家の目の前まで送ってもらって、親にでもバレたら後々面倒なことになる。というか、何も言わずにこっそり抜け出してきたから、面倒どころか大事だ。
 それは避けたかったし、何よりもいまはこれ以上、伊坂の隣にいるのは少しつらい。
「もうここでいいよ」
「……おう」
 伊坂もここまで来たら安心なのか、大人しく引き下がった。
「じゃあね」
「……あのさ」
 家に向かおうとした私を伊坂が呼び止める。その声に私は足を止めて振り向いた。
「なに?」
「……俺…」
 何か言おうとして少し開いた口からはいくら待っても言葉は出てこなかった。
「さっきの気にしなくていいよ……って、あたしが言うのも変か。ほんとごめんね」
 私は苦笑いを浮かべると、伊坂が切り出しやすいように明るい声で先手を打った。それ以外、この気まずい空気の中で言う言葉はなかった。
「や、そうじゃなくて……」
 伊坂は私の言葉を否定しながらも再び口籠る。
「……悪い、なんでもない」
「そっか」
 結局、伊坂が何を言いたいのか分からなかったけれど、私は少しだけ笑顔をつくると彼に向けた。
「送ってくれてありがと」
「……ん」
 私は視線を合わせずに頷いた伊坂に背を向けると、右足を踏み出した。そのまま左足も出そうとしたとき、私の背中に伊坂の声が小さく投げられた。
「……誕生日おめでとう」
 その言葉にピタッと足が止まる。少し躊躇ためらってから振り返ったときには、もう伊坂はいま歩いてきた道を引き返していた。小さくなっていくその背中が次第に滲んでぼやけていく。
 瞬きをした途端、目に溜まった涙がポロリと零れた。
「……なんで…」
 
―— いま言うの……? ―—

 呟いた言葉は伊坂には届かない。角を曲がって見えなくなっても、私は立ち尽くしたまま動けなかった。
 本当は諦めようと思っていた。奪うことも、想いを伝える勇気もないのに、これ以上、伊坂を想い続けるのが、幸せそうなふたりを見るのが辛かったから。
 だからあのキスを思いついた時に、それを最初で最後のプレゼントにして、気持ちに終わりを告げるつもりだった。好きな人からの "おめでとう" は聞けないままで。
 それなのにその決心も見事に打ち砕かれてしまった。
「なんなのよ…」
 聞きたかった "おめでとう" の言葉。だけど本当は聞きたくなかったのかもしれない。聞いてしまえばその優しさにまた惹かれてしまうのは目に見えていたから。
 鈍いのか何なのか分からないけれど、諦めることも許してくれないなんてどこまでも優しくてどこまでも残酷なやつだ、と胸の中で文句を言いって、泣きながら笑った。
 そして私の頭の中にいくつもの "もしも" が思い浮かんだ。

"もしも、あのコより先に想いを伝えていたら、私を選んでくれた?"
"もしも、あのキスで少しでも心が揺れたなら、恋愛対象に映してくれる?"
"もしも、私が諦めないって言ったら、あなたはどうする?"

 頬を伝う涙がひんやりと冷たくなっていく。それとともに私は冷静さを取り戻し、全ての "もしも" を頭の中から削除した。
 
―— 考えたって仕方がないのに…… ―—
 
 それでも考えずにはいられなかった。
 明日からは気まずい空気が流れるだろうことは100%間違いないと容易に予想がつく。そしてロクに話も出来ないまま卒業を迎え、別の大学を志望している私たちは離ればなれになって会うこともなくなるのだろう。
 そうなったとき、会わずにいれば想いは薄れていってしまうのだろうか。
 大切にしまってきたこの想いが届くことなく消えてしまうのがいまの私にはひどく寂しく思えた。それならばせめて想いを知ってもらいたいと思った。
 消えないうちに、消してしまわないうちに、ちゃんと想いを伝えたいと思った。
 伊坂はそんな私の気持ちをどうやって受け止めてくれるのだろうか。冗談で済ませることはきっとしない。いつだって真剣に話を聞いてくれていた彼だから。
 
―— 少し困った顔できっと答えてくれる ―—
 
 私はそんなことを考えながら手の甲でグイッと頬に落ちた涙を拭った。
 十八歳の誕生日、高校最後の誕生日。見上げた空には涙で滲んだ満天の星がキラキラとゆれていた。
「……明日は晴れるかな…」


 Happy Birthday or unHappy Birthday ?



end...      .





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