午前二時。
 何気なく、本当に何気なく外に出てみた。
 もうすぐ冬に差し掛かろうとしているいま時季は雪が降るよりも下手に寒い。羽織ってきたジャケットの前をしっかり閉じると、私はそのまま人気のない道路を目的もなく歩いていった。
 住宅街の中は静まり返っていて、人っ子ひとり見当たらなければ車道にも車は一台も通っていない。冷えた空気がより一層冷たく感じてしまう。
 "世界でひとりぼっちになってしまったみたい" なんてセリフを本や映画でよく聞くけれど、まるで本当にそうなってしまったように思えた。
 誰もいないこの場所に立っていることがひどく心細い。
 そんな心細さをごまかすように、歩道から降りると車道のど真ん中に引いてある白線の上を子供のように歩き始めた。この辺りは結構な交通量があるから、こんなこと昼間では絶対に出来ない。
 ぼんやりとしながら一歩一歩、足を踏み出す。
 しばらくしてからふと足を止めると、自らの足元に引かれた白線に視線を落とした。
 
―— 何がしたいんだろう…… ―—
 
 今年の夏の終わり、私は中学生の頃からずっと打ち込んできた部活を引退した。それからというもの私の毎日は受験一色に染まってしまった。
 懸命にやってきたものを突然奪われて、私の心にはどうにもならない喪失感だけが残った。そんな状態で勉強すれと言うほうが無理だと思う。
 真剣に未来のことを考えなくてはいけない時期だってことくらい、私にだって分かっているつもりだ。ここでの選択が未来を大きく左右するということも。大げさにいえば人生の岐路というものだろうか。
 けれど、将来を見るのはこわかった。
 だって胸を張って言えるような明確な夢なんて持っていなかったから。自信を持って誇れるものだって何ひとつ持っていなかったから。
 "未来" という地図のない場所にひとりで投げ込まれたみたいだ。どこに向かっても道を間違えてしまいそうで、迷子になってしまいそうでここから一歩も動けなかった。
 そんなことを思いながら、じっと見つめ続けていた足元の白線の先に視線を辿らせていく。
 真っ直ぐに進んでいたその線は次第に暗闇に溶けて消えてしまっている。いくら目を凝らして見てもその先がこの瞳に映ることはなかった。
 それが先の見えない未来と重なる。
 
―— まるで私のいまを映しているみたい ―—
 
 私はため息をひとつ吐くと、両腕を真っ直ぐに広げてバランスをとりながら再び足を進めた。グラグラと左右にぶれないように視線を一歩先へと送る。
 そんなくだらないひとり遊びをしていると後ろから男の声が突然聞こえてきた。
「……なにしてんの」
「!!」
 驚きすぎて声が出ない。跳ね上がりそうになりながらも声のするほうを振り向くと、そこには同級生の伊坂がコンビニの袋を片手に呆れ顔でこっちを見ていた。
 見知らぬ誰かではなかったことに安堵して、私はホッと息を吐いた。さすがに夜中に声をかけられたら警戒してしまう。
「なんだ、伊坂か。びっくりさせないでよ」
 驚かされたことと、子供みたいに白線の上を歩いていたのを見られた恥ずかしさで、つい棘のある言い方になってしまった。
「こっちのセリフだし」
 口をとがらせて文句を言った私に伊坂はくっくっと噛み殺したような笑い声を返してくる。
「なによ」
「いや、変な女いると思ったら三谷原だったし。なにしてたの?」
「……そっちこそこんな時間になにしてんの」
 何してるのと言われても本当に何も考えずに外に出てきただけだったからなんとも答えようがない。困った私は彼に同じ質問を返してやった。
「俺?コンビニ行ってた。なんか腹減って」
 伊坂はそう言って笑うと持っていた袋を持ち上げた。
「へえ」
「あ、お前も食う?」
「いいよ」
 私は返事をしながらふるふると小さく首を横に振る。
「いいじゃん。どうせ帰ったって勉強するわけじゃないんだろ?ちょっと付き合えよ」
 見透かしたようにそう言った伊坂は、私の返答を無視して近くの公園へと歩き始めてしまった。聞こえないようにため息を吐くと、私は仕方なくそのあとをついていく。
 夜中の公園はひっそりとして寂しく、一人ならばむしろ来たくはない場所のように思える。それなのに心のどこかで嬉しく思ってしまうのはきっと目の前にある背中のせいだ。
 誰もいない公園に響くのは二人の足音だけ。霜の降りた土の上は歩くたびにシャリシャリと小気味いい音を立てる。
「ほれ」
 伊坂は公園の端にある水色のベンチに座ると袋から取り出した大きな肉まんを半分に分けて、その片割れを私に寄越した。ホカホカとした白い湯気とともに、食欲をそそるいい匂いが辺りに広がる。
「ありがと」
「おう」
 伊坂に促されてそれを受けとると、私もちょこんとベンチに腰をおろした。伊坂の隣、人ひとり分の空間。
「お前いっつもこんな時間に出歩いてんの?」
「ううん。今日はたまたま」
 貰った肉まんを食べながらモゴモゴと答える。
「気分転換?」
「うーん……そう、かな。よくわかんない」
 しっくりくる言葉を見つけられずに私は言葉を濁した。
「そ」
 あまりしつこく聞くこともせずに、伊坂はそれだけ言うと持っていた肉まんの最後の一口をパクッと食べた。
「俺は気分転換。一応勉強してたんだけど、なんか気ぃ乗らなくて」
「だよね。伊坂、勉強嫌いだし」
「あんなもん好きなやつの気が知れねぇ」
 開き直って文句を言う伊坂に思わず笑ってしまった。
「確かに」
 二人で笑い合ったあとに伊坂が少しだけ心配そうな顔を向けた。何だろうと思い、首を傾げる。
「でもこんな時間にあんまり一人で出歩かないほうがいんじゃね?最近この辺けっこう危ないらしいし」
「心配してくれてんの?」
「まあ、一応な」
 素っ気ない一言だけど、それが照れ隠しなのを知っている。心配してくれることが嬉しくて、ふっと顔が緩んでしまったが、私はすぐにその目を伏せた。
 そういう無駄に優しいところが逆に残酷なときもあるということに伊坂は気付いていない。
 きっと二人の間にあるひとり分の空間の意味も。
「どした?」
 微妙な空気の変化に気付いたのか、伊坂が覗き込むようにして見てきた。私は慌てて笑顔をつくった。
「ううん、なんでもない」
「変なやつだな」
 伊坂は怪訝な顔で私を見ている。
「知ってる」
 私は苦笑しながらそう答えると伊坂から視線を外した。
 誰もいない公園に他愛ない会話が続く。夜の闇に消えていく言葉たちはゆっくりとした時間を作り上げてくれた。
「部活、引退してからつまんなくねぇ?」
 二人の共通の話題といえば、やはり一番はこの話だ。
「うん、つまんない」
 部活大好き少年だった伊坂も、やっぱり私と同じ気持ちなんだと思うと自然と顔が笑ってしまう。
「勉強ばっかでだるい」
 そう言った伊坂は本気でだるそうだ。
「ほんと。体も鈍るし。いますっごい試合したい気分」
「あー……俺も走りてー……」
 私の言葉に触発されたのか、伊坂はベンチの背もたれに深くもたれると、星が浮かぶ夜空を見上げてぽつりとそう呟いた。その横顔を気付かれないようにこっそり見つめていた私の頭の中に彼の走る姿が浮かび上がる。
 まっすぐに前を見つめて走る伊坂の姿。
「しばらく走ってないからフォームも崩れそうだよ」
「また始めれば感覚戻るでしょ」
「たぶん」
「……伊坂の走るフォーム、きれいだよね」
 思わず口から言葉が出ていた。
「そうか?」
「うん、流れるみたいな走り方」
 そんな話をしていたせいか、私は伊坂と出合った頃のことを思い出した。
 高校一年の春、入学してすぐにテニス部に見学に行った私の目をくぎ付けにしたのは大好きなテニスコートでもボールでもなかった。
 校舎横にあるテニスコート、そこから見えるグラウンドで風を切って流れるように走る伊坂の姿だった。
 他にもいっぱい人がいたのに、なんでかわからないけど伊坂の姿から目が離せなかった。その日から私はいつもグラウンドに伊坂の姿を探すようになった。
 そして高校二年、同じクラスになった。
 名前しか知らなかった彼と同じクラスに慣れてすごく嬉しかった。伊坂に恋をしていたんだと、はっきりと自覚したのもこのときだった。
 初めて言葉を交わしたときから気が合った私たちは、なにかと一緒にいることが多かった。それ故、周りから冷やかされることも多々あった。
 恥ずかしいけど少し嬉しくて、伊坂がそれを否定するたびに少し悲しかったのを覚えてる。
 けれど二年の終わりになる頃には私たちが冷やかされることはなくなった。冷やかされるのは彼一人。そしてその相手は私ではなくなっていた。
 放課後のグラウンドに伊坂の姿を探さなくなったのもその頃だった。
「あいつも同じこと言ってたな」
 心がズキンと音を立てたような気がした。想い出に奪われていた意識が伊坂の言葉と胸の痛みで現実に引き戻される。
「……彼女?」
 何ともない風を装って軽い口調で尋ねると、伊坂は頷いて答える。
「いつだっけな。なんか似たようなこと言われた」
 
―— 私はその彼女よりもずっと前から見てたんだよ…… ―—
 
 心で言った言葉とは裏腹に、声に出たのは伊坂ののろけをからかう言葉だった。素直ではないこの性格は自分でも呆れてしまう。
「相変わらず仲良いんだね」
「おう」
 伊坂の満面の笑みを見るまでもなく、その答えはわかりきっていた。
 学校で見かける二人の姿。登下校、昼休み、放課後。伊坂の姿を見つけるたびに、あのコの姿も一緒に見つけてしまう。伊坂の隣で笑う彼女はいつも幸せそうだった。
 一学年下の色白で小柄な彼女はふわふわとしたお菓子みたいな女の子。素直そうな笑顔がとても可愛らしい。私とはまるで正反対だ。
 テニス部元キャプテンの私は167cmという長身に加えて、太陽の下でこんがりと小麦色に日焼けした肌で、華奢なんて言葉は全く似合わない。
 そんな自分の外見に女の子としての自信なんてこれっぽっちもなかった。
 もしもフラれたら友達でいれるこの距離すらも失くしてしまうかもしれないと臆病になって、言い訳をして、自分の気持ちをずっとうことが出来なかった。
 そしていつしか伊坂の隣にはあのコが並ぶようになっていた。
「あ、そういえば来月あいつの誕生日なんだけど、女って何貰ったら嬉しい?」
 考えたくないことを頭から追い出すように、ぼんやりとしながら肉まんにかじりついていた私は、唐突な伊坂の質問に思わずむせかえった。
「……あたしに聞いてどうすんのよ」
 私は顔をしかめながら投げやりに答えてみせる。心はズキズキと痛みを増していくようだった。
「いや、一応お前も女だし」
「一応とか超失礼」

―— 普段は女扱いなんてしないくせに ―—
 
 心の中で盛大に文句をつけながら私が反論すると、伊坂はケラケラと笑いながら素直に謝った。
「わりー、わりー」
 全然謝ったように聞こえないその謝罪に、はぁっと息を吐くと私は仕方なく答えてやることにした。
「……好きな人がくれるならなんでも嬉しいんじゃない?」
「うわ、無難な答え」
「うっさい。じゃあ聞くな」
 カチンときてぶっきらぼうに言い捨てると私はそっぽを向いた。そうでもしなければ泣いてしまいそうだったから。
 
―— 聞かないでよ……私に…… ―—
 
 そんな幸せそうな顔で、私の気持ちも知らないで、そんなこと聞かないでほしかった。
「怒るなよ。じゃあお前ならなにがいい?」
 私の心境なんて全く察してくれない伊坂はそれでもなお聞いてくる。
「………」
 しばらく無言のまま伊坂に非難めいた視線を向けていたが、私の心に彼を困らせてやりたいと思う感情がふつふつと沸き上がってきた。
 どうせあと三ヶ月ちょっとで卒業だ。その間には冬休みだってある。
 そう思ったらいままで私をセーブしていた何かが、ぷつんと切れた。開き直った瞬間、頭の中に名案が思い浮かび、私はにやりと微笑んだ。






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