もうすぐ冬に差し掛かろうとしているこの時期、夜はかなり冷え込んでいる。間もなく十時になろうかという夜中に、ひんやりとした廊下に一人、じっと立ち尽くしている者がいた。
 端正な顔を縁取る漆黒の髪は、ランプの灯りにも透けることはない。彼はその頭に手を当てながら困ったように顔をしかめていた。
「……まいったな…」
 ぼそっと呟く声は本人の意思に同調して、困惑の色が浮かんでいる。
 彼が立っているのは妻の部屋の前だ。声をかけるでもノックをするでもなく、かれこれ三十分はここにいるであろう。
 何故、彼がこうしているのかというと、話は少し前に遡る。




「行ってくる」
「お気を付けて」
 そう言って見送るティナリアの微笑みに相好を崩してルークは彼女の頬にキスをした。
 ティナリアが嫁いできて三年近くになるが、当時では想像もつかなかったこんな光景も今では日常のことになっている。二人の仲睦まじさは屋敷中、いや、王都中に広まっていると言っても過言ではない。
 今でこそこうやって幸せそうな二人だが、こうなるまでには様々なことがあった。
 二年前、ティナリアは彼の元を去った。違う男と共に生きる為に、その約束を守る為に。
 けれど己の心にいる者が誰なのか気付いた彼女はルークの元へと戻ってきた。
 再び誓いを交わした二人は始めはもちろん多少のぎこちなさはあったものの、少しずつ寄り添い、互いを大切に想いながら、ようやく本当の夫婦としてこうしていられるようになったのだ。
 この当たり前の日常が二人にとって何よりも幸せなことだった。
「お前こそ無理はするなよ。ゆっくりしてるんだぞ」
 ルークはそっとティナリアの腹部に手を当てると、優しくそう言った。
「ええ。わかってるわ」
 ティナリアもはにかんだように微笑みながら頷く。
 ルークは名残惜しそうに手を離すと、エントランスの扉をくぐって外へと出て行った。執務が忙しいのか、近頃はよく外に視察などに行くことが増えているようだ。
 彼の後ろ姿を見送ったティナリアは自室へと戻ろうとした。が、急に吐き気が込み上げてきて彼女は慌てて流しに駆け込んだ。
「……っ………」
「大丈夫ですか?」
 その後ろからついて来ていたアリスがティナリアの背中を擦りながら問いかけた。少しして落ち着いたティナリアは顔を上げるとハンカチで口元を押さえながら小さく頷いた。
「……もう大丈夫。ありがとう」
「なかなか治まりませんね」
「仕方ないわ、まだ十週目だもの」
 そう言いながらティナリアはさっきルークが触れた場所に手を当てる。
 慈愛に満ちた母親の表情を浮かべるティナリアは今までよりも一層幸せそうに見えて、アリスもつられる様に微笑んだ。
「さ、ティナリア様。お身体が冷えてしまいますわ。お部屋でお休み下さい」
「ええ」
 吐き気の治まったティナリアは心配症のアリスに背中を押され、自室へと戻って行った。




 暖かな陽射しの入る部屋で椅子にもたれながらお茶を飲んでいたティナリアはつい先日のことを思い出していた。
 ずいぶん前から熱っぽくてだるい日が続き、風邪でも引いたのだろうと心配したルークが医師を屋敷に呼び、ティナリアに診察を受けさせた。
「微熱が続いていると伺いましたが、吐き気はございますか?」
「ええ、時々」
 それからいくつかの問診をした後、聴診器を当てていた医師がふと視線を上げた。
「ティナリア様、月のものはいつ来ました?」
 総督家のかかり付けの医師であるブノアは壮年とはいえ、男である。いきなりそんなことを聞かれてティナリアは一瞬狼狽うろたえた。
「え…っと……」
 だが、言われてみればしばらく来ていない。遅れることはほとんどないくらい順調である。彼女は首を傾げながら前に来た時からの日にちを頭の中で数えた。
「……二週間くらい遅れてる…」
 ぽつりと呟いたような言葉を聞き取ったブノアは納得したように首を縦に振った。そして思い掛けない診断がをティナリアに下した。
「ご懐妊ですな。おめでとうございます」
 予想もしていなかった診断に、ティナリアは目を瞬かせた。
「懐……娠…?」
「詳しく伺わないと何とも言えないですが、おそらく七週目あたりでしょう」
 人の良さそうな顔に笑顔を浮かべながら告げるブノアの言葉にティナリアはただただ驚くばかりであった。
「七週目……」
 このお腹にルークの子供がいる。ティナリアはまだ膨らみの分からない自分のお腹にそっと手を添えた。何とも言えない不思議な感覚だが、ふんわりと心の中が温かくなる気がした。
「ルーク様もお喜びになるでしょうな」
 その時、彼はどんな顔をするのだろうか。喜んでくれるだろうか。それとも驚くだろうか。

―― 喜んで……くれるといいな…… ――

 どうやって報告しようか考えていると、ブノアが再び口を開いた。
「しばらくはつわりも続きますのでご無理はなさらずに。私も定期的に健診に参ります」
「分かりました。よろしくお願いします」
 ブノアが帰るとティナリアは再びお腹を撫でてみた。
 本当にここにいるんだろうか、とブノアの言葉を疑いそうになるくらい、未だに実感が湧かない。けれど、確かにここにいるのだ。
 自分が母になるなどもっと先のことかと思っていた。嬉しさはあるが、正直、それよりも不安のほうが強いかもしれない。
 ティナリアは言葉では言い表せない感情を感じながら、ルークが戻ってくるのを今か今かと待ちわび、そして夕刻を過ぎた頃、ようやく彼が戻ってきた。
「ただいま、ティナリア。少し遅くなった」
 帰るなりティナリアの部屋を訪れたルークは、そう言いながら彼女の頬にキスをした。
「お帰りなさい」
「体の具合はどうだ?ブノアは何だって?」
 心配してくれていたのだろう、ティナリアの顔を見るなりルークが言った。
 ティナリアは少し視線を下げて自らのお腹に手を当ててから再び顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込んでいるルークの瞳をじっと見つめた。
「………したって…」
「ん?」
 小声で聞き取れなかったのか、ルークがティナリアの瞳を優しく見つめ返す。
「妊娠……したって…」
 それを聞いた瞬間、目の前にあったルークの瞳が大きくなった。
「……本当に……?」
 驚きを隠せないルークの言葉にティナリアがこくんと頷く。
「いま七週目だ…って……」
 最後まで言わないうちにティナリアはルークの腕の中に引き寄せられていた。力強い腕がティナリアを優しく掻き抱く。
 自分を抱き締めたままで何も言ってくれないことを不安に思ったティナリアだったが、ふとルークの腕が震えていることに気が付いた。
「……ルーク…?」
 小さく名前を呼ぶと、抱き締める腕にぎゅっと力が籠った。
「…………ありがとう……」
 シンと静まり返った空気を揺らしてティナリアの耳に届いたのはルークの掠れた声だった。
 その言葉を聞いてティナリアの視界は次第に滲んでいく。
 それを隠すように彼の広い背中に腕を回してその胸に顔を埋めた。ティナリアの頭上には何度も "ありがとう" という声が降ってくる。
「………」
「……泣いてるのか?」
 ルークの問いかけにティナリアは顔を埋めたままふるふると小さく首を振った。
「どうした?」
「………」
 ティナリアはより一層ルークにしがみつく。
「……喜んでくれて………よかった…」
「喜ぶに決まってるだろう」
 そう言いながら優しく頭を撫でる手に誘われるようにティナリアが顔を上げた。
「やっぱり泣いてるじゃないか」
 ルークはふっと小さく笑い、ぽろぽろと零れる彼女の涙を指で拭った。
「不安だったんだな」
「………」
 こくんと頷くティナリアにそっと口付けるとルークは彼女の腹に手を添えた。
「お前も、ここにいる俺たちの子も、俺が守るから……何も怖がらなくていい…」
 その言葉が心の中にあった不安を溶かしていく。

―― 私たちの……子…… ――

 ティナリアはルークの手の上に自分の手を重ねた。不安が溶けてようやく純粋な喜びが湧き上がってくる。
 少女のように微笑むティナリアの唇に、愛してるよ、と囁くルークの唇が優しく重なった。






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