「ノエル、再来週の日曜日は暇かな?」
 いつもと同じ朝の風景の中でアレンが言った。すでに食事も終えてもう少しで家を出る時間だ。
「ええ、特に予定はないけど。どうかしたの?」
「ん?ちょっとね。とにかくその日は空けておいて」
 首を傾げるノエルにアレンは微笑みながら言葉を濁した。彼女の眉が怪訝そうに寄る。
「なあに、気になるじゃない」
 二人の想いが通じ合ったあの日から三ヶ月、ノエルの言葉もすっかり砕けたものになっている。それがまた二人の仲の良さを感じさせた。
「内緒」
「アレン」
 軽く袖を引っ張るようにして聞いてみるが、アレンはやんわりと微笑むだけで口を割らない。
「駄目。当日まで教えない」
「もう、意地悪ね」
 ノエルは拗ねてそっぽ向こうとしたが、アレンに捕まえられ、そのまま彼の腕の中に納まってしまった。背中側から抱きしめられ、耳元にアレンの声が聞こえてくる。
「ごめん、怒らないで。驚かせたいだけなんだ」
「怒ってないわ」
 少し慌てたようなアレンの声にくすくすと笑いながらそう返すと、不意に首筋に口付けが落とされた。
 家事をするのに邪魔だから、と横に流すように簡単に括っていた為、細い首は露わになっている。アレンの唇は首筋を辿って綺麗なラインを描いている鎖骨にまで滑っていった。
「良かった……」
「……んっ…」
 唇を付けたまま言葉を発せられ、肌に触れる吐息に身体がぞくりと震えた。思わず零れてしまった声に頬が一気に熱くなる。
「可愛い声出さないで。仕事に行きたくなくなってしまう」
「だってアレンが……っ…」
 反論しようと開いた唇を塞がれる。その隙間から入り込んでくる舌に翻弄され、ノエルは頭の芯が蕩けていくのを感じた。
 幸せな息苦しさを覚えた頃、ようやくアレンの口付けから解放された。
「行ってくるよ」
 そう言ってもう一度ノエルの唇に触れる。今度は触れるだけの優しいキスだった。
 朝っぱらからあんな濃厚な口付けをされて恥ずかしいやら名残惜しいやら複雑な気持ちになりながら、ノエルは少し視線を伏せて頷いた。
 玄関までアレンを見送り、それから家の中に戻って頬に手を当てた。いつもより頬が熱く感じられて鏡を見れば、林檎のように朱に染まっている。

―― もう……どうしてくれるのかしら… ――

 心の中で文句を言いながらも、鏡に映った自分の顔は幸せそうな顔をしていた。
 名前を呼んで微笑みかけてくれる、ただそれだけで満足していた頃とはもう違う。いまはそれ以上に幸せなことがあると知っている。
 想い、そして想われること。
 あの頃は知らなかった幸せを今、これほどまでに実感している。
 ファラスの丘で約束してくれた事をアレンはきっちり守ってくれていたが、もうそんな誓いは要らないくらい、彼を信じることが出来た。もういいよ、と言ってもアレンはきっとこれからも誓い続けてくれるだろうが。
 そんなことをぼんやり思いながらノエルはくすりと笑った。
「再来週になったらめいっぱい驚かせてね」
 楽しげな声で独り言ちると、ノエルはいつものように家事に取り掛かった。




「ようやく落ち着いたか」
 その声に振り返ると、見覚えのある白い封筒を手に持った男が入り口の柱にもたれて立っていた。
「よく来てくれたな、イヴァン」
「当たり前だろ。こんなに面白いこと、見逃す手はないからな」
「ははっ、まあ何にしてもまた会えて嬉しいよ」
 軽口を叩きながら二人は近寄り、再会の抱擁を交わす。
「ノエル嬢はどこに行ったんだ?」
「隣の部屋で準備してるよ」
「さぞ驚いていただろうな」
「そうだな」
 この場所に連れてきた時のノエルの表情を思い出し、アレンはくすくすと笑いながらそう答えた。
「ところで俺への感謝の言葉はないのかな?」
 イヴァンが冗談めかした口調で言うと、アレンは肩をすくめた。
「ああ、感謝してるよ。まんまとお前の策略に引っ掛かってしまった」
「おかげで幸せになれただろう」
 その言葉にアレンは顔に浮かんでいた笑みを一層深めた。それが言葉よりも雄弁に答えを物語っている。
「お話し中ごめんなさいね。アレンさん、花嫁さんの準備が整いましたよ」
 穏やかに話に割って入った壮年の夫人はアレンが務める図書館の館長、コルベルの奥方だ。今日の話を聞いて花嫁の付き添いを買って出てくれたのだ。
「ありがとうございます」
 アレンが夫人に向かって礼を述べると、イヴァンは彼の肩を軽く叩いた。
「じゃあ俺は先に行ってるぞ」
「ああ」
 部屋を出ようとしたイヴァンが不意に振り向いた。
「アレン」
「何だ」
言伝ことづてを預かってきた」
「言伝?誰から?」
 首を傾げたアレンの問いには答えず、イヴァンはふっと口の端を上げた。そして、胸元から取り出した小さな紙を広げて読み始めた。
「 "アレン、結婚おめでとう。あの日からずっとあなたの幸せを願ってきました。だから報せを聞いた時は本当に嬉しかった。こんなことを言う資格なんて私にはないけれど、どうか愛する人と幸せになって下さい。どこにいても、どんなに離れていても、あなたが幸せであるように祈っています。愛をこめて……" 」
 たった数行の手紙。名前はわざと入れなかったのだろう、言伝を頼んだ者の名もない。
 それでもアレンの心は懐かしさと愛しさに震えた。

―― ティナ…… ――

「ここに来る前、彼女に会ってきたんだ。お前の事を伝えたら、泣きながら嬉しそうに笑っていたよ」
「そうか……元気だったかな?」
「ああ。一層綺麗になってた。それに彼女、身籠っているようだ」
「……そうか」
 アレンはその光景を思い浮かべるようにゆっくりと瞳を閉じた。愛した男の子を身籠り、花のように柔らかく微笑むティナリアの姿が瞼の裏に浮かぶ。
 胸の中に広がるのはかつてあった痛みではなく、安堵と喜び。穏やかな温かい感情だった。

―― ティナ……幸せに暮らしてるんだな… ――

 ゆっくりと瞼を上げたアレンは入り口に立っているイヴァンに笑みを向けた。
「イヴァン、俺からも言伝を頼まれてくれないか」
「ああ、お安い御用だ」
 そこにあった紙にさらさらとしたため、それをイヴァンに渡した。さっと目を通したイヴァンの顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「……確かに受け取った。さあ、そろそろ行かないと花嫁が待ちくたびれるぞ」
「そうだな」
 そう言って先に部屋を出たイヴァンを見送ると、アレンも自分を待つ愛しい人の元へと歩いて行った。




 真っ白なドレスの裾がまるで花のように床に広がる。
 たった数人が見守る中、壇上に登った二人は互いに永遠の愛を誓い、それぞれの指にその証をはめた。
「それでは誓いの口付けを」
 神父の言葉を合図に、アレンが花嫁の顔を覆うヴェールを捲った。そして、涙の浮かぶ瞳を愛おしげに見つめた。
「愛してるよ、ノエル……世界中の誰よりも」
 その一言で花嫁の瞳に溜まっていた涙がぽつりと零れた。
 アレンはその頬に落ちた涙をそっと拭い、それからゆっくりと、宝物に触れるように優しく口付けた。
「神の御名において、二人が夫婦となったことを宣言致します」
 そう締め括った神父の言葉を受け、二人は共に手を取って祭壇から降り、ヴァージンロードを戻って行く。イヴァンやコルベル夫妻、友人達の祝いの言葉を受け、照れながらも幸せそうに笑っていた。
 ささやかながら設けたレセプションが終わり、家に戻った二人はベッドの上で互いの身体を寄せ合いながら夜が更けるまで語り合った。
「ノエルの驚いた顔、可愛かったな」
「もう、あの時言ってたのがまさかこんなことだったなんて」
「嫌だった?」
 アレンは微笑みを浮かべながらノエルの顔を覗き込むようにしてそう言った。そんなことはない、と分かってて言っているのだろう。ノエルもその答えが当たり前のようにゆっくりと首を振る。
「驚いたけど……すごく嬉しかったわ……ありがとう、アレン」
「喜んでもらえてよかった。それに君のドレス姿、すごく綺麗だった」
 その言葉にはにかんだように微笑んだノエルは、ふと何気なく問いかけた。
「でもどうして今日にしたの?」
「それは……」
 無邪気に聞いてくるノエルの問いに、アレンは躊躇ためらったように一瞬口籠ったが、すぐに答えを口にした。
「ノエル、三年前の今日を覚えてる?」
「三年前……?」
 質問に質問を返され、ノエルは首を捻ったが、すぐに思い当たったようにぱっと顔を上げた。その瞳が不安そうに揺れている。
「そう、君と婚約した日だ」
「………」
「俺は君を深く傷つけた。どんなに悔やんでも、どんなに戻りたくても、過去をやり直すことなんて出来ない。だからせめて……この日が幸せな記憶になるように上書きさせて欲しかったんだ」
「……アレン…」
 腕の中にいるノエルの真っ直ぐな瞳に、ふっと困ったような微笑みを返す。
「なんて……都合良すぎかな」
 我ながら情けない声が出た。が、ノエルはすぐに首を横に振り、それからぎゅっと抱きついてきた。
「……っ…」
「泣いてるの?」
「……私……幸せよ…」
 掠れた声でそう言って力いっぱいしがみついてくるノエルに愛おしさが込み上げてくる。アレンはその華奢きゃしゃな身体を抱きしめ返すと彼女の髪に唇を寄せた。
「これから先、今よりももっと幸せな記憶を重ねていこう。明日も明後日もずっと……心から君を愛するよ」
 声にならない声で頷くノエルを優しく包み込み、アレンはいまこの腕の中にある幸せにそっと瞳を閉じた。




 久々に夢を見た。
 君が幸せそうに笑っている夢。
 その隣にいるのは自分ではなかったけれど、花のような笑顔を見ることが出来て心が温かくなった。
 もう二度と逢うことは出来ない君に、夢でだけれど逢えて嬉しかった。
 愛おしいその名前を呼んでも、その姿を思い出しても、この胸が痛むことはない。
 だけどきっと忘れることもないだろう。
 この声が届くことはないけれど、いつまでも君の幸せを祈っている。
 だからどうか、そのままの君で笑っていて。
 俺も幸せに笑っているから。

 ――――――愛する人と共に。



end...      .





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