久々に夢を見た。
 君が幸せそうに笑っている夢。
 その隣にいるのは自分ではなかったが、花のような笑顔を見ることが出来て心が温かくなった。
 もう二度と逢うことは出来ない君に、夢でだけれど逢えて嬉しかった。
 愛おしいその名前を呼んでも、その姿を思い出しても、この胸が痛むことはない。
 だけどきっと忘れることもないだろう。
 この声が届くことはないけれど、いつまでも君の幸せを祈っている。
 だからどうか――――――。

 そのままの君で、笑っていて。




 朝の光にまだ眠たい瞼を開けて目を細めると、男はベッドから抜け出て大きく背伸びをした。窓の外に目をやれば眩しいほどに晴れ渡った空が目に映った。
「今日もいい天気だな」
 そう独り言ちて窓を開けると、まだ少し冷たい風が部屋に流れ込んでくる。その冷えた空気にはっきりと目が覚めた彼は身支度を整え始めた。手早く着替えて顔を洗い、少し寝癖のついた薄茶色の髪にも水をかける。
 ふと、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。その瞳は前よりも生き生きとしている気がする。
 子爵家での生活に不満があったわけではないが、こうして自分の自由に過ごせる毎日はアレンにとってこの上なく楽しいものだった。

―― これもティナのお陰、かな ――

 ぽたぽたと落ちる雫を拭いながら、彼はふっと口元をほころばせた。
 アレンがこの街に来たのは二年ほど前であった。
 国境の街ダズはティナリアとの駆け落ちが成功したときに来るはずだった街である。人も多く、また国境ならではで人の出入りも盛んな為、身を隠すのにはちょうどいい場所だったからだ。
 だが、結局ティナリアと結ばれることはなく、この街に来たのはアレン一人だった。
 しばらくはここに身を潜め、それからどこか違う場所へ行こうと思っていたが、王都からティナリアに関する不穏な噂もなく、また追手が来る気配も感じらなかったのでそのままここに居付いたのだ。
 追手はともかくティナリアに関する噂が一切流れなかったのはあの男、ルークが何か手を打ったのだろうということは容易に想像がつく。
 というよりも、大切なティナリアを譲ったアレンからしてみれば、そのくらいのことはしてもらわなければ気が済まない。
「……と、急がないと遅れてしまうな」
 時計に目をやったアレンは針が示している時間に少し慌てた様子で、さっと簡単な食事を済ませて部屋を後にした。
 一人で住むには大きいこの家は、逃走用に蓄えていた資金で購入したものだ。もちろん、今まで暮らしていた子爵家の屋敷とは比べられない程小さなものだが、元来贅沢を好まない彼はこれで十分だった。
 それに街の中心部から近すぎず離れすぎない場所に建っていて、目立ちたくないアレンにとって都合のいいものだったし、周りの閑静さも気に入っていた。
 だが、さすがに自分の身勝手で家を捨ててきた者が "ティグス" の名を名乗るのははばかられ、いまは "アレン=トマ" と名乗っていた。トマはこのあたりでは一般的な名前だし、怪しまれることもなかった。
 歩きなれた道をアレンはやや急ぎ足で街の中心に向かう。王都とまではいかないが足元の道はきちんと舗装されていて歩きやすい。
 中心に近付くにつれて人の数は次第に増え、まだ朝も早いというのに街はすでに賑わいを見せ始めていた。
 その人波を横目にしばらく歩いていくと大きな建物が見えてきた。一見しただけではそれと分からないであろう立派な建物は、貴重な文書なども保管する王立の図書館であった。
 アレンは中央にどっしりと構えるエントランスではなく、裏側に回ってそこにある扉から中に入っていった。
「おはよう」
 彼が扉を開けると同時に中にいた数名から声がかかる。
「おはようございます」
 アレンも彼らに向かってにこやかに挨拶を返した。子爵家の跡取りであった彼はいま司書としてこの図書館で働いているのだった。
 仕事の申し送りの紙に目を通していると、後ろからポンと肩を叩かれた。振り向いたアレンはその人物を認めるとにっこりと微笑んだ。
「おはようございます。今日は随分お早いですね」
「君たちばかりに働かせるのも悪いからね」
 そう言ったのはこの図書館の館長、コルベルだった。彼は目尻にシワを作りながら軽快に笑った。
「いつも一番働いておられるのはコルベルさんじゃないですか」
「そうだったかな」
 彼は図書館の館長などでは勿体無いほど頭の切れる男であったが、その朗らかな性格と人好きのする笑顔で老若男女問わず慕われていた。
 そしてアレンがここで働くきっかけを作ってくれたのもコルベルであった。
 潔くティナリアと別れたものの、やはりしばらくの間は何をしてても彼女のことが思い出され、苦しい思いをした。それに何より未練がましい自分が情けなくて仕方なかった。
 何かして気を紛らわせようと街に出て足を向けたのがこの図書館だった。元々、本が好きだというのもあったが、それよりも古めかしい荘厳さと図書館独特の静かな空気がアレンの心を思った以上に落ち着かせてくれた。
 それ以来、アレンは毎日のようにここへ通い、そのうちにコルベルと話すようになった。
 それがしばらく続いたある日、コルベルが司書として働かないか、とアレンに話を持ってきた。アレンは少し考えたが、すぐにその話を有難く受けることにした。
 いくら蓄えがあるとはいえ、働かない限りいつかは底をつく。その働き口が図書館だなんて本好きにはこれ以上ないくらい有難い話だ。
 コルベルは人を見る目があったのだろう。アレンの品のいい立ち居振る舞いといままで培ってきた博識は司書としてもぴったりで、周りにもすぐに馴染んでいった。
 にこにこと笑顔を浮かべる彼にアレンは感謝の意を籠めながら微笑み返した。と、コルベルが思い出したように手のひらを打った。
「ああ、そういえば昨日君が帰った後に君を訪ねてきた人がいたよ」
「私を、ですか?」
 彼の言葉に首を傾げ、アレンは訊き返した。
 この街に来てからは万が一のことも考え、親しい友人などは作ってはいない。訪ねて来るような人物の心当たりを思い浮かべたが一向に出てこなかった。
「アレンという者がここにいるか、とね」
「………」
「いつからいるのかも訊かれたな。それにしても君が来てからもう二年近く経つんだね」
 コルベルは目を細めながら懐かしそうにそう言った。だがアレンはそんな感慨に浸っている場合ではなかった。
 訪問者の訪ね方が "アレン=トマ" ではなく "アレン=ジル=ティグス" を探しているものだと感じたからだ。
 アレンは動揺を顔に出さないように隠しながら、コルベルの言葉に笑顔を返した。
「時間が経つのはあっという間ですね」
「全くだ」
「それにしても誰だったんでしょう。男でしたか?」
「ああ。残念ながら淑女レディーではなかったね」
 悟られないように軽い口調で訪ねると、コルベルはからかうようにそう言って片目を瞑って見せた。今でも壮年とは思えないほど茶目っ気がある彼ならば、若かりし時はさぞかし女性から人気があったであろうと思う。
「名前を聞く前に帰ってしまったんだが、君と同じくらいの年の紳士だったよ。ずいぶんと身なりが良かったからどこかの貴族かもしれないね」
 貴族、という言葉にアレンはぎくりと体を強張らせた。それに追い打ちをかけるようにコルベルが言葉を続ける。
「君は貴族に知り合いでもいるのかい?まあ、君自身が貴族と言ってもおかしくないけど」
「な……何故ですか?」
「いや、アレン君は品があるから」
「……はは…」
 冗談交じりにそう言って愉快そうに笑う彼にはアレンも苦笑を浮かべるほかなかった。
「まあ用があるのならまた来るだろう」
「そう……ですね」
「おっと、そろそろ開館の時間だ。では今日もよろしく頼むよ」
 コルベルはアレンの肩を軽く叩くとそのまま館内へと続く扉に向かった。その背中を見送りながらアレンは先ほどの会話を思い起こす。

―― 一体誰なんだ…… ――

 誰かが "アレン=ジル=ティグス" の消息を辿っているのは間違いない。貴族、そして自分と同じくらいの年の男、この二つのキーワードから思い浮かんだ人物が二人いた。
 一人はティナリアの夫、ルーク=レイ=クロード。そしてもう一人は親友、イヴァン=ラック=ウォルターだ。
 しかし、思い浮かべてからすぐに一人目を消した。
 二年も経った今頃になって妻を攫おうとしたアレンを探す理由が解らないし、最初から追っていたとしても総督家ともあろうものが二年もかかるはずがない。まさかティナリアが探せと言うこともないだろう。
 可能性が高いのはイヴァンだった。
 親友、いや悪友とも言うべき彼ならば気が向いたから、といって会いに来ることも考えられなくもない。それくらい気まぐれな男だ。
 だがそれも全て憶測だ。もしかしたら他に違う誰かがアレンを追っているということもある。

―― 一応、警戒しておくか ――

 平穏な毎日に慣れていた体に緊張が走る。
 そんなアレンの元に思いもよらない人物が現れたのはそれから数日後のことだった。






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