ルークの卑怯な罠が仕掛けられてから数日後。
 突然降り出した雨のせいで外に出ることが出来ないティナリアは窓際に置いてある椅子に座り、一冊の本に目を落としていた。
 けれどさっきからページが進まない。読書が好きな彼女にとってはこの程度の厚さの本ならばあっという間に読み終えるのに、ここ数日は全くと言っていいほど気分が乗らなかった。
 その理由は分かっている。
「あの人のせいだわ」
 ティナリアが独り言ちると傍にいたアリスがふっと顔を上げた。
「何か仰いました?」
「ううん、何でもない」
 苦笑しながら首を振るティナリアに、アリスは首を傾げた。
「なんだかいつもの元気がないですね。お熱でもあるんじゃ……」
 そう言ってティナリアのそばに近付くと、額に手を当てて熱を測った。
「大丈夫よ。ちょっと考え事してただけ」
「それならいいのですが」
 熱がないと分かってもアリスは納得しきれてない様子だったが、彼女の額から手を下した。と、同時にティナリアの耳にノックの音が届いた。
「ティナリア様、入ってもよろしいですか?」
 男性にしては若干高めな声はジルのものだ。ティナリアが返事をすると扉が開いて彼が入ってくる。
「読書中でしたか。ルーク様にも見習って頂きたいですね」
「ふふ、あの人は本を読まないものね」
 以前、本を勧めた時の彼の渋い顔を思い出してクスクスと笑うティナリアの姿にアリスとジルも温かな笑みを浮かべた。
「そういえば何か用だった?」
 少しの間笑い合った後にティナリアがそう言うと、ジルは思い出したように要件を告げた。
「ああ、そうでした。ルーク様から言伝です。私室に来てほしいとのことです」
「ルークが?戻ってきたのね、すぐに行くわ」
 朝から出かけていた夫が戻ってきたことを告げられたティナリアは持っていた本をパタンと閉じて椅子から立ち上がると、二人を残して部屋を出ていった。
 長い廊下をいそいそと歩き、自分の部屋から三つ隣の部屋の前に立つと一呼吸置いてからコンコンと扉を叩いた。心なしか緊張しているような気がする。
 本を読んでも気が乗らない理由、それはルークのせい。
 数日前、この体を抱くのを止めたルークはそれからというもの一定の線以上に自分に触れようとしなくなった。そのことが気になってならないのだ。
 初めは不思議に思うだけだったが、今までのルークの行動を考えると抱かれなくなったことには何か理由があるのではないかと次第に不安が混じるようになってきた。
「入れ」
 そのことを考えていたティナリアは中からかけられた声にハッとして、軽く頭を振ってからそっと扉を開いた。
「ティナリアか。すぐに終わるからそこに座っていろ」
 だがティナリアはその場から動かず、いや、動けず、と言ったほうが正しいだろう。その場にじっと立ち尽くしていた。後ろでパタンと扉が閉まる音が聞こえる。
 ティナリアはルークの姿に目を奪われていた。
 おそらく雨に当たってしまったのだろう、髪から雫が滴って端正な顔に伝っている。そして同じように雨に濡れた服を替えている途中のようで、彼は惜しげもなく上半身を露わにしていた。
 漆黒の黒髪は濡れてさらに艶めかしく、その姿はやたらと色っぽく見える。
 均整のとれた彼の体を目にしているうちにティナリアはついその広い胸に抱かれている想像をしてしまった。
「ティナリア?」
 思わず見惚れてしまっていたティナリアは、その声にハッとして慌てたように視線を剥がした。

―― やだ……私なんで…… ――

 無意識のうちに頭の中に思い浮かべてしまったことが恥ずかしくなって、ティナリアの頬は一気に桜色に染まった。
 それに気付かれないように俯き加減で椅子に座り込むと、言葉通りすぐに着替え終わったルークが彼女の隣に腰をかけた。
「急に降り出すから参ったよ」
 そう言いながらティナリアの肩を抱くルークの腕に、さっきの想像が再び頭をよぎる。
 冷たくなっているルークの手にそっと手を添えると、ティナリアは彼のほうに顔を向けた。その視線に気付いたのか、ルークはふっと笑って彼女の唇に触れた。
 次第に深まる口付けにティナリアの息が上がっていく。
「……ん…」
 思わず声を零した途端、ルークが唇を離した。
「ルーク……?」
「……明日から三日ほど視察に出ることになった」
 さっきまでの甘い空気がさっと消え、唐突に告げられた言葉にティナリアは目を瞬かせて彼を見つめた。
「視察?」
「ああ。いい子にしてろよ」
 そう言ってティナリアの額に口付けると、ルークは彼女の体を開放した。
 雨で冷えたルークの体なのに、それがなくなるとやけに寒く感じられて、ティナリアは自分の体を温めるように腕をさすった。




 仕事が残っているから、と部屋から下げられたティナリアは自分の部屋に戻って行った。アリスとジルも仕事に戻ったのだろう、二人の姿も見当たらない。
 椅子に座るとつい先ほどのことを思い出し、それから疲れたように額に手を当てた。

―― やっぱり……ルークの様子が変だわ…… ――

 ルークは一定の線を越えようとはしてこなかった。少し前ならば自分が甘い声を出そうものならすぐに求めてきてくれたのに、さっきはまるでそれを避けているかのようだった。
 ティナリアは雨の伝う窓をぼんやりと見つめながら、その理由を考えた。
 何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか、と思ったが触れなくなった以外は以前と何も変わらない。何かに憤っている様子は自分の目からは見えなかった。
 そしてもう一つ、ティナリアの頭の中に思い浮かんだものがあったが、それは絶対に認めたくはなかった。だが、そんなはずはないと否定しても一度抱いた疑念は容易く晴れてはくれない。
 ルークに他に想う相手が出来た、など考えたくはなかったが、ティナリアはどうしても振り払うことが出来なかった。
 一人で悶々と考えてもらちが明かないのは分かっているが、彼に直接聞くのもはばかられた。

―― それに…… ――

 ルークが夜毎半端に追い詰めるせいで、ティナリアの体は妙な感覚になっていた。
 さっきのようにルークに抱かれている姿を想像してしまったり、口付けが深くなると体の奥が熱くなってきたり、彼に触れたい、触れられたいと思ってしまう。
 はしたないと分かっている。だけど自分の体なのに自分でも上手く制御が出来なくなっているのだ。
 こんなことを考えてしまっているなんてルークに気付かれたら軽蔑されてしまうんじゃないだろうか、とティナリアはさらに不安になっていた。
 そしてそんなティナリアの様々な不安が行動となって表れたのはルークが視察から戻った夜のことだった。




「もう少し……かな」
 ティナリアが去った部屋の中でルークは片肘をつきながら呟いた。
 さっき見せた彼女の瞳はどことなく熱っぽく見えた。仕掛けた罠にはまってきたのかもしれない、とルークは思った。
 しかし、自分自身ティナリアに触れられないのもそろそろ限界である。視察から戻ったときが引き際だろう。

―― それで駄目なら俺の負けだな ――

 そうなったらまた大人しく自分から求めて、久しく触れていない彼女の体を抱き締めようとルークは勝手にそう決めた。
 ところが三日後、視察から戻ったルークを待っていたのは思いがけない出来事だった。
「ティナリア?どうしたんだ?」
 夜、寝室へ入るとティナリアがベッドの上にうずくまるようにして座っていた。その様子がいつもと何か違うように感じて声をかけたが、彼女は返事をせずにただ黙って俯いている。
「ティナリア?」
 もう一度声をかけてようやくティナリアが顔を上げた。しかしその表情はやはりどこかおかしい。
「どうかしたのか」
 心配になったルークは顔を近付け、包み込むようにそっと頬に触れる。
 少しの間があってから頬に置いた手の上にティナリアの手が重なった。ルークはもう一度同じ問いかけをしようとしたが、それは叶わなかった。
 ティナリアの唇が自分のそれに重なっていたからだ。
 突然のことに驚いているルークはキスの勢いのままティナリアに押し倒された。二人の重みでベッドが鈍い音を立てる。
 彼女からキスされることはあっても押し倒されたことなど一度もない。
 ルークが呆気にとられているうちにティナリアは慣れない手つきで彼の服のボタンを外していき、その隙間から現れた肌に口付けていく。
「ティナリア……」
 見慣れない光景が目の前に広がっている。いつもは見下ろす彼女の頭がいまは自分の上にあるのが不思議でならない。
 ティナリアが動くたび、長い髪がルークの肌をくすぐっていく。
 はあっと吐息を吐きながら落ちてくる髪を耳にかける仕草はひどく扇情的で、ルークの本能を刺激するには十分すぎるものであったが、あまりにもらしくない行動にルークは思わず彼女の肩に手をかけた。
「ティナリア」
 その瞬間、ハッと我に返ったように彼女は体を強張らせ、動きを止めた。ルークは肘をついて静かに身を起こすと、今度は優しく肩を抱いた。
「どうした」
「……ごめんなさい…」
 ティナリアは俯いたまま小さく呟いた。
「なぜ謝る」
「………」
 彼女の言葉を待っていたが、なかなか口を開かない。痺れを切らして顔を覗き込むと、その瞳には涙が浮かんでいた。
「私……何かしてしまった?」
「え?」
 突拍子もないことを問われてルークは眉をひそめた。
「あなたを怒らせるようなこと……した?」
「怒ってる?俺が?」
「違うの?」
「何に怒るというのだ」
 不安げに見つめ返してくるティナリアの瞳がさらに暗くなったと思ったらとんでもない言葉がルークの耳に届いた。
「それじゃあやっぱり……他に……想う人が……」
「ちょ、ちょっと待て。そんな者はいない。どうしたというんだ」
 いきなり何を言い出すのかとルークが慌てて否定すると、ティナリアはパッと顔をあげて反論した。
「それならどうして………どうして私に触れてくれなくなったの?」
 ぽろぽろと涙をこぼす彼女を見てルークは胸が熱くなった。
 どうやらティナリアは仕掛けた罠を何か違う風に捉えてしまったようで、泣かせてしまうまで追い詰めたのは申し訳ないとは思う。
 それでも彼女が慣れないことをしてまで自分を繋ぎとめようとしてくれたのが嬉しかったのだ。
「泣くな。俺が悪かった」
 ティナリアの体をぎゅっと抱き締める。
 ここまで行動するのにどれほど勇気が要ったのだろうか。小さく震えるその背中をあやすように優しく撫でてやると少し落ち着いてきたようだった。
「すまない……悪戯が過ぎたようだ」
 涙を拭いながらそう言ってルークはティナリアと自分の体を反転させた。
「……悪戯?」
 ベッドに沈みながら解せないという風に首を傾げるティナリアの頬を包み込むと、涙で濡れた瞼にキスをする。
「お前に俺が欲しいと言わせたかったんだ。許してくれ」
「………」
 ティナリアは黙ったまま、目を瞬かせている。謀られたということに気付いたのだろう、頬がみるみるうちに紅潮していく。
 その頬を撫でながらルークはふっと笑った。
「今日はお前が望むことを何でもしてやろう」
「……いらない…」
 拗ねた子供のようにふいっと顔を背けた彼女の耳にルークは唇を寄せる。
「本当に?」
 囁くように問いかけると、それにすら反応したかのように彼女の体が小さく動いた。
「……て……」
「聞こえない」
 微かな声を拾ったルークが口の端を上げながら意地悪くそう言うと、ティナリアから恨みがましい視線が注がれた。
 彼女は降参するかのように目を少し伏せると、ついに待ち望んだ言葉を口にした。
「……いつもみたいに…抱いて……」
 消え入りそうなほど小さなものだったが、その声にルークは背筋がぞくりとした。
 こんなにも艶のある声をいつの間に出すようになったのか。ついこの間まで零れる声を我慢していたティナリアからこんな声を聞くことが出来るとは思ってなかった。
「わかった……不安にさせた分、存分に愛してやる…」
 そう言うや否や、ルークはあっという間にティナリアの夜着を脱がせ、彼女の肌に指を滑らせた。






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