ティナリアが手紙を出してから五日が過ぎた。ただ待つだけの時間は果てしなく長く感じ、ティナリアは焦りを隠せずにいた。
 そんな日の午後、じりじりとしながら待ち続けていた彼女の部屋についにアレンが訪ねてきた。
「……アレン!!」
 待ち焦がれたその顔を見た瞬間、ティナリアは堪え切れずにアレンに勢いよく抱きついた。突然の抱擁に驚きながらも、アレンはティナリアをしっかりと受け止める。
「どうしたの?」
 アレンの胸に顔を埋めたティナリアの頭上に優しい声が降りかかる。彼女はアレンの背中に回した腕をきつく締め、まるで涙腺が決壊したかのように声も出ないほど泣きじゃくった。
「……っ……アレ…ン…」
「何かあった?」
 アレンの声は変わらずに優しい。それだけでティナリアの涙は止まらなかった。
「……私を……連れて……っ…」
 途切れ途切れに言ったその言葉にアレンは心配そうに首を傾げた。
「ティナ?」
「……結婚…したくな……お願い……一緒に連れてって…」
 ティナリアは顔を埋めたまま絞り出すように告げた。
 震える肩をそっと抱きしめるとアレンはしばらく目を閉じてティナリアの口からこぼれた断片的な話を頭の中で整理した。
「ティナ、落ち着いて。誰と結婚させられるって?」
 ゆっくりと優しく尋ねるアレンにようやく顔を上げたティナリアは、涙で濡れた目を合わせながら静かに口を開いた。
「ルーク=レイ=クロード……総督家の子息…」
「分かった……ローレン卿と話をしてくる」
 そう言って出ていこうとするアレンの服を掴んで引きとめる。
「無理よ!お父様は私たちのことを知っているわ……知っている上でこの話を…」
 アレンは考え込むように口を閉ざした。さっき掴んだままのアレンの服をぎゅっと強く握ると、ティナリアは懇願するように涙を流した。
「お願い!私を連れてって!あなた以外の人となんて結婚したくない!」
「しかし……」
 アレンならすぐに頷いてくれると思っていた。しかし、予想に反してアレンは苦い表情をして俯いてしまった。

―― やっぱり……無理なの…? ――

「お願い……アレンしかいないの……っ…お願い…」
 部屋にはティナリアのすすり泣く声だけが小さく聞こえている。
 アレンは意を決したように顔を上げると、ティナリアの濡れた頬にそっと両手を添えてその目を覗き込んだ。
「……わかった。一緒に逃げよう」
「本当……に?」
 その言葉にアレンが微笑むと、ティナリアは頬に添えられたアレンの手に自分の手を重ねた。嬉しいのにさっきよりも涙が止めどなく溢れてくる。
「今すぐには無理だ。一週間後の夜中の十二時、約束を交わした場所で待っていて」
「………」
 ティナリアは言葉も出せずにただぽろぽろと涙を落としながら頷き、力強く抱きしめられたアレンの熱を体全体で感じていた。
 アレンがいてくれさえすれば、どんなことにだって耐えられる。ただ、そばにいてくれれば————それだけでいい。




 アレンがぎゅっと抱きしめると小さな体から愛しい暖かな熱が感じられた。このまま力を込めたら壊れてしまいそうなほど華奢な体を腕の中に閉じ込める。
 泣きながら "一緒に連れて行って" と懇願するティナリアを振り解くことなんて出来るはずがなかった。

―― ティナが他の誰かのものになるなんて……俺が耐えられない…… ――

 幼いころからずっと大切に想ってきた。
 花のような笑顔も、少し拗ねた横顔も、真っ白で優しい心も、彼女の全てが愛おしかった。
 やっと心が通じ、この手で彼女を幸せにしてやれるんだと思っていたのに、こんな結末に納得いくわけがない。彼女が望むのならどこへだって一緒に逃げてみせる。
 強く決意しながらアレンは腕の中にいるティナリアを見つめた。
 まだ震えている彼女をずっと抱きしめていてあげたいが、こうなった今、のんびりとしてはいられない。アレンは後ろ髪を引かれる思いでそっと体を離すと、ティナリアの涙を拭った。
「ティナ、もう泣かないで」
「……っ…」
「必ず迎えに来るから……」
「……待ってる…」
 掠れた声でそう言ったティナリアの唇に優しく触れるように口付けると、アレンは耳元でそっと囁いた。
「愛してるよ……誰よりも…」
 その言葉にティナリアの顔に久しぶりの微笑みが浮かんだ。涙で濡れた瞳をアレンに向ける。
「私も……愛してる…」
 どちらからともなく二人はもう一度唇を重ねた。

―― ティナは誰にも渡さない ――

 あと一週間で全ての算段をつけねばならない。もたもたしていたら全てが終わってしまう。
 アレンはティナリアの体を放すとそのまま部屋を飛び出し、痛いくらいに拳を握りしめながら自分の屋敷へと急いだ。




 その背を見送りながらティナリアはようやく繋がった一本の希望に安堵のため息をもらした。
 しかし、その儚い希望は部屋の外で壁にもたれながら二人の会話を聞いていたパーシェによって断ち切られようとしていた。彼は静かにその場を離れるとウォレスの部屋へと向かって行った。
 報告すべきことを頭の中でまとめながら、重々しい扉をノックする。
「入れ」
「失礼致します」
 深く頭を下げてから部屋に入るとウォレスの机の前に歩み寄った。
「ご報告致します」
「やはりさっきのはアレン君か」
「はい。ティナリア様とお会いされていました」
「それで?」
 パーシェは一瞬、口を閉じるとウォレスの目を正面から見据えて、さっきの二人の話を伝え始めた。
「一週間後、ティグス様がティナリア様を迎えに参られる、と」
 報告を聞いたウォレスがため息をつきながら椅子にもたれかかる。ぎしっという鈍い音が静かな部屋に響いた。
「そうか……やはり逃げ出すつもりか…」
 組み合わせた手をじっと見つめたままウォレスが呟く。パーシェは主から視線を外さないまま黙っている。
「約束を交わした場所、か。大方、あの海辺だろうな」
 幼いころからティナリアが好きだったあの海辺がウォレスの脳裏に浮かんだ。
「パーシェ、ティナリアをしっかり見張っておけ。何かあったらすぐに報告してくれ」
「かしこまりました」
 頭を下げるパーシェから視線を逸らして窓の外に向けると、ウォレスはすっと瞳を細めた。
「私はあの子に恨まれるのだろうな」
「………」
「すまん、忘れてくれ」
 窓の外に目を向けたままウォレスが手を少しだけ上げると、パーシェは静かに一礼し、その部屋を後にした。




 そして一週間が過ぎ、約束の日になった。
 ティナリアは最低限の服と、部屋にある宝石類を小さな鞄に押し込めた。どこかの街に着いた後、この宝石を売ればしばらくお金に困ることもないだろうと考えたのだ。
 いまはただ大人しく夜を待つしかない。逸る気持ちを押さえてティナリアは息を潜めるようにその日を過ごした。
「……アリス、話があるの」
 夕食を終えて部屋で紅茶を淹れてくれていたアリスはティナリアのほうを振り向くと優しく、寂しそうに微笑んだ。
「やはり行ってしまわれるんですね……」
 その言葉に驚いてティナリアは目を丸くした。
「……気付いていたの…?」
「何年お側にいたと思っているんですか?ティナリア様のことは全てお見通しです」
 明るくそう言うアリスに思わず笑みと涙が浮かんでくる。
「ごめんね……迷惑ばかりかけて……最後までこんな…」
 アリスは俯いてしまったティナリアに近付くとその肩にそっと手を置いた。
「迷惑など何一つありませんでしたよ……ティナリア様にお仕え出来たことを誇りに思っています」
「……アリス…」
「どうかご無事で……お幸せにおなり下さい…」
「うん……ありがとう…」
 姉のように、友のように、いつも暖かく見守ってくれていたアリスを、ティナリアはぎゅっと抱きしめた。
 そして皆が寝静まった頃、ティナリアは人目につかないように静かに部屋を抜け出すと、小さな荷物を抱えて約束を交わしたあの場所に向かって走り出した。






孤城の華 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system