ウォレスから突然告げられたその名前には聞き覚えがあった。
 クロード総督家子息。
 夜会の時、イヴァンがいなくて紹介出来ないと残念がっていたその人だった。
 けれどそんなことはどうでもいい。なぜ総督家の子息が自分の婚約者などになっているのか、そのことだけが頭の中を占めていてなにも考えることが出来なかった。
 ウォレスは窓に向かったまま話を続けているが、ティナリアは言葉を出すことも出来ず、彼の言葉もただの音として耳に入ってくるだけだった。

―― お父様が何か言ってる…… ――

 繋がりきらない思考回路でも、嫌だということだけははっきりとしていた。ティナリアは目を伏せて小さな声でぽつりと呟いた。
「……や……」
 その声にウォレスが後ろを振り向くとティナリアは視線を下に向けたまま、聞こえるように大きな声でもう一度言った。
「嫌っ!」
 その言葉を予想していたかのようにウォレスはため息をつき、どっしりとした重みのある机の椅子に腰掛ける。
「……どうして私がクロード家に嫁がなければならないのですか!?」
「以前からその話は出ていたんだ。向こうはこのローレン家が保有する海路を使いたい、こちらとしても総督家との繋がりが出来るのは願ってもないことだったからな」
 そしてティナリアが十六になったところで婚姻の話がまとまったのだ。
 ローレン家はティナリアの五歳下の弟が後を継ぐことに決まっていたので、ティナリアを嫁がせることに家としても何の問題もなかった。
「クロード家は財も豊かで、ご子息のルーク殿も好青年だと評判だ。嫁ぎ先としては何の文句ないだろう」
 確かにそれだけを見れば文句の付け所など一切見当たらない。他人が聞けば羨ましがるくらいかもしれない。だが、そんなことにティナリアの気持ちは何一つ動かされなかった。
 なだすかすようにそう言ったウォレスにキッと視線を向けるとティナリアは反論した。感情が先走って怒鳴るような大声になってしまう。
「財など欲しくありません!愛してもいない方に嫁ぐなんて絶対に嫌です!!」
 ウォレスはもう一度ため息をつくとティナリアの睨みをものともせず、その視線をまっすぐとらえた。その目に思わず怯みそうになる。
「ティナ、我儘を言うんじゃない。お前はローレン家の一人娘だ。家の為の結婚はお前の義務と思え」
 その言葉にカッとなってティナリアはさらに声を荒げた。
「義務?私はこの家の為の道具ではないわ!」
 そう言い捨てて立ち上がろうとしたティナリアをウォレスの一声がそこに押し留める。
「ティナリア!!」
 その迫力のある低い声にティナリアはびくっと身を縮め、小さく俯いた。大きな瞳にたまっていた涙が膝の上にぽつりと落ちる。
 しばしの静寂が部屋を包んだ。それを破るようにウォレスの声が響く。
「お前とアレン君が想い合っているのは知っている。だが、それを許すわけにはいかない」
 はっきりとそう断言したウォレスの表情にいつもの優しい父の欠片はひとつもなく、ティナリアは侯爵としてのその圧倒的な威圧感に言い返すことも出来なかった。
「お前も知っているだろう。貴族同士の婚姻は愛だけでは成り立たない。情など関係ないんだ」
「………」
 ティナリアは視線を上げられないまま、言葉を失った。
「クロード総督から来月、あちらの屋敷に招かれている。そこで正式な婚約者として二人の顔合わせを執り行うことになった。そのつもりで準備しておくように」
 すでに決定された事柄を淡々と話すウォレスは本当に冷たく感じられる。ティナリアの瞳には今にも零れ落ちそうなほど涙が溜まっていた。
「……出来ません……っ…」
 ティナリアは絞り出すようにそう言うと部屋から飛び出していった。重たいドアが大きな音を立てて閉まる。
 部屋に残ったウォレスは深いため息をついて机に肘を付き、その手を頭に当てた。
「……パーシェ」
「はい」
 ウォレスに呼ばれて入ってきたのは、黒髪を後ろに撫でつけ、その長身を黒で統一した一人の男だった。パーシェは執事としてはまだ若いが、その優秀さはウォレスも認めるところである。
 足音を立てずにウォレスの机の前に立つと、主からの指示を待った。
「しばらくティナリアを見ていてくれ。あの様子では何をしでかすかわからん」
 ウォレスは疲れ切ったような声でティナリアを監視するように命令した。
「かしこまりました」
 パーシェは余計なことは一切聞かず、深く一礼をすると静かに部屋を去っていった。




 部屋に戻ったティナリアはドアに背をもたれたまま、小さく蹲って声を立てずに泣いていた。ドアを閉めた途端、いままで抑えていた涙が決壊した。
 もう何を考えたらいいのか分からなかった。ウォレスの話はあまりに唐突でティナリアの思考回路は停止したままだった。
「……っ……ふ…」
 どのくらいこうしていたのかわからないが、ようやく涙が止まってきたようだ。
 鉛のように重たい体を引きずるようにしながら起こし、引き出しの中にしまっていた指輪を取り出してその指にそっとはめる。

―― アレン…… ――

 本当にこのままクロード家に嫁がなくてはいけないのか。アレンと幸せになりたいというのは我儘なのだろうか。
 ティナリアは崩れるようにその場に座り込んだ。
 指にはめたその碧い石をゆっくりと自分の唇へと運んでいく。指輪に口付けをしながらアレンを想うと、ティナリアの目から止まったはずの涙がまたあふれ、その白い頬を濡らした。
 そこにノックの音が響いた。静かに開いたドアから紅茶を持って入ってきたアリスがその場にぴたりと止まり、驚いたように目を見開いた。
「……ティナリア様?」
「………」
 アリスは紅茶のトレーを近くのテーブルに置くと、返事もしないまま泣き続けるティナリアに近づき、ふわりとその肩にストールをかけた。
「お風邪をひかれます。さ、こちらへ……」
 そっと肩を抱くようにして立ち上がらせると椅子を引いてそこに座らせる。持ってきた暖かい紅茶を淹れながらティナリアが落ち着くまで何も言わずに静かに待った。
「アリス……」
 しばらくしてティナリアがぐすっと鼻をすすりながら目を伏せたまま小さく呟いた。その言葉を聞いて初めてアリスは優しく状況を尋ねた。
「いかがされたんですか?」
「お父様が……私に婚約者を紹介すると…」
「……どなたですか?」
 ティナリアの様子からアレンではないことを確信していたアリスは宥めるように問いかける。
「……クロード総督家の……ご子息ですって……」
「総督家……」
 その家柄を聞いてアリスは驚いた。
 総督といえば国王陛下の代理としての権利と権限を持てる位である。そこに侯爵家の娘が嫁ぐとなればかなり政治的なものが絡んでいるのだろうと簡単に推測できる。どうみても政略結婚だ。
「嫌よ……私は絶対に嫁がない……アレンと約束したもの……」
 あとからあとから流れてくる涙を拭うこともせず、ただ俯いたまま独り言のように小さく呟くティナリアの姿がアリスには痛々しく映って見えた。
「ティナリア様……」
 テーブルの上に置かれた白い手にアリスはそっと自分の手を重ねる。いつもは暖かいティナリアの手がいまはひんやりと冷たくなっていた。
 涙はぽたぽたと落ち、音もなくティナリアのドレスに吸い込まれていく。
「……今夜はもうお休みになられたほうがよろしいですわ」
 しばらくしてからそう言うと、ティナリアはわずかに頷いた。何も言わずに立ち上がり、着替えもしないままベッドへと倒れるように横になった。
 壁のほうを向いたティナリアのその華奢な肩が小さく震えていた。
 アリスはその震える肩を見つめていたが、なんて声をかけたらいいのかもわからず、ティナリアに毛布をかけると灯されたランプをそっと消して部屋をあとにした。
 ドアを閉める直前、ティナリアの嗚咽にも似たくぐもった泣き声がアリスの耳に届いた。

―― ティナリア様のあんなお姿、初めてだわ…… ――

 いつも明るく笑顔の絶えない彼女があれほどまでに泣いているというのに、何も出来ない自分がいる。
 アリスがどんなにティナリアを助けたいと思っても、屋敷に雇われているただの一使用人が主であるウォレスに意見を言うことなど出来るはずもなかった。
 アリスは自分の無力さを歯痒く感じながらその手をぎゅっと握りしめた。




 次の日、ティナリアは起き上がる気力もなく、じっとベッドにかかった天蓋を見つめていた。泣き過ぎたせいか、目が腫れぼったく重く感じる。
 目が覚めれば昨日のことはすべて夢だったのではないかと期待していたが、ウォレスとの話は鮮明に甦ってきて頭の中をぐるぐると回っている。
 本当に悪夢のような出来事だった。アレンと温かくなるような口付けをして幸福感に包まれていたのに、その日のうちにウォレスによって地獄に突き落とされたのだ。
 ティナリアは顔を歪めて投げやりな笑い声をあげた。

―― 私はローレン家のための駒というわけ…… ――

 侯爵としての父の冷徹さを初めて目の当たりにした。
 貴族の婚姻に情がないのなら、ティナリアの目には仲が良く映っていた両親は何だったのか。今までの優しかった父も全てが嘘のように感じられる。
 いままで大切に育てられてきたのは全てこの婚姻のためだったのかと疑いたくもなった。
 ティナリアは目に浮かんだ涙を乱暴にぐいっと拭うとその体を起こし、サイドテーブルに置いてある水桶で顔を洗った。鏡に向き合って赤く充血した瞳を睨みつける。

―― 泣いていても仕方がない……何か方法を考えなくては… ――

 そう思い直すとティナリアはまずアレンに手紙をしたためた。詳しいことは一切書かず、とにかく早く会いに来てほしい、とそれだけを綴った簡単な手紙だった。
 顔を見てその優しい声で "大丈夫だよ" と言って欲しかった。アレンが側に居てくれさえすれば強くいられるとティナリアは思っていた。
 書き終わったその手紙を胸に抱き、ティナリアはアリスを部屋呼んだ。
「アリス、お願いがあるの」
「何なりと」 
 顔を見るなりそう言ったティナリアにやや驚きながらもアリスは微笑んだ。
 昨日のことに触れてこないのはアリスの気遣いだろう。ティナリアはそれをありがたく思いながらも焦ったように要件を告げた。
「これを急ぎで出して欲しいの。出来ればお父様に気付かれないように」
 そう言って一通の手紙を差し出した。ティナリアの表情を見て全てを悟ったのだろう、アリスは力強く頷くとそれを受け取り内ポケットに仕舞い込む。
「かしこまりました」
 屋敷を出ていくアリスの姿を部屋の窓から見送っていたティナリアは、ぽつりと自分の耳にも届かないほど小さな声で呟いた。
「アレン……お願い…」
 ティナリアの希望はただひとつ。アレンと共に逃げ出すことだけだった。






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