ガタガタと馬車に揺られながら外に目を向けると、すでに陽は落ちて当たりは暗くなっていた。
 ティナリアがラロシェの港を出てから数時間が経っている。いまどのあたりにいるのか分からないが、来る時の時間から考えると半分以上は過ぎているはずだ。
「あの……」
 御者に声をかけたが車輪の音にかき消されて彼の耳には届いていないらしい。ティナリアはもう一度、今度は大きな声で呼びかけた。
「あの」
「ん? なんだい」
 のんびりとした御者の声が外から返ってくる。
「王都まではあとどのくらいで着きますか?」
「そうだねえ、この調子なら三時間もあれば着くんじゃないかな」
「三時間……」
 ティナリアの声が少し曇ったのに気付いたのか、御者が話しかけてきた。
「急ぎなのかい」
「……いえ…」
 その問いにティナリアは口を噤んだ。
 確かに急ぎではある。早くルークの元に駆け付けたいのは本当だ。けれど心に芽吹き始めた不安を消すには三時間という時間は短いものに思えてならなかった。
「大丈夫です」
 問いの答えになるような、ならないような、そんな言葉を御者に返す。まるで自分に言い聞かせているような言葉だった。

―― 大丈夫…… ――

 ティナリアは膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。
 彼女自身はルークのそばにいたいという本当の気持ちに気付いたが、果たして彼がそれを許してくれるかどうかは別の問題だった。
 知っていた上で送り出したとはいえ、一度は自分の元から逃げ出した者を再びその腕の中に温かく迎えられるものなのだろうか。それを思うとティナリアは不安になった。
 もしも、ルークの気持ちがすでに離れてしまっていたとしたらこの先、自分はどうしたらいいのか。そこまで考えて、ティナリアは小さく頭を振った。

―― ここで考えても仕方がないわ…… ――

 そう、ルークに会ってみなくてはいくら考えてみたところで分かるはずがない。だから誰よりも、何よりも先に彼に会いに行く。全てはそこからだ。
 忍び寄る不安に揺さ振られようが、生まれて初めて自分の足で走るこの道を簡単に諦めるわけにはいかない。あのとき掴めなかったものを、今度は自分の手で掴みに行くのだ。
 自分の為に、そして何より、裏切ったこの背中を優しく押してくれたアレンの為にも――――――。
 ティナリアは胸に光る透明な雫にそっと触れながら、祈るように瞳を閉じた。




 それからまた数時間が過ぎ、馬車は王都の路地の片隅に停まった。御者が開けた扉からティナリアはゆっくりと降り、あたりを見回す。
「お代は頂いているから」
 アレンが支払っていたのだろう、御者はそう言うと再び御者台に着き馬車を走らせていった。車輪の音が小さくなっていくのを頭の隅で聞きながら、ティナリアは王都の街並みをじっと眺めていた。
 街灯がぼんやりと照らし出す街並みは、ここを出てまだ数日しか経っていないはずなのになぜか懐かしく思えた。
「感傷に浸っている場合じゃないわ」
 小さく独り言ちるとティナリアはストールを深くかぶり直し、屋敷の方へと足を向けた。
 王都の道は碁盤の目ようにきれいに整備されている。自分の足で外に出かけたことがあまりないティナリアでも方向さえ分かれば迷うことはない。王都の外れにある屋敷まではここから歩いても一時間とかからずに着くだろう。
 しばらく顔を隠すようにしながら早足で歩いていたティナリアだったが、不意に後ろを振り向いた。

―― 気のせい……よね…… ――

 誰かに呼ばれたような気がしたが、やはり気のせいのようだ。周りを見回しても見知った顔はなく、ティナリアは再び前を向いて歩を進めた。
 一歩ずつ屋敷に近付くたび、彼女の心の中は期待と不安が相乗して大きくなっていく。
 それを振り切るようにして歩いていたティナリアには、周りに気を配って歩く余裕などどこにもなかった。その為、自分の後ろに近付く人影にも全く気付いていなかった。
「お嬢さん」
 その声と共にいきなり手首を掴まれ、ティナリアは息を呑んで振り返った。いつの間にいたのか、そこには見知らぬ男が数人、にやにやとしながら立っていた。
「な……何か用ですか」
 震える声でそう言うと手首を掴んでいる男が覗き込むようにしてティナリアに顔を近付けた。酒の匂いが鼻につく。
「俺たち、あんたと遊びたくてさ」
「……急いでいるので…」
 顔を背けるようにしてそう言っても、男の手はがっちりとティナリアを掴んだまま、離してはくれなかった。
「いいじゃねえか。こっち来て相手してくれよ」
「は……離して下さい!」
 嫌な雲行きに顔を青ざめさせたティナリアが振り払おうと腕を引いたが、男の力に敵うはずがない。
「うるせえ!いいから来い!」
 暴れるティナリアに苛立った男の怒鳴り声に彼女は身を竦ませた。自分の周りを取り囲む男たちに恐怖を覚え、ティナリアは震えながらついて行くしかなかった。
「やっと大人しくなったか」
 彼女が逃げる気がなくなったと思ったのか、しばらくして男は手首を掴む力を緩めた。その一瞬の隙に、ティナリアは全力で腕を払うと呆気にとられている男たちの間を抜けて走り出した。
 けれど、ここは中央の通りから少しばかり離れた道だ。普段でさえ人通りはそれほど多くはないのに、こんな時に限って道行く人は全くいなかった。
 とにかく人のいる場所へと走り出したティナリアだが、どれだけ懸命に走ろうと所詮は女の足だ。追いかける男たちの声と足音はあっという間に後ろに迫っていた。
 男たちに捕まればどんな目に遭うのか、考えなくても分かる。自分のことを想って身を引いてくれたアレンの為にもこんなところでこんな男たちに捕まるわけにはいかない。何よりもそんなことになればもう二度とルークに会うことなど出来なくなるだろう。
 そう思った瞬間、涙が自然と浮かび上がってきて目の前が滲んだ。

―― 嫌だ……絶対に嫌!! ――

「ルーク!!」
 思わずその名を叫んだ。
 もつれる足を叱咤して全力で逃げ、荒い呼吸を繰り返す喉が焼けるように熱くなる。それでも、もうすぐそこまで足音が迫ってきていた。
 涙で滲んだ視界の中に誰かの姿が映った気がした。

―― ルーク…… ――

 後ろから伸びてきた手がティナリアに届きそうになったその時、彼女の体はふわりと包み込まれ、男は鈍い音と共に呻き声をあげて道に倒れた。
「……こんなところにいたのか…」
 耳慣れた低い声がため息と共に頭上から降ってくる。
 その声の主を確かめる間もなく、ティナリアは温かな腕の中にしっかりと抱きとめられていた。




 一瞬のことだった。
 ちょうど酒場から出てきた集団がルークと彼女の間に割って入った。のんびりと歩く彼らをもどかしげにかき分け、ルークが再び前に出たときには彼女の姿はもうどこにもなかった。
「くそっ」
 ルークは急いで辺りを見回したが、ついさっきまで追っていた彼女の姿は見えない。乱れた呼吸を整えるように息を吐き出し、項垂れながらルークは思った。
 遠目で見ただけのその姿が本当にティナリアだったのか。人違いではないのか。いや、それどころか己の願望が描いた幻だったのかもしれない。

―― だけどあれは……確かにティナリアだった ――

 見間違うはずがない。どんなに遠くても、たとえ一瞬しか見ていなくても、ティナリアの姿だけは見間違うはずがない。
 そう思い直すとルークは再び顔を上げた。だが、闇雲に探し回っても広い王都の中で見つけることなんて出来ないだろう。ルークは口元に手を置いて、視線だけを動かしながら考えた。
 アレンの元に行ったはずのティナリアがなぜまだ王都にいるのか。それが疑問だった。アレンの姿も見当たらない。
 そのとき、ルークの脳裏にある考えがよぎった。だが、ルークはバカバカしいとでも言うように小さく頭を振って消し去ろうとした。そんなわけがない、と何度も自分にそう言い聞かせたが、どんなに否定してもそれ以外に思いつくものはなかった。

―― もし……そうだとしたら…… ――

 僅かな可能性に賭けるように、ルークは屋敷へと続くその道に向かった。だが、大きな通りをいくつか探してみてもやはり彼女の姿は見つからない。
 やはり無駄な希望だったか、と諦めかけたその時、ルークの耳にティナリアの声が聞こえた気がした。
「気のせい……か?」
 そう思いながらも道を変えて先へ進んだルークの目が捉えたのは、こちらに向かって駆けてくるティナリアの姿だった。
「……ティナリア……」
 波打つように揺れる金の髪も、闇の中でも紛れることのない白い肌も、海のような青い瞳も、その全てが本物のティナリアだと訴えていた。
 しかし、ティナリアの姿を探し当てて喜ぶ間もなく、ルークは彼女の後ろから怒鳴りながら走ってくる数人の男たちに気付いた。その状況を瞬時に悟ったルークは頭の片隅で既視感を覚えた。

―― あの日のようだな…… ――

 初めて出逢ったあの夜、あの時も彼女はこんな風に追われていた。
 そのことを思い出しながらルークは後ろの男に視線を向けた。男の手がティナリアの肩に伸びるよりも早く、左腕で彼女の体を抱き込み、もう片方の手で男の顔を目がけて強烈な一撃を繰り出した。見事に命中した男は呆気なく道に倒れていく。
 あとから続く足音をどこか遠くに聞きながら、ルークは抱えていた柔らかな彼女の身体を両腕で優しく抱きしめ直した。手のひらに伝わる感触と温もりが、夢ではないということをルークに知らしめていた。






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