ぐっすりと眠ったせいか、朝起きると昨日の疲れが嘘のように体が軽い。ティナリアは起き上がって大きく腕を伸ばすとぴょんとベッドから飛び降りた。
 鏡に向かって髪を整えながら夕べの夜会を思い浮かべる。

―― 思ったよりも楽しかったわ ――

 イヴァンがいたおかげで想像していた不安も一切なかった。大きな失敗もなく、初めての夜会としては上出来だろう。
 帰ったら本当にアレンをからかうつもりだろうか、とイヴァンの言葉を思い出してくすくすと笑っていると、いつものようにアリスがノックをして入ってきた。
「おはようございます、ティナリア様。なんだか楽しそうですね」
「おはよう、アリス。昨日のイヴァン様のことを思い出したら可笑おかしくって」
 ティナリアはまだくすくすと笑い続けている。それにつられるようにアリスも嬉しそうに笑った。
「ずいぶんとウォルター様と打ち解けられたようですね」
「ええ、とても素敵な方だったわ。近いうちにアレンと一緒に屋敷にお招きしようかしら」
「きっとウォルター様もお喜びになられますわ」
 そんな話をしながらアリスに紺色のシンプルなドレスを用意してもらい、それに着替えるとティナリアは一階に下りていった。朝食をとりながらぼんやりしていると、アリスが紅茶を淹れたポットを持ってそばにやってきた。
「ティナリア様、今日はいかが致しますか?」
 帰島するまであと二日、今日を入れて三日ある。その間にティナリアはしたいことが山ほどあったが、中でも一番のことを思いきって口にしてみる。
「うん……街に行ってみたいんだけれど…」
 そこまで言ってティナリアは横にいるアリスをちらりと見上げた。先日の "抜け出し事件" もあって、アリスはあからさまに渋い顔をしてティナリアを見ている。
「……ダメよね」
 ティナリアはアリスのその顔で言いたいことを悟ったようだ。早々に諦めてしょんぼりとしながら淹れたての紅茶に手を伸ばした。
 すると頭上から小さなため息とともにアリスの呆れた声が降ってくる。
「……仕方ないですね。あまり遠くはダメですよ」
 その言葉にティナリアの顔がぱあっと明るくなった。すかさずアリスの忠告が入る。
「た・だ・し!」
 一語一語を区切って強調した言い方。こういうときのアリスには逆らわないのが一番だ。長年の付き合いからそれを知り尽くしているティナリアは大人しくアリスの言葉を待った。
「私もお供させて頂きますからね。あと護衛も一人。街では絶対にお一人で行動されませんように」
「ええ、約束するわ。ありがとう、アリス」
 あっさりと条件を呑んだティナリアのその満面の笑みにはさすがのアリスも降参するしかなかった。
 午後になってタウンハウスから出たティナリア一行は歩いて近くの広場や市場を散策し始めた。夜とは違って市場にはたくさんの人があふれ、活気がある。
 ティナリアは物珍しそうに歩き回り、店先のものを見て回った。
「ティナリア様、あまり遠くへ行かないでくださいね」
 アリスのその言葉にふと彼の声を思い出した。

"あまり遠くに行くなといっただろう。心配したぞ……"

 思わずティナリアは辺りを見回した。
「ティナリア様?」
 アリスの声にハッと我に返る。
「どうかされましたか?」
「……ううん、なんでもないの」

―― 顔も分からないし…… ――

 そう思いながら視線を巡らせて少しほっとした。礼を言いたいとは思っていたが、いま会えたとしたら実際には困ることになるだろう。
 アリス達には暴漢に襲われたことを隠していたから、ここで事実が明らかになってしまうと後が恐ろしい。
「ティナリア様?」
「あ、ごめんなさい。あまりにたくさんの物があってぼーっとしてしまったわ」
 適当にごまかすとティナリアはまた市場の中を歩き始めた。あちこち歩き回ってしばらくすると銀細工の店を見つけた。何気なくその前を通ったとき、ふっと目に留まったものがあった。
 小さいが碧い石のついたタイピンだ。ティナリアは立ち止ると自然とそれに手を伸ばした。
「綺麗……」
 ティナリアの小さな手にのせられたそれは銀の彫りも繊細で、碧い石はティナリアの指輪の色によく似ていた。
「お嬢さん、それが気に入ったのかい?」
 小太りの店主がティナリアに話しかけてきた。タイピンに落としていた視線を上げると、人のよさそうな顔の店主と目が合った。
「綺麗だろう。この街で人気の銀細工職人のものなんだよ。昨日入ってきたばかりでね、仕入れてもあっという間に売れちまうのさ」
「そうなんですか」
 そう言ってもう一度それに目を向ける。

―― アレンに贈ったら喜んでくれるかな…… ――

 そう思ったら買わずにはいられなかった。店主の顔を見てにこりと微笑むとタイピンをのせた手を前に差し出した。
「これ、頂きます」
 店主も驚くほどの即決だった。
「そ、そうかい。ずいぶん決断が早いねぇ」
 けっして安くはない銀細工をぽんと支払ったティナリアに店主は目を丸くしている。
 簡単にラッピングもしてもらった品物を受け取り、ティナリアは意気揚々と店を出た。と、向こうからすごい勢いで走ってくるアリスを見て思わず顔をしかめた。
「ティナリア様!」
 息を整えながら、アリスは逃すまいとティナリアの手を掴んだ。
「突然いなくならないで下さい!」
「ごめんなさい。素敵なタイピンがあったから……つい…」
 はぁ、とアリスのため息が漏れる。
「アレン様ですか」
 ティナリアがそっとアリスを見るともう怒ってはいないようだった。アリスににこっと笑いかけて頷いてみせる。
「お返しに贈り物をしたくて。包んでしまったから見せられないのが残念だけど、すっごく素敵なのよ。私の指輪と同じ色の石がはまっているの」
「左様ですか。素敵な贈り物が見つかって何よりでしたね。でもティナリア様」
 アリスの声質が若干低めに変わった。その声を聞いた瞬間、それまでウキウキと話していたティナリアの顔がぎくリと強張った。
「街に出るときにして頂いたお約束は覚えておいでですか?」
「………」
 ティナリアはこくこくと頷いた。アリスは "絶対に一人で行動するな" と言っていたのはしっかりと覚えている。
「お約束、破られましたね?」
 にっこりと笑いながらのアリスが逆に声を荒げるよりも恐ろしい。ティナリアは思わず後ずさりしそうなのを何とか堪えた。
「でも」
「帰りましょう」
「……はい」
 有無を言わせないその迫力に完全に負けたティナリアは大人しく従って、タウンハウスへの帰路につく。
 タウンハウスに着くまでアリスに小言を言われながらもティナリアの心は弾んでいた。リボンに包まれた小さな箱を大切な宝物のように両手で包み込むように持ち歩く。

―― これ渡したらどんな顔するかしら…… ――

 そのときのアレンの顔を思い浮かべるとつい口元に笑みが浮かんでしまう。
「ティナリア様、聞いておられますか?」
 話はそっちのけでアレンのことを考えていたティナリアは、はっとして振り向くとすぐ後ろを歩いているアリスを見て苦笑いしながら視線でごめんね、と謝った。
「まったく……アレン様のことばかりなんですから」
「未来の旦那様だもの」
 ティナリアが茶目っ気たっぷりにそう言うと怒る気も失せたのか、アリスは呆れたように笑った。
「……喜んで頂けるといいですね」
「うん」
 少しの静寂の後、喜びの滲んだ声で呟くようにそう言ったアリスの言葉にティナリアは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
 手にしたその箱を見つめて微笑むと、そっと瞳を閉じて想いを籠めた。




 二日後、帰島することになったティナリアは荷物をまとめて馬車に乗り込んだ。馬車に揺られながら滞在していたこの五日間を思い出す。窓の外に目を向けると少しずつ離れていく王都が見えて少し寂しくなった。
 幼いころからずっと島にいることのほうが多かったティナリアにとって、王都は色々なものがあって、色々な人がいて、退屈しない憧れの場所だった。
 ティナリアは誰にも聞こえないように小さくふっと息を吐き出した。
 港に着くと遠くに島が見える。

―― また島に逆戻り……か… ――

 もう少し王都に居たかった。もう少し市場を歩きたかった。もう少し色々なものをこの目で見たかった。
 そんなティナリアの想いとは裏腹に船は着々と彼女を島へと運んでいった。






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