その日の空は朝からずっと太陽の光を通さない分厚い雲に覆われて、いつもより薄暗く肌寒いようだった。まだ午後五時を過ぎたばかりなのに外はもう暗くなっている。
 ティナリアは椅子に座りながらぼんやりと左手の薬指にはまっている銀色の指輪を眺め、くるくると回すように触れながら昨夜のことを思い出していた。
 昨夜、ルークと共にベッドに入ってからずっとティナリアは眠ることが出来ずに暗い天井を見上げていた。
 空が少し白み始めてもまだ眠気は来ず、ティナリアはもぞもぞと身動きをした。ちょっと動いたところでルークの腕はがっちりと背中にまわっていて解けることはない。
 その逞しい胸から離れるようにして顔を上げるとルークの寝顔が映った。穏やかな表情で眠る彼はまるで精巧に作られた彫刻のように整っている。
 ティナリアはその寝顔をしばらく眺めたあと、ふとルークの頬に手を伸ばし、いつかのように彼の唇にそっと口付けた。
 ぎゅっと締め付けられるような苦しさが胸に込み上げ、ティナリアは堪えるように息を詰めた。少しでも気を緩めてしまえばあっという間に涙が零れてしまいそうだった。
 すると眠っていると思っていたルークがティナリアのキスに応えた。驚いているうちにするりと背中を撫で上げた手が髪を絡めながら項に回り、気がついた時には彼の舌が口内を弄っていた。
「っ……ん…」
「……眠れないのか?」
 唇を離したティナリアはバツが悪そうに少しだけ目を伏せてから、もう一度ルークに視線を合わせた。
「ごめんなさい……起こしてしまって…」
「いや、俺もあまり眠れなくてな」
 そう言ってルークは微笑みながらティナリアの頬に指を滑らせる。真っ直ぐにじっと見つめてくるルークの瞳がいつもと違うように感じられたのは気のせいだろうか。
 そんな風に思いながらもルークから視線を離せないでいると、彼はあっという間にティナリアの上に覆いかぶさるように体勢を変えた。ティナリアの頭の横に手をついて上から見下ろすようにしている。
「抱いていいか」
「………」
 突然そんなことを言われて戸惑ったが、あまりにも情熱的なルークの視線にティナリアは目を伏せて小さく頷いた。
 閉じられた瞼に、額に、そして唇に、ルークは優しく口付けを落としていく。それと同時に撫でるように頬から首筋へと滑る指先にティナリアはぞくりと身を震わせた。
「……ティナリア…」
 せがむようなルークの声と彼の大きな手に翻弄されていく。その手が触れたところから熱を帯び、ティナリアの意識は次第に真っ白になっていった。

―― あれが私に出来る唯一の…… ――

 ティナリアはそこで記憶を辿るのを止め、椅子から立ち上がった。朝から着ている質素と言ってもいいほどのシンプルなドレスの上に何処にでもありそうな落ち着いた深緑のストールを被る。
 鏡台の引き出しに入っている宝石をいくつか取り出すとティナリアはドレスのポケットに仕舞い込んだ。選んだのは全てクロード家に嫁いできたときに生家から持たされたものばかりである。
 ルークから贈られたたくさんの首飾りや耳飾りは引き出しの中に取り残されたまま、キラキラと輝いている。少しの間、懐かしむようにそれらをじっと眺めていたティナリアはふうっと息を吐き出すと、静かにその引き出しを閉めた。
 そして先ほどまで座っていた椅子のすぐそばのテーブルに近付いていく。
「………」
 ティナリアは束の間、躊躇ったように右手でぎゅっと左手を握り、誓いの指輪に口付けを落とした。

―― ルーク…… ――

「………ごめんなさい……」
 ティナリアがそう呟いたあと、冷たい金属の音が小さく鳴った。静かな部屋の中では微かな音さえも大きく響く。

―― 私はアレンを裏切ることなんて……出来ない… ――

 思わず溢れてきそうな涙を懸命に堪えながらティナリアは身を翻すと足早に部屋を出ていった。両手で部屋の扉を静かに閉じる。
 主がいなくなったその部屋のテーブルの上に、銀の指輪だけが置いてあった。




 部屋を出たティナリアは出来る限りいつも通りに振る舞いながら屋敷の裏門へと向かった。
 裏門の近くは以前にも何度か通ったことはあったが、夜間にならないと警備の者がつくことはないようだった。いまの時間ならばまだいないだろう。
 遠回りになるが庭を通って行けば人目にも付きにくいだろうと思い、ティナリアが庭へと続く扉に手をかけたその時、一番聞きたくなかった声が聞こえてきた。
「ティナリア?」
 その声にびくっと手を止めるとティナリアはゆっくりと後ろを振り返った。
 いつも括っている黒髪を下したまま、後ろにざっくりとかき上げたルークの姿が目に映る。初めて会ったその時から色が無くなったいまでも変わることのない彼のその姿にティナリアはほんの一時、目を奪われた。

―― どうしよう……ここで会ってしまうなんて… ――

 出来ることなら会わずに去りたかった。会えば少なからずこうして心が乱れてしまうから。
 ティナリアは動揺していることに気付かれないように平静を装うことに集中した。
「いまから庭に行くのか」
「……少し外の空気を吸いたくて…」
  咄嗟についた嘘は声が震えてしまい、ティナリアの心臓は早鐘のように胸を打ちつけていた。そんな状態でルークの瞳を真っ直ぐに見ることなど出来るはずもなく、ティナリアは視線を逸らすように目を伏せた。
「そうか。陽も落ちて寒いから、あまり身体を冷やすなよ」
 "一緒に行く" と言われたらどうしようかと思ったが、杞憂に終わったらしい。普段ならばそう言いそうなルークの意外な言葉にティナリアは少しだけ違和感を覚えながらも安堵した。
「それにもう暗いから気をつけろよ」
「……ええ…」
 ルークはそう言って目を合わせないまま扉に手をかけたティナリアの腕を掴むと自らのほうに引き寄せた。バランスを崩した彼女の身体はそのままルークに抱きとめられる。
「ルー……」
 名前を呼んだティナリアの声は彼の唇に吸い込まれていく。
 優しく触れるだけに留めた口付けが終わるとルークはふっと微笑んだ。それはひどく穏やかな、優しい微笑みだった。
「すまなかったな」
「ルーク……?」
 尋ねるように首を傾げたティナリアからするりと腕を離すと、ルークはそれに答えることなく彼女に背を向けて歩いて行った。
 その背中が廊下の角を曲がり見えなくなってからもしばらくの間、ティナリアは茫然としたように立ち尽くしていた。そしてハッと我に返ると再び扉に手をかけて庭へと足を踏み出した。
 扉が閉まる瞬間、ティナリアは後ろを振り返った。

―― さよなら……ルーク…… ――

 そこにはもう誰の姿も見えなかった。
 後ろでバタンと閉まる重たい扉の音を聞きながらティナリアは歩みを止めないように、振り向かないように、足を前へ前へと動かした。




「ルーク様」
 廊下を曲がった後、ルークは壁に寄りかかってただじっと俯いていた。
 その様子を少し離れたところから見ていたジルが彼のそばに歩いて行くが足音にも気付かなかったのか、声をかけてようやく顔を上げた。
「……行ってしまわれましたね…」
「ああ」
 諦めの色を滲ませた笑みを浮かべながらそう言ったルークの姿が痛々しくて、ジルはぎゅっと拳を握りしめた。
「そんなお顔をされるくらいならお引き留めすれば良かったんです」
「言っただろう。分かっていたことだ……これでいい…」
 長年そばに仕えてきたジルですら、ここまで沈んだルークの表情なんて見たことがなかった。自分の無力さが歯痒く、そしてルークの引き際の良さに腹が立った。
「……私には最近のティナリア様はお幸せそうに見えました」
「………」
「あの笑顔も偽りではなくルーク様に向けられていたはずです」
「……もういいと言っているだろう」
 もういいと言いながらも、その表情は苦しそうに歪んでいた。
「黙って行かせてやれ」
「納得出来ません!」
 ジルはそう言ってきびすを返すとティナリアが出ていったほうを目がけて走り出した。
「ジル!やめろ、戻れ!!」
 後ろからルークの怒鳴るような声が聞こえるが、ジルはそれを振り切って庭へと飛び出していった。
 愛する者の幸せのために身を引く気持ちも分かる。
 けれど、ルークがどれほどティナリアを必要としているのか、どれほど彼女を愛しているのか。それを痛いくらい知っているジルはティナリアが出ていくのを黙って見過ごすことなど出来なかった。
 例え主の命令に背くことになってしまっても、どうしてもティナリアを連れ戻してやりたかった。
 庭に出たジルは辺りを見回しながら奥へと進んで行った。すっかり暗くなってしまった庭は目を凝らさないと良く見えない。裏門から少し離れた所に植えられている剪定せんていされた木の陰にティナリアの姿を見つけた。
「ティナリア様!お待ち下さい!」
 ジルが大きな声で呼ぶと彼女は驚いたようにその場に立ち止まった。少し息を切らしたままティナリアの前に立ちはだかり、ジルは矢継ぎ早に言葉を続けた。
「行かないで下さい、ティナリア様」
「ジル……」
「ルーク様のお側にいて下さい」
 ティナリアの瞳がふっと揺れたような気がした。
「な…にを……私はただ外の空気を吸いに…」
「嘘はお止め下さい。ティグス様の元に行かれるのでしょう」
 ティナリアが息を呑む音が聞こえる。
「申し訳ございません。ティグス様からの手紙を拝見致しました」
 彼女の周りの空気が一瞬にして張り詰めたのが分かった俯いた彼女の手が小刻みに震えている。
「……お願い…言わないで………ルークには気付いて欲しくないの……お願い…」
 ティナリアは掠れた声を絞り出すようにしてそう言ったが、彼女の願いはすでに聞くことが出来ないものであった。

―― やはりティナリア様は…… ――

 ジルにはどうしても彼女が迷っているようにしか見えなかった。
 ルークから口止めされていたことを話せば、彼女の心は主の元に戻ってくるかもしれない。その直感を信じてジルは全てを話し始めた。
「知っていますよ」
「え……?」
「ルーク様は全てご存知です……その上であなた様を行かせたんですよ」
「嘘よ……だって全然そんな素振り……」
 顔を上げたティナリアはひどく狼狽えていた。それでもジルは言葉を止めることはしなかった。
「あの手紙のことをお伝えした時、"憎みこそすれ、自分を選ぶことなどない"、"あの笑顔を守る為なら何でもしようと思った" と、そう仰っていました。ルーク様があんな風に誰かを想うことなんて今まで一度だってなかった」
「………」
 ティナリアの海色の瞳が大きく揺らいだ。
「お戻り下さい、ティナリア様……ルーク様のお側にいて差し上げて下さい」
「……めて…」
「ティナリア様」
「やめて!」
 初めて聞くティナリアの大声に今度はジルが驚いてしまった。しんと静まり返った二人の間を風が吹き抜けていく。
「決めたの……アレンの側にいるって……決めたのに…」
 彼女は震える手を胸元でぎゅっと握りしめると、さっきとは打って変わっていまにも消えてしまいそうなほどか細い声で続きを口にした。
「……これ以上………揺らさないで……」
「ティナリア様……」
「……ごめんなさい…」
 そう言ってティナリアは走り去っていく。
 けれどもう彼女を追うことも出来ずに小さくなっていく背中を見やりながら、ジルは己の浅はかさを悔やんで唇を噛み締めた。






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