窓を開ければ冷たい空気が流れ込んでくる。ティナリアは寒さを感じていないのか、薄着のままでバルコニーへと出て行った。
すっかり葉の落ちてしまった庭の木々を見つめる彼女の瞳はいまでも色を映さない。モノクロの風景が冬の近い寂しい景色をさらに寂しいものにしていた。
葉の色も、花の色も、沈みかけた夕陽の色も、まるでどこかに遠いところに置いて来てしまったかのように思い出すことが出来ない。
「……十日後の……午後六時…」
音にならないほど微かな声でティナリアが呟いた。
手の中にはアレンの手紙が握られている。あの日から何度も何度も読み返し、くしゃくしゃになった手紙の内容はもう見なくても一言一句覚えてしまっていた。
嘘はひとつもない。
簡潔に書かれたこの手紙から読み取れるのは約束を守ろうとしてくれている誠実な心。そして自分を愛しいと思ってくれているアレンの気持ちだった。
迷うべきではない。それも分かっている。
―― 愛しているのはアレンでしょう……それなのにどうして私は…… ――
バルコニーの手すりにもたれるようにティナリアは腕を乗せた。
冷たい風に晒されても頭の中のもやもやは一向に晴れてはくれない。ティナリアの小さなため息は風の音にかき消されてどこかに運ばれていった。
―― どうして……あの人のことを考えてしまうの…… ――
心に棘のように刺さったルークの悲しそうな微笑みがいつまでたっても消えてくれない。
その時、どこかから自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
ティナリアは後ろを振り向いて部屋の中を見たが、誰も訪ねてきた様子はない。気のせいかとほんの少し首を傾げるようにしてティナリアは再び外に目をやった。
「ティナリア」
今度ははっきりと聞こえた。気のせいではない。けれど何処から聞こえてくるのか分からず、ティナリアは辺りをきょろきょろと見回した。
「下だ」
その声にティナリアは庭を眺めるように視線を下げる。バルコニーの下、庭の花壇のところに声の主が立っていた。
「そんな恰好で外に出て、また身体を壊すぞ」
「……ルーク……」
いつからいたのだろうか。穏やかに自分を見つめているルークの鼻が少し赤くなっている。もしかしたらだいぶ長い間ここにいたのではないか、と思った。
遠くばかりを見ていたティナリアは、すぐ下にいたルークの存在に今まで気付かなかったのだ。
「そっちに行ってもいいか」
「……はい…」
ティナリアの返事を聞くと、ルークは嬉しそうに微笑んでエントランスのほうへ向かって行く。その後ろ姿を見ながらティナリアはぼんやりと執務室に呼ばれた日のことを思い出していた。
あの日、ジルが呼びに来て執務室へ向かった後、いつもポケットの中にしまっていた手紙が無くなっていたことに気付いた。どこかに落としたのかもしれないと慌てたティナリアだったが、大っぴらに探すわけにもいかない。
ひどく狼狽しているのを隠しながら時間が過ぎるのを待ち、夜になってからうたた寝をしていた時に座っていた椅子の隅に落ちていたのを見つけた時は心底ホッとした。
だがその束の間、きれいに畳まれたブランケットを見て、もしかしたらジルが見つけてしまったかもしれない、と再び動揺した。しかし、あれからジルはおろかルークからも何も問われることもなく、二人の態度はいつもとなにも変わりはなかった。
見つからなかったことに安堵した半面、心のどこかで見つかって欲しいと思う自分もいたように思う。
なぜそんなふうに思ってしまったのだろう、とティナリアが瞳を伏せた瞬間、彼女の体は肌触りのいいストールと温かな腕に包まれていた。
「身体を壊すと言ってるだろう。薄着でふらふらするな」
呆れたような声が頭上から降ってくる。ティナリアは身体を捻るようにしてルークを見上げると、彼は優しい顔をしてすっかり冷たくなった彼女の頬にキスをした。
その温かな唇を肌で感じながらティナリアはそっと瞳を閉じた。
―― 見つかって……引き止めて欲しかった……? ――
閉じた瞳が作り出した暗闇の中で不意に浮かび上がった考えに、ティナリアは自分でも驚いてしまった。
「こんなに冷えて……ほら、部屋の中に入れ」
ルークはそう言ってティナリアの肩を抱いたまま部屋の中へと促し、彼女を椅子に座らせるとすぐに窓を閉めて暖炉に薪を足した。それをぼんやりと眺めながらルークに抱かれた肩に手を添えた。
彼の温もりが伝わってくるような気がする。
"そばにいてくれ"
いつか言われたようにそう言って引き止められたら、この足を止めてここに残るというのだろうか。
いくら考えても分からない。どれが正しい答えなのか分からない。何を選んでも間違ってしまいそうな気がしてティナリアはここから動けずにいた。
「今日は一段と冷えるから、暖かくしておけ」
「………」
「ティナリア?」
「…あ……はい…」
そう言って手をとるルークの言葉にハッと我に返ると、ティナリアは慌てて頷いた。
「夕食が終わったら俺の部屋においで。今日はあっちで眠ろう」
「……はい…」
あの夜会の夜はさすがのルークもこたえたのか、それともティナリアを気遣ったのか分からないが、二人は別々の部屋で眠った。だが、次の夜からはいつも通り彼女の部屋に来て、いつも通り彼の腕に抱きしめられて夜を明かした。
しかし、いつも通りとはいっても所詮は表面上だ。ティナリアはルークの腕の中で眠れない夜を過ごし、そしてまたルークもそんな彼女に気付いていたことだろう。
その彼がわざわざ自分の部屋に呼ぶのはなぜだろう、と不思議に思いながらもティナリアは小さく返事をする。
「待ってる」
ティナリアの髪を撫でるように頭に手を添えるとルークはそっと唇を重ねた。唇が離れないほど近くで囁くようにそう言い残して彼女の部屋を出ていった。
扉の閉まる音を聞きながら、ティナリアは目を伏せ、静かに手の平を握り締めた。
「ねえ、アリス」
「はい?」
夕食後、湯浴みを終えたティナリアは寝間着に着替えながらアリスに声をかけた。聞きなれた大好きな声がすぐさま返ってくる。
「アリスは……いま幸せ?」
「え?」
突拍子もない質問にアリスは思わず手を止めて、きょとんとした顔をティナリアに向けた。
「幸せ?」
それを見ながらもティナリアは真面目な顔でもう一度同じ質問を繰り返す。アリスは彼女の真摯な瞳に何かを感じ取ったのか、黙ってすぐそばまで歩いて行った。
「幸せですよ」
「そう」
その答えにホッとしたようにティナリアが口元を上げた。そんな彼女の手をきゅっと握りしめ、アリスは優しい笑みをその顔に浮かべた。
「私はいつも幸せでしたよ?ティナリア様にお仕え出来て、いつも幸せでした」
「……アリス……」
「手を焼かされたこともたくさんありましたけど、嬉しい時は笑って、悲しい時は泣く、そして誰よりも優しいティナリア様にお仕え出来たことは私の誇りです」
「………」
ティナリアの瞳にはいまにも零れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。
アリスに話したい。全てを聞いてもらいたい。アリスが一緒に悩んでくれたのならどれほど心強いことか。ティナリアは心の底からそう思ったが、彼女にだけは知られてはいけない、と喉まで出かかった言葉たちを呑み込んだ。
そんなティナリアを見て、アリスはふっと笑った。
「ティナリア様が言いたくないのなら聞き出したりはしません。でもこれだけは覚えておいて下さい」
アリスはそう言葉を切ると一度視線を下げた。再び上げたその瞳は力強い意志を持ってティナリアの瞳を真っ直ぐに捉えた。
「誰が何と言おうと、私はずっとティナリア様のお味方です」
「アリス……それ…」
それは以前も聞いた言葉だった。ティナリアが迷った時、いつもそう言って背中を押してくれたのだ。
「何度だって言いますよ。私はずっとずっと、ティナリア様のお味方です」
「………」
頬に涙が伝うのが分かる。はらはらと音もなく零れ落ちる涙がアリスの手の甲も濡らしていく。
「いつだって私はティナリア様を信じております」
「…………ありがとう……」
きちんと声に出せたのか分からないほどティナリアの声は涙で掠れていた。震える彼女を抱きしめるアリスの姿はまるで妹を優しく宥める姉のようにも見えた。
「大好きよ……アリス……」
「私もです」
そう言ってアリスがぎゅっと腕に力を込めた。ティナリアの涙が止まるまで、柔らかな静寂が二人のいる部屋を包み込んでいた。
ランプを片手に冷たい壁を伝いながらティナリアは一人、廊下を歩いていた。アリスと部屋で話しこんでしまった為にルークの部屋に行くのが遅くなってしまった。
たかが三つ離れた部屋なのに足取りが重いせいか、たどり着くまでにやけに時間がかかってしまったように思える。
扉の前に立つと、ティナリアは息を吸い込んだ。まるで緊張しているみたいに手が震えてしまう。小刻みに震える手をどうにか抑えて、ティナリアは頑丈そうな扉をノックした。
一呼吸遅れて扉の向こうから返事が聞こえる。そっと扉を開けると正面の机で書き物をしているルークの姿が目に入った。
「呼んでおいてすまんな、これだけ終わらせたくて」
少しだけ顔を上げてそう言うとルークはすぐに書類に目を落とした。そしてそのまま視線を上げないまま言葉を続ける。
「先に寝てていいぞ」
「……いえ、待ってます」
ルークはその返事に驚いたように顔を上げ、それから嬉しそうに口の端を上げた。
「そうか。じゃあすぐに終わらせるから、少し待っててくれ」
「はい」
待つと言っても手持無沙汰なティナリアはルークの座っているすぐ近くの窓に近付いて行った。そこから見上げた夜空は薄っすらと雲がかかっていて星はあまり見えなかった。
―― 答えはひとつしかないの…… ――
胸に光る透明な雫を握りしめるとティナリアは祈るように瞳を閉じた。
「待たせたな。ずいぶん冷たくなってる」
いつの間に隣に来たのか、ルークはそう言って彼女の頬に触れた。ティナリアがじっとルークの瞳を見つめると彼は首を傾げるようにして覗き込んだ。
「なにか考え事でも?」
「……いえ…何でもありません…」
頬に触れるルークの手が首筋に滑り降りていく。だが、ティナリアが微かに身体を強張らせた瞬間、ルークの苦笑したような声と共にその手はすっと離れていった。
「寝ようか」
「………」
こくりと頷くティナリアを連れてルークは寝室の扉をくぐった。小さいランプの仄かな灯り以外に辺りを照らすものはなく、部屋の中はぼんやりと薄暗かった。
「おいで」
そう言ってシーツを捲るルークの言葉に引かれるようにティナリアはベッドの中に入り込む。ひんやりとしたシーツに思わず身を縮めたが、ルークの腕の温かさに硬くなった身体からすっと力が抜けていった。
「寒くないか?」
「……はい…」
そう頷くティナリアの身体をルークはぎゅっと抱きしめた。彼の胸に押し付けられるように抱きしめられながらティナリアはそっと瞳を閉じる。
―― 答えは……ひとつ…… ――
そしてティナリアは心を決めた。
約束の日は明日。
この答えが正しいのか、間違いなのか――――――その手をとったその時に全てが分かるのだろう。