ソワイエ家の屋敷の中はいつにも増して華やかに飾り立てられ、集った人々もまた煌びやかな衣装を纏い、自らの権威や財力を誇示しようと振る舞っていた。
 いかにも貴族というその雰囲気に呆れたようなため息を吐きながら会場へと入って行くルークの左の腕にはティナリアの手がそっと添えられている。
 彼らが入るとざわめいていたホールの中が一瞬、静寂に包まれた。そこにいた全ての人の目が二人に降り注ぎ、なんとも言えない空気が辺りを取り巻いたように感じられる。
「気にするな」
 ルークは正面を向いたまま小声でそう言うと、周りの視線を少しも意に介することなく堂々とした様子で進んで行った。
 広いホール内は再び話し声に包まれたが、それでも彼らの視線が二人から離れることはなく、その会話の内容が自分のことであるということを示していた。

"無理に微笑わらおうとしなくていい"

 以前、ルークがそう言ってくれた言葉が脳裏に浮かんだ。張り詰めていたティナリアの心がすっとほどけていく。
「平気です。気になんてしてません」
 ティナリアがそう答えるとルークは彼女のほうを振り向いた。ルークと目が合うとティナリアは口元を少しだけ上げて見せた。
「"言いたい奴には言わせておけばいい"」
 その言葉に驚いたようなルークの表情が可笑しくて、ティナリアは小さく声を出して笑った。
「覚えてたのか」
「ええ……あの言葉のおかげで気にならなくなりました」
「そうか」
 ルークの表情が一段と柔らかくなる。そしてそのすぐ後、彼は堪えきれなくなったように零れた笑いを噛み殺した。
「だがその言葉づかいはやめておけ。周りが驚いてしまう」
「そうですね」
 ティナリアのその微笑みはホールにいた人々の目を奪っていった。
 ここにいる貴族たちは皆、ティナリアから表情の消えた時期を知っている者がほとんどであったのだろう。中には驚いたように目を丸くしている者もいた。
 それくらい、久しく見せていなかった彼女の微笑みは以前にも増して可憐で自然なものであった。
 そんなざわめきの中、落ち着いた声が二人の耳に届いた。
「こんばんわ、クロードご夫妻」
 その声に二人が同時に振り向くと、そこには華やかな紅いドレスを身に纏った女性が立っていた。彼女はドレスを軽くつまんで流れるように会釈をする。
「ソワイエ家の夜会にようこそおいで下さいました」
 口の端を少し上げただけの笑みがやけに妖艶な雰囲気を醸し出している。
「ご招待いただき光栄です、ソワイエ伯爵」
 そう答えたルークの言葉に目の前にいる女性が今晩の夜会の主催者、ソワイエ伯爵なのだということをティナリアは初めて知った。ルークが会釈した後、彼に倣ってティナリアもドレスをつまんで頭を下げる。
「初めまして、あなたがクロード様の奥方様ですわね?私、エリザ=フィル=ソワイエと申します」
 一回り以上離れているであろうエリザの雰囲気に圧倒され、ティナリアは少し視線を伏せて口を開いた。
「……はい、お初お目にかかります」
「噂通り可愛らしいお方。こんな方を奥方に出来るなんて幸せ者ですわ。ねぇ、クロード様?」
 甘ったるい話し方でそう言うとエリザは微笑みながら横目でちらっとルークを見た。その瞳がティナリアには違う意味を含んでいるように映った。
「そう、ですね」
「まだご挨拶をしていない方がいらっしゃるの。またあとでゆっくりお話でもしましょう」
 ルークのぶっきらぼうな言葉にふっと笑うとエリザは身を翻し、ホールの反対側へと歩いて行った。
 そっとルークを見上げると彼の視線は紅いドレスの後ろ姿を追っているようだった。ティナリアが見上げていることにも気付いていない。
「……ルーク?」
 ティナリアがおそるおそる名前を呼んでみると、ルークははっとして彼女のほうに向き直った。
「あ……なんだ?」
 その様子がどうにももやもやとしてしまい、ティナリアは小さくいえ、と呟いた。一人、気まずさを感じ、話題を逸らしてみる。
「……女性で爵位をお持ちの方に初めてお会いしました」
「ああ、そうか。まあ珍しいだろうな。俺もエ……ソワイエ伯爵の他には二人しか会ったことがない」

"エリザ"

 そう言いかけたのをティナリアは聞き逃さなかった。

―― どうしてルークが伯爵を "エリザ" と呼ぶの? ――

 聞きたいけれどこんな場所で聞くべきことではない、とティナリアはその衝動を堪えた。それにこんな感情が湧き上がってきたことに自分自身で驚いていたのだ。
 一度だけ感じたことのある感情。
 アレンの婚約披露があったあの夜、彼とその婚約者であるリディア家の令嬢が手を取り合って踊っているのを見たとき、ティナリアの心に生まれて初めてその感情が芽生えた。
 そしていま、再びそれを感じている。
 嫉妬という名の感情を。
「ティナリア?どうした?」
「………」
 ティナリアは返事をしないまま、じっとルークの顔を見つめた。
 いつ見ても女なら誰でも見惚れるような整った顔立ち、すらりとした長身。そんな彼に過去に恋人がいなかったなどとは思わない。むしろ今、他に女性の影が見えないことのほうが不思議なのかもしれない。
「ティナリア?」
「なんでもありません」
 ティナリアは視線を下げて小さく首を振った。
「具合が悪いのか?人の少ないところに……」
「そうさせて頂きます。でも一人で平気ですから、ルークは他の方のところへ」
「しかし」
「大丈夫ですよ」
 心配そうなルークに微笑んで見せると、彼も少しほっとしたようだ。
「……すぐに戻るから」
 ルークはそう言ってホールの人だまりの中へと入って行った。その後ろ姿は人影に遮られてすぐに見失ってしまった。
 しかし壁際に移動し、ぼんやりとしていたティナリアの瞳が捉えたのはルークとエリザの姿だった。触れているだけなのかもしれないが、ルークの腕に手をかけているエリザが見ようによっては甘えているようにも見える。

―― やっぱりあの二人…… ――

 それしか考えられなかった。
 いつもなら頑としてティナリアを一人にしておくことなどなかったルークが、彼女を置いて他の女性の元に行ったということだけでも、そんな想像は容易についた。
 けれどどうしてこんなにも胸がもやもやするのか、どうしてこんなにエリザに嫉妬をしているのか、ティナリアには解らなかった。
 二人から無理やり目を逸らせると、ティナリアは彼らの姿が見えないところに移動しようと中庭へと出て行った。屋敷から漏れる灯りでほんのりと道が見える程度だったが、手入れが行き届いているのがよく分かる。
 冬を思わせる冷たい風が火照った頬を心地良く撫でていくのを感じながらティナリアはそういえば、と思った。
 ルークが夜会嫌いなのは知っていたが、いまになって思えばいつになく嫌がっていたように見えた。

―― 伯爵と私を会わせたくなかったから……? ――

 そんな考えが頭に浮かぶ。
 冷たい空気で少しはすっきりとしたが、胸につかえたものはなかなか消えてくれないようだ。
 ティナリアは首にかかっているネックレスを握りしめると、深呼吸をするようにふうっと息を吐き出して瞳を閉じた。ホールで奏でている演奏が小さく聞こえてくる。

―― 早く戻ってきて……ルーク… ――

 まるで祈りを捧げるように佇むティナリアのすぐそばで、ひとつの足音が静かに止まった。




 ルークはホールの中をエリザの姿を探して歩きながらも、さっきのティナリアの瞳が気にかかっていた。

―― やはり話しておいたほうがよかったか…… ――

 ティナリアのことになるとどうしても後手にまわってしまう。しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。一刻も早くエリザと話をして、ティナリアの元に戻るのが先決だ。
 人影の中に目の覚めるような紅いドレスを見つけると、ルークは寄ってくる貴族たちを適当にあしらいながら彼女のところへ歩いて行った。
「あら、クロード様」
 人に囲まれた中でにっこりと微笑む姿はさながら女王のようだ。さすが女だてらに伯爵の位を頂いているだけのことはある。
「少しよろしいかな、伯爵」
「ええ、もちろん」
 エリザは周りにいた人々から離れ、ルークの後について行った。途中、エリザはワインの注がれたグラスをとり、壁際まで行って立ち止るとそれを一口飲んだ。それを口に運ぶ姿でさえ色気を帯びている。
「お久しぶりですわね」
 ワイングラスから口を離しながらそう言った。
「……ああ…」
「またすぐにって仰っていたのに、いつまでたってもいらして下さらないから……こちらからお呼びしてしまいましたわ」
「……すまない…」
「いいんです、こうして来て下さったんだもの」
 そう言ったエリザの手がルークの腕にそっと添えられた。妖艶にしなる身体をぴたりとつけ、まるで甘えるように擦り寄ってくるその手をルークは片手でやんわりと遮った。
「あら、つれないですわね」
「今更だが貴女とはもうそういった意味で付き合うつもりはない」
「……どうして?」
「俺には」
「"ティナリアが"……かしら?」
 ルークの言葉を奪って、エリザは不敵に微笑んだ。
「ふふっ、そんなこと分かっていましたわ。あの頃とは雰囲気が全然違いますもの。悔しくて少し意地悪しただけですわ」
「エリザ……」
「謝らないで下さいね?いい女だったと頭の片隅にでも覚えておいて頂ければそれで結構ですわ」
 そう言って笑う彼女はルークよりも年上なだけあって幕引きも堂々としたものだった。それでも一瞬だけ見せた寂しそうな瞳をすぐに隠したのは彼女のプライドの高さ故か。それに気付かないフリをしてルークは視線を少しだけ下げた。
「だけどあの……不安定だわ」
「え?」
 ぼそっと呟いたエリザの言葉が周りのざわめきにかき消されてよく聞こえなかった。ルークが聞き返すとエリザは首を振って笑った。
「なんでもありませんわ」
 そう言って一気に残りのワインを飲み干すとエリザは妖艶な笑みを浮かべながらルークの目を見つめた。
「早く奥様のところへお戻りになりたいんじゃなくて?」
「………」
 躊躇いを見せているルークにエリザはくすりと笑った。
「随分と正直者になられたましたこと。顔に出てらっしゃるわ」
「……すまない」
「早く戻ってあげて下さいな。お優しいのも結構ですが、女はすぐに誤解するものですわ。奥様もまた……ね?」
 その言い方がやけに意味深に聞こえた。

―― ティナリアが誤解する……? ――

 ルークにはそうは思えなかった。肩を竦めるようにして苦笑しながらエリザの言葉を否定する。
「ティナリアは気にもしてくれないさ」
「そうかしら?女心は分からないものですよ」
「どうだか」
「ふふっ……私はそろそろ退散致しますわ。夜会にはまたいらして下さいませ」
「ああ、ありがとう」
 立ち去るときに見せたエリザの横顔はどこか晴れやかだった。
 彼女に対して情がなかったわけではない。けれど何よりも大切なものが出来てしまった今、エリザとはこうするほかに選択肢はなかったのだ。

―― すまない……エリザ… ――

 振り返ることのない凛とした後ろ姿は紅いバラのように美しく、気高く映った。
 ルークはその姿を見送ってから一度だけ瞳を閉じると、ひとり残してきたティナリアの元へと戻って行った 。






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