慌ただしかった夜が明けて、とうとう夜会当日を迎えた。
 カーテンの隙間から差し込む日差しに目を細めながら時計を見ると、すでに朝の十時をまわっている。
 普段はあまり寝坊することのないティナリアもさすがに昨日の夜は色々なことがあり過ぎて、ベッドに入った後もなかなか寝付くことが出来なかったのだ。
 目を擦りながら上半身を起こしたが、意識はまた昨日の夜に戻っていた。
 街を見にタウンハウスを抜け出したというのに、あんなことがあったせいで結局あまり見ていない。そして覚えているのは彼のことだけ。

―― 誰だったんだろう…… ――

 ガラの悪い連中など及びもつかないほどの身のこなし、そしてあの圧倒的な存在感。普通の人ではないような気がする。そういえば、と身なりも随分良かったことを思い出す。
 ティナリアがそんなことを考えながらぼんやりしていると、ノックの音がして扉の隙間からアリスが顔をのぞかせた。
「まぁ、お姿がお見えにならないと思ったら、まだ起きていらっしゃらなかったんですか?」
 アリスは腰に手を当てながら呆れ顔で立っている。
「ごめんなさい、寝坊してしまったみたい。いま起きようと思ってたの」
 もそもそとベッドから抜け出すと、鏡台の前に座った。髪を梳かそうと櫛に手を伸ばしたが、ティナリアより早くアリスがそれを取って、彼女の金の髪を整え始めた。
「ティナリア様、今日はお忙しいですからお覚悟下さいね」
「はあい」
 二人は笑い合いながら軽く身なりを整え、遅めの朝食をとりに下に降りていく。
 穏やかな朝が終わると午後にはアリスの宣告通り、夜会の準備に追われることになった。
 半ば強制的に湯に浸からされ、それが終わると指先の手入れ、それからほんのりと化粧も施される。ふっくらとしたその唇に薄く紅をひいたティナリアはどこか艶っぽい印象を与えた。
 それらが終わるとアリスはティナリアの後ろにまわって髪を半分だけ結いあげた。下に落とした分は丁寧に梳かし、シルクのような金の髪を際立たせるようにセットする。
「全てまとめてしまわないの?」
「ティナリア様の金の髪はとても美しいので、すべて結い上げてしまうのが勿体ないんですもの」
 そう言ってアリスは髪を結い終えると、仕上げに花を模した繊細な髪飾りを挿した。これも首飾りに負けず劣らず美しいものだった。
「さぁ、あとはドレスにお着替え頂くだけ」
 いつもより張り切っているアリスが面白くて、ティナリアはつい笑ってしまった。
「なんだか忙しすぎて夜会に出る前に疲れてしまいそうね」
「これからが本番ですよ」
 笑いながら部屋の衣裳棚に掛けてある例の薄紅色のドレスを持ってくると、ティナリアの着替えを手伝った。こういったドレスは一人で着ることも脱ぐことも出来ない。
 ティナリアがそのドレスを身に纏うと、落ち着いた色で統一された部屋の中は花が咲いたように明るく華やいだ。
 用意された靴を履き、少し屈んでアリスに首飾りをつけて貰う。全ての準備が整ったティナリアを見て、アリスは感嘆の声をもらした。
「ティナリア様……」
「……どうかしら?」
 ティナリアはアリスに向かって照れくさそうに微笑んだ。
「今日の主役は絶対にティナリア様ですわ!」
「言い過ぎよ」
「いいえ、絶対です」
 またしても自信たっぷりなことを言うアリスに苦笑した。
「でもティナリア様、素敵な殿方がいらしてもお気を許しすぎませんように」
「わかってるわ」
 ティナリアはそれこそ絶対にない、と思っていた。

―― だって私にはアレンがいるもの ――

「あ、指輪」
 その存在を思い出してうっかり声に出してしまった。
「指輪ですか?」
 用意した覚えのないものを言われてアリスはきょとんとしてティナリアを見つめた。
「あ……えっと…」
 ティナリアは慌ててごまかそうとして口籠くちごもった。その様子を見ていたアリスが首を傾げる。

―― やっぱりアリスには聞いてもらいたいわ ――

 そう思いなおすと引き出しからあの指輪を取り出し、アリスの前に戻って見せた。
「これのことよ」
「その指輪、お誕生日のパーティーでされていましたよね?」
 さすが長年侍女をやっているだけあって、アリスは一度しかはめていないその指輪もしっかり覚えていた。
「ええ……アレンがくれたものなの」
「アレン様が?……もしかして…」
 不思議そうな顔をしていたアリスの顔がだんだんと輝いてくる。アリスがその答えにたどり着くのを待ちきれずに、頬を赤く染めたティナリアが嬉しそうに言ってしまった。
「そう!私、アレンに求婚されたの!」
「本当に!?ティナリア様、本当でございますか!?」
「嘘じゃないわ!ほら!」
 そう言って左手にはめた碧い石の指輪を証拠としてアリスに見せつける。
「ティナリア様がアレン様をお慕いしていたのは存じておりましたが……まさか求婚だなんて…」
「本当は内緒にしていたんだけど、やっぱりアリスには一番に聞いてほしくて」
「ティナリア様……」
 アリスの顔を見れば今にも泣き出しそうな勢いである。
「このようなお話を一番に教えて頂けるなんて……私は幸せ者です」
 ティナリアはそう言って俯いてしまったアリスをきゅっと抱きしめた。
「アリスは私の一番の友人だもの」
 言葉を無くしてしまったアリスと静かに喜びを噛みしめていると、エントランスに置いてある振り子時計のボーンという低い音が六回聞こえてきた。その音にアリスががばっと身を離した。
「大変!六時になってしまいましたわ!申し訳ありません!嬉しくてつい」
 ティナリアは慌てるアリスに向かってにっこりと微笑んだ。
「もう準備も整っているから大丈夫よ。でもそろそろ出たほうがよさそうね」
 そう言って二人はタウンハウスから出ると、待たせてあった馬車に乗り込んだ。気品のある重厚な馬車にはローレン家の家紋が彫られている。
「ティナリア様、よろしいですか」
「ええ」
 期待に胸を膨らませながら頷く彼女にアリスも微笑み返す。そうして他の使用人に見送られ、ティナリアとアリスを乗せた馬車は夜会の会場へと向かっていった。




 その頃、街の中では昨日の彼がぶらぶらと歩き回っていた。今日は一人ではなく、彼よりも少し背の低い青年がうしろをついて歩いている。
「ルーク様、本当に行かれないんですか?」
「ああ」
 その問いかけに気のない返事を返すと、青年は呆れたようにため息をついた。
「出席されると仰っていたのに……」
「体調不良とでも言っておけ」
「そんな」
 主人の無茶な返答に情けない声を出しながらも、めげずに彼に話しかける。
「何かお探しなんですか?」
「……別に」
 少しだけ間を置いてそう答えはしたが、彼の目はあふれ返る人の中からティナリアの姿を探していた。

―― いないか…… ――

 彼もまたティナリアのことが頭から離れずに、なんとなく探しに来てしまったのである。
 外套の中で彼女が落としていったストールをそっと撫でる。昨夜のティナリアの姿を思い出していると青年の明るい声が現実に引き戻した。
「そういえば、今晩の夜会には "華の乙女" がご出席されるそうじゃないですか」
「ああ、噂で聞いたよ」
「やはり今からルーク様も夜会に出られては?」
 横目で青年を見やると、その目は好奇心に輝いている。その様子に彼は苦笑した。
「"華の乙女" を見てこいと?興味ないな」
「勿体ないですね。ルーク様ならどんな女性でも射止められるのに」
 青年が心底残念そうに表情を変えてそう言うと、彼はつまらなさそうにふん、と鼻を鳴らした。
「貴族の娘なんてお高くとまりながらも俺に媚を売るようなやつばかりだ。その娘も所詮は貴族、きっと同じだよ」
 苦々しく、かつバッサリと貴族の娘を否定する。その言葉にさすがに青年も黙りこむと、彼はまた街の中に視線を向けた。

―― 昨日の娘もそうだろうか…… ――

 彼女の立ち居振る舞いからしておそらく平民ではないだろう。だが、貴族の娘だったとしても彼女は自分の周りにいる女たちとは違うように思えた。
 だからもう一度逢いたい、と思ったのかもしれない。
 ストールをしっかり握り直すと彼は名残惜しそうに街をもう一度見渡し、そして少女の姿を探すのを諦めて帰って行った。
 彼は屋敷に戻るとそのストールを綺麗にたたみ、どうしたものかと考え込んだ。落し物を無下に捨てるわけにもいかず、かといって人にやれるはずもない。迷った末、彼は衣裳棚の奥へとしまいこんだ。
 そうしているうちに青年の言葉をふと思い出した。

―― "華の乙女" か…… ――

 青年には興味がないと言ったが、全くないわけでもなかった。噂になるほどの美しい侯爵令嬢を見てみたい気もして、普段なら進んで出席しない夜会も、今回は出てみようと思った。
 だが、今朝になってどうにも気分が乗らずに結局、適当な理由をつけて欠席することにしたのだ。今頃、人々の視線を集めているであろう噂の "華の乙女" よりも昨日の少女のことが気がかりがった。
 初めからあの人波の中で見つけられると思っていた訳ではない。しかし、わざわざ探しに行って会えなかった、というのも落胆とまではいかないが何か虚しいものがある。
 彼はため息をつきながら部屋で一人、グラスに酒を注いだ。






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