「本当に大丈夫なのか」
 心配そうに声をかけてくれたイヴァンの顔を見上げ、アレンは気が抜けたように微笑んだ。
「ああ」
 前かがみになっていた体を背もたれに預けると、体重がかかった椅子がギシッと鈍い音を立てる。
 先の夜会の噂を聞きつけたイヴァンはアレンを心配して忙しい中、わざわざ屋敷まで足を運んでくれたのだ。そんな彼をアレンは心配し過ぎだ、と言って笑ったが救われたのも確かだった。
 誰にも話せないことを言える相手がいるというのはずいぶんと気が楽になるものだ。
 アレンが夜会で起こったことと、恐らくルークが気付いているということを掻い摘んで報告すると、イヴァンは案の定不安な顔を見せ、さっきの言葉を口にしたのだ。
「……なあ」
「なんだ」
 そう聞き返しながらも、アレンにはイヴァンが何を言わんとしているのかよく分かっていた。
「もう諦めたらどうだ?」
 予想していた通りの言葉をイヴァンは言い辛そうに視線を自らの手元に落としながら言った。
「その言葉、前にも聞いたな」
 アレンははぐらかすようにそう言ってからふっと息を漏らして苦笑したが、イヴァンは顔を伏せたまま言葉を続けた。
「お前の気持ちも分かるしティナリア嬢にも同情はする。だけど貴族の間では当り前のことだろう?」
「そうだな」
「全て受け入れて諦めれば……」
 言いながら顔を上げたイヴァンはそのまま言葉を切った。アレンが穏やかに笑っていたからだ。
「なんでだろうな。俺も諦めたほうが賢明だってことぐらい分かっているのに、それが出来ないんだ」
「……馬鹿だからじゃないか?」
 イヴァンは呆れたように深いため息を吐く。それにまたアレンが笑った。
「そうだな」
「そんな馬鹿にプレゼントだ」
 そう言って手渡されたのは一通の封筒だ。真っ白な封筒の裏面には紅い蝋で封がしてあり、下のほうにはソワイエと流暢な字で書き込まれてある。
「頼まれた例のやつだ。主催はソワイエ伯爵家。我がウォルター家とは親睦があってな」
 封筒を手にしたアレンの顔が引き締まる。
「いつだ?」
「十一月。再来月だ」
 あと二ヶ月後。アレンは頭の中で立てていた計画と、予定していた期間が合致することに頷いた。
「女主人のエリザはルーク様のお相手だという噂が以前あった。彼女からの招待ならきっと彼は来るよ」
「……さすがだな」
 無理を言った頼みごとだったのに、そこまで考えた上でソワイエ家に話を通してくれたのだろう。アレンはイヴァンに頭を下げた。
「ありがとう」
「借りは返してもらうからな」
 ニヤッと口の端を上げたイヴァンが悪戯っぽくそう言うと、アレンもつられて笑った。
「ああ。必ず返すよ」
 気のいい友人に助けられてここまで来ることが出来た。これが最後のチャンスになるだろうと思う。

―― あとは…… ――

 ティナリアが再びアレンを信じるかどうか、だ。
 あの日、ティナリアがアレンの婚約をどう捉えたのか分からない。まあどう考えても普通は裏切られたと思うのが当然だろう。
 だけどそれでも信じていてくれたのなら、その時こそティナリアの手をもう一度、掴み直すことが出来るはずだ。
 最後の頼みを託した封筒をアレンはじっと見つめた。




 ランプの光がゆらゆらと揺れながら部屋の中をぼんやりと照らしている。その光に浮かび上がった影はティナリアの心の中を映し出しているかのように暗く形を成していた。
 苦しげな息がルークの耳に聞こえてきた。
「……っ…」
 ベッドの端に腰かけると、ルークは手を伸ばしてティナリアの頭を撫でた。
「ティナリア」
 ルークが小さな声で呼びかけると、ティナリアの閉じられた瞼が一瞬だけ反応したようにピクッと動いた。だがそれが開くことはなく、呼吸も苦しそうなままだ。
 頭を撫でていた手がティナリアの瞼の上に来ると、見たくない何かを見せないようにするみたいにそっと置かれた。
「ここにいる」
 囁いた声はティナリアに届いているのか分からないが、いつもこう言ってからしばらくすると彼女の呼吸は少しずつ穏やかになっていっていた。
 ルークはティナリアの頬に流れた涙を指の腹で優しく拭い取ってやった。

―― いつまでそうやって涙を流すんだ…… ――

 眠るとき以外は感情を一切見せないティナリアだからこそ、ルークにはその涙がより重いものだと感じられて仕方がなかった。
 今さら優しくしたところでこれまで自分がしてきたことが許されるとは思っていない。けれど少しでもティナリアが心を見せてくれたなら何があろうとそれを守ろうと心に決めていた。
 しかし、彼女が心を開いてくれるにはまだまだ時間が足りないようだ。それは充分に自覚している。
 その距離を埋めたくて、少しでもティナリアのそばにいたいと思っているルークは、昼間に彼女が庭に出たと聞いて追いかけるように外に出ていった。
 いつも薄着で外に出るティナリアを心配してストールを持っていたのは正解だった。秋風になってくるこの時期にやはり薄着のままだった華奢な肩にストールをかけてやったが、彼女は困ったように顔を伏せてしまった。
 顔を伏せるなんていうのはいつものことでルークは別に気にしてはいなかったが、話しかければ以前よりは言葉を返してくれることに調子に乗っていたのだろうか。
 風に揺れる髪に、そしてあの視線に、思わずティナリアに触れてしまいそうになったあの時、彼女は伸ばしたルークの手に怯えるように身を引いた。
 そのことにはさすがのルークも軽くショックを受け、彼はその手を止め、ティナリアに背を向けた。

―― まだ信用されてないのに触れようとした罰か ――

 思い出して一人自嘲するように笑うと、呼吸が治まったティナリアから手を離した。
 涙の痕を残しながら眠るティナリアの顔は普段の大人っぽさが消えて年相応に見える。その寝顔をじっと見つめながら、ルークは昼間のティナリアの視線を思い出した。

―― 探るような、問い掛けるような、そんな眼差しだった気がするが…… ――

 表情のない彼女から感情を読み取るのは困難で、ルークはその眼差しがどんな意味を持っていたのか、まるで見当がつかなかった。
 けれどそう思える程度にはティナリアの瞳に感情が宿っていたということだろう。

―― それだけでも大した進歩だな…… ――

 ルークは口元に笑みを浮かべ、声に出さずに心の中で喜びながらひとり納得する。
 しばらくティナリアの様子を見ていたルークだが彼女の呼吸がすっかり落ち着いたのを確認すると、ベッドから立ちあがってゆっくりとした足取りで窓辺に歩み寄った。
 分厚く重たいカーテンを少しだけ開けると、その隙間から薄明るい光が部屋の中に一筋だけ射しこんだ。空は白んでいて、もう朝は近いことを告げている。
 いまのうちに部屋に戻ってひと眠りしないとさすがのルークも毎日のように明け方まで付き添っていれば体力が持たない。
 ルークはその光に眩しそうに目を細めるとカーテンをきっちり締め直し、再び訪れた暗闇の中、ランプの明かりを頼りにティナリアのそばに戻っていった。
 こうして触れながらそばにいられるのは夜中の間だけだと思うとどうにも離れがたく感じてしまい、ルークは名残惜しそうにその頬にそっと触れた。
「……ん…」
 その手にティナリアが微かに反応した。起こしてしまったのかと内心焦ったルークは彼女が気付く前にその場を離れようとしたが、それは叶わなかった。
 頬に添えたルークの手がティナリアの小さな手に捉えられて身動き一つすることが出来なかったからだ。
 驚きながらティナリアの顔を覗き込んだが、彼女が起きている様子はない。おそらく頬に触れたことに対して無意識に手が動いたのだろう。
 寝ている間の無意識の行動とはいえ、自分の手に重ねられた小さい白い手を茫然と見つめながら、ルークは相反するふたつの感情が混ざりあったような感覚に襲われた。
 ティナリアが自分の手に手を重ねてくれたことに対する嬉しさ。そして重ねられたことに対する空しさ。
「ティナリア……」
 返事をするはずがないと分かっていながらも、両の目をしっかりと閉じたまま心地良いリズムで寝息を立てているティナリアに呼びかける。
「……誰の手と間違えているんだ…?」
 ルークは口の中だけでそう呟いた。
 ティナリアが自分から手を重ねてくれることなんてあるはずがない。夢の中で違う誰かとそうしているのだろうとルークには容易に想像がついた。
 違う誰か。アレンだ。
 嫉妬心を必死になって押さえながら、ルークは起こさないようにティナリアの手をそっと外した。
「せめて夢の中では幸せに……」
 そう言って髪を梳くと、その手に取った一束に静かにキスをして部屋を出ていった。
 
 
 

 目が覚めたティナリアはベッドから身を起こすとカーテンを開け、色のない景色を眺めた。それから鏡台まで行くとその椅子に腰をかけて鏡を覗き込む。
 頬に乾いた涙の痕が薄らと残っているのが目に付いた。

―― 拭った痕…… ――

 ティナリアはその痕を辿るように自らの頬にそっと触れた。
 いつものように夢の中から救いあげてくれるあの声と手のひらを夢現の中で感じていた。そして一度離れると戻ってこないその手が今朝は再びこの頬に触れた。
 安心できるあの温かさを手放したくなくて、無意識のうちにその手を掴んでいた。

―― あれは……夢…? それとも…… ――

 ティナリアは自分の手のひらをじっと見つめながら少しだけ首を傾げた。夢だったとしても、あの手に触れたことでひどく安心できたのを覚えている。
 あのとき目を開けていれば夢か現実かすぐに分かったはずなのに、まるで見えない何かに押さえられてしまったようにどうしてもその瞼を上げることが出来なかったのだ。
 そして静かにティナリアの手が解かれると、髪に触れたのを最後にティナリアの意識は緩やかに消えていった。
 ティナリアが触れたその手は、記憶にあるアレンの優しい手ではなかった。
 アレンよりも少し大きくて、少しごつごつした "男" の手だった。

―― やっぱりあの手は…… ――

 ティナリアの頭の中に黒髪を揺らしながら少し寂しそうに笑ったルークの姿が思い浮かんだ。
「……ルーク…」
 自分の耳にも届かないほど小さな小さな声。けれど確かにティナリアはその名を口にした。
 その場にルークが居てもきっと気付かなかったであろうその音は、ティナリアの心の中に深く沈んでいった。
 少しずつ変わり始めたルークに戸惑いながらも、その優しさに安堵を覚え、ティナリアの凍っていた感情が溶け始めていたのを彼女自身、まだ気付いてはいなかった。






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