アレンの婚約発表があったあの夜会から一ヶ月近くが過ぎていた。
 庭を歩くティナリアの姿は相変わらず誰もが見惚れてしまう美しさだ。庭に咲く花もティナリアのそばにあるとその存在がかげって見えてしまうほどである。
 しかしそこに表情はなく、ティナリア自身の瞳に映る世界は未だに色褪せたままだった。
「ティナリア」
 優しい低い声に呼ばれ、ティナリアはゆっくりと首をめぐらせた。振り返ると少し離れたところからルークが歩いてこちらへ向かってくるところだった。
 いつも目にしているはずのその姿を見て、ティナリアはふとモノトーンに変わってしまった世界で唯一、以前と変わらないものを見つけた。
 漆黒の黒。ルークの黒髪だ。
 そしてその変わらない色の持ち主はあの日を境にがらりと変わっていった。
「あまり陽に当たり過ぎると体に障るぞ」
 ルークはティナリアのそばに来て足を止めると、持ってきたストールを彼女の肩にそっとかけた。そしてそのまま立ち去ることはなく、少しの空間を空けてティナリアの隣に並ぶ。
 肩にかけられたストールをぎこちなく胸の前で合わせ、ティナリアは戸惑ったように背の高いルークを見上げた。その視線に気付いたのか、ティナリアと目が合ったルークは彼女に優しく微笑んだ。
「どうした?」
「……いえ…」
 その微笑みから逃げるように目を逸らせると、ティナリアは少しだけ顔を伏せた。
 最近、ルークはこうやってそばに来ては少しだけ言葉を交わし、最後には柔らかく微笑みを向けるようになっていた。以前のような剣呑な雰囲気はもうどこにも見当たらない。

―― この人……変わった…… ――

 あの夜会の夜、全てがどうでもよく思えてルークにベッドに張り付けられても抵抗しなかった。必死になって自分を守っても、救いに来てくれる人がいないのならそんなことをしても無意味なだけだと思った。
 けれどルークはその手を止めた。
 いつもはどんなに泣いても、どんなに嫌がっても、それを押さえつけて自分のものにしていたのにあの夜はそうしなかった。

"少し眠れ……"

 そう言って瞼の上に置かれたルークの手のひらがとても温かく感じて、憎んでいたはずの彼の手に何故か安心してしまったのを覚えている。
 しかし次の日からはルークが姿を見せることはなかった。
 嫁いできた当初から拒絶を示してばかりで一向に懐こうとせず、挙句の果てには精神的にも崩れてしまった厄介な女を宥めるのもいいかげん面倒になったのだろうと思っていた。そういうことに考えを巡らせることすらどうでもよかった。
 それが思い違いだったのだと気付いたのは一週間ほど経ってからだっただろうか。
 毎夜、背を向けて離れていくアレンの夢を見ては涙を流してうなされていたティナリアを、いつも誰かの声がそこから救いあげてくれたのだ。
 その声の主は "行かないで" と叫ぶティナリアの頭を優しく撫で、宥めるように "どこにも行かない" と答えてくれた。
 そこで現実へと戻されるティナリアは重たい瞳を開けるけれど、いつも視界は温かな手のひらに覆われていてその人を見ることは叶わなかった。
 けれど一度も見ることは出来ていないのに、ティナリアは夢現ゆめうつつの中でその手が、その声が、ルークのものだと感じていた。
 あの日、安心を与えてくれた手のひらと同じ温かさだったから。
 だから姿を現さないのもそうではないのだと思えたのだ。そしてそれを裏付けするように、顔を見せるようになってからのルークから向けられるのはあの冷たい瞳ではなくなっていた。
 その変わりようといったら本当に別人になってしまったのではないかと思ってしまいそうなほどだった。
「夕方になるともう秋風だな」
 ルークの声にハッとした。つい考え込んでしまったようだ。
「あと少しすれば葉も色づき始める頃か」
「そう……ですね」
「内陸の秋は島よりは暖かいとは思うが、まだ慣れていないだろう。無理をして体を壊すなよ」
「……はい…」
 ティナリアは小さな声でルークに答える。それに対してルークがまた微笑んだ。

―― 優しくなった……でも… ――

 ティナリアにはそれが不思議に思えて仕方なかった。この屋敷に来たときからのことを考えると余計にだ。
 ここから出たいが為に嫌われるように仕向けて、確かにルークはティリアに冷たく接するようになっていった。確実に嫌われたものだと思っていた。
 だから急に現れたこの優しさが不自然にすら思えて、どうしても素直に信じることが出来ないのだ。
 ただでさえアレンに見捨てられたと思っているティナリアが、ひどい仕打ちばかりをしてきたルークを信じるにはまだ時間が足りていなかった。
 そんなティナリアの心の揺れを知る由もないルークはじっと顔を伏せたままの彼女を心配したように覗き込んでくる。
「ティナリア?」
「………」

―― どうして……? ――

 ルークの瞳をじっと見つめながら心の中でそう問いかける。会話の途切れた二人の間にさわさわと柔らかな風が吹き抜けていく。
 風に流れたティナリアの金の髪を眩しそうに目を細めて見ていたルークの手が彼女の頬に伸びた。思わずビクッと顎を引いてしまったティナリアに、ルークの手も寸前でピタリと止まった。
 そしてその顔が少しだけ寂しそうな微笑みに変わったことに胸の奥が鈍く痛んだ気がした。
「……戻ろうか」
 ルークは行き場の失ったその手をきゅっと握って引っ込めるとそう言った。
 夜中にうなされるティナリアを宥める以外、ルークがその手で彼女に触れることは一度もなかった。いまのように躊躇っては切なそうに微笑むだけ。
 先に歩きだしたルークの背中をティナリアは目で追いかける。
「あの……」
 何を言おうとしたのか分からないが、気付いたら言葉が口をついて出ていた。しかしその声は風に消えてしまい、ルークには届きはしなかった。
 先を行く背中からなぜか目が離せないでいると、ティナリアがついて来ていないと気付いたルークが足を止めて彼女を振り返った。
 まじまじと見つめてしまっていたことが勘付かれたのかと思い、ティナリアの心臓が一度だけ跳ねた。
「さぁ、戻るぞ」
 しかし、ルークはそれには気付かず、ただ一言そう言った。そしてその言葉がティナリアの耳にやけに鮮明に残った。

―― 前にどこかで…… ――

 少し首を傾げて思いだそうとしたが、思い当たるものは出てこない。それなのに何故か心がざわついた。
 ティナリアは落ち着かない心を隠しながら数歩先にいるルークのあとについて屋敷へと戻っていった。




「アリスさん」
 いつも屋敷の中を忙しく動き回るアリスがいまは木陰に腰を下ろしている。休憩中なのかと思って後ろから声をかけると驚かせてしまったのか、彼女はびくっと肩を竦めた。
「あ……」
 振り向いたそこにジルの顔を見た途端、アリスはしまった、というような顔をした。この様子だと休憩中ではなかったようだ。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「……いえ、私こそ申し訳ありません」
 少しサボっていたのが見つかってしまったアリスはバツが悪そうに俯いて謝る。立場的にはジルのほうが上だが、彼は叱ることもなくそんなアリスの隣に腰を下ろした。
「こんなところで何を?」
「………」
 何気なく聞いたジルの質問にアリスは答えることなく黙り込んでしまった。
「ティナリア様のことですか?」
「え?」
 ジルの言った言葉に、アリスは顔を上げて彼のほうを向く。ジルもその視線に合わせるようにゆっくりとアリスを見つめた。
「心配ですね」
「……はい…」
「精神的なものだと医者は言っていましたが」
 ティナリアが倒れた翌日、医師に診せたところ精神的な問題だと言われ、それが取り除かれれば色覚もいずれは治るだろうと診断された。
「だからこそ私にはどうすることも出来ないのです」
 ため息を吐きながらそう言ったアリスの横顔からはティナリアへの心配が手に取るように窺える。ジルは落ち込んでいる彼女が気負わないように何気ない口調で口を開いた。
「そばにいて差し上げるだけでいいんじゃないですか」
「でもそれだけでは……」
「誰かが変わらずに近くにいてくれるというのは支えになるものですよ」
「………」
 ジルの言葉にアリスは再び黙り込む。
 しばらく言葉のないままでいたが、次に口を開いたジルは何を思ったのか話をがらりと変えてきた。
「……あなたはルーク様のことを快く思ってはいないでしょう?」
 いきなりの言葉になんて返したらいいのか分からず、アリスは視線をジルに預けたまま、じっとその瞳を見つめた。
 アリスがルークを快く思わないのは仕方ないことだとも思っていた。実際、ジルから見ても以前のルークの仕打ちには目に余るものもあった。
 しかしジルもまたルークに忠誠を誓っている以上、ティナリアにもアリスにも彼を嫌ってほしくはなかった。
 だからといってルークの本心を自分の口からティナリアに言うことはさすがにおこがましい。だが、せめてアリスには知っていて欲しいと思ったのだ。
「……ルーク様はひねくれ者なんですよ」
「は?」
 予想外の言葉にアリスは思わず友達に話すような口調になってしまった。ジルは気にも留めずに話を続ける。
「ティナリア様に関しては特に」
「それって……」
 アリスは言葉をのみ込んだ。ジルはその言葉を聞く前にアリスの言いたいことを察して彼女に同意を示す。
「だと思います」
 心なしか、アリスがホッとしたような表情になった気がして、ジルはわずかに首を傾げた。

―― 安堵……? ――

「気付いてたんですか?」
 アリスはジルのほうに向き直ると小さく頷いた。
「ティナリア様にされたことは到底、許すことなんて出来ません。ですが……いまのルーク様ならティナリア様の支えになって下さるのでは、と……」
「そうでしたか」
 アリスの答えを聞いてそう言ったジルは、心の中で感服した。
 どんなに快く思っていない相手でも、自分が仕える者にとって救いになるのなら、と自分の感情をしっかりコントロールするアリスはまさに侍女の鏡のようだ。
「ジル様は……任せてもよいとお思いですか?」
 それでもまだ不安の残る顔で聞いてくるアリスに、ジルは柔らかく微笑む。
「はい」
 その揺るぎない返事にアリスの顔が少しだけ和らいだ。

―― 素直な人だな ――

 忠実で真面目、そして何よりも大切な人のために悩むアリスに好感を持ちながらジルはようやく腰を上げた。
「そろそろ戻らないとサボっていたことがバレてしまいますね」
「あ……すみません」
 隣でジルにつられて立ち上がったアリスが気まずそうに俯いた。
「たまには息抜きが必要ですよ」
 ジルはそう言ってアリスの柔らかな赤毛を軽く撫でるとその場をあとにした。






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