曇った空を見上げながら、アレンは記憶の中のティナリアを思い出した。一年以上会っていないのにその姿は色鮮やかに思い出せる。
 ティナリアの話はよく耳にしていたがどれも皆、別人の話なのではないかと疑いたくなるくらいアレンの記憶の中の彼女とはかけ離れたものだった。
 一秒でも早くティナリアのそばに駆け付けたいのに、それが出来ないもどかしさがアレンの焦りを余計に強めていった。

―― まだだ……ローレン卿の目を逸らせるまでは…… ――

 そのために取り付けた婚約が一ヶ月後にリディア伯爵家で開かれる夜会の場で公表されることになっている。それが終わってしばらくすればウォレスの監視も緩くなるはずだ、とアレンは考えていた。
「また考え事か」
「すまん」
 応接間で待たせてもらっていたアレンは突然声をかけられてハッと我に返ると片眉を下げて苦笑した。
 久しぶりに友人の屋敷を訪ねて行ったのだが、当のイヴァンが外出中だったのでしばらく待たせて貰っていたのだ。
「あと少しだな」
 イヴァンはそう言いながらつかつかと部屋の中に入っていくと、アレンの真向かいの椅子に腰を降ろした。
「ああ」
「その日は俺は出席できないんだが、くれぐれも無理はするな」
「分かってるよ。今回はただ公表するだけさ」
 何だかんだと面倒見のいいこの友人にこれ以上心配はかけたくない、とアレンは気軽な感じを装って笑いながら言った。イヴァンもそれに気付いているであろうが、彼は軽く息を吐き出して小さく笑った。
「相変わらず楽天的だな」
「まあな」
 二人で笑い合ったあと、思い出したようにイヴァンが質問を投げかける。
「そういえば、リディア伯爵の令嬢はなんて名だったかな」
「ノエルだ。ノエル=マリク=リディア」
「どんな娘なんだ?」
「見た目は少し派手だけどいい娘だよ。口実に使ってしまうのが申し訳ないくらいに」
 そう言ってアレンはすまなさそうに視線を下げた。
 ティナリアとの駆け落ちに失敗した後、アレンに突き付けられたのは大量の釣書だった。これ以上、何か大それたことを仕出かす前に身を固めさせようと彼の両親は必死になっていたのだが、アレンはそれを利用し、ローレンの目を逸らせようと画策した。
 その大量の釣書の中から選んだがノエルだった。総督家と関わりがない家柄、そして男に慣れていそうな娘、という条件の中で探した結果だ。
 派手な装いで写っているノエルを見て、きっと見た目通りの娘なのだろうと高を括って彼女に決めたのだが、実際に会って話をしたときはあまりの違いに正直驚いた。彼女はその外見とは裏腹に実に清廉な女性だった。
 今更ではあるが、こんな勝手な計画に巻き込んでしまったことを本当に申し訳なく思う。

―― だけど……ティナの代わりにはならない……代わりなんていない… ――

 婚約を破棄されることになるノエルのことを思うと心が痛むが、それでもアレンはティナリアだけを求めていた。
「そうか」
 その一言を最後にしばしの静寂が部屋を包んだ。その沈黙を破ってイヴァンが静かに口を開く。
「……準備は?」
「大方終わってるよ。あとは時期を見て……ってとこだな」
「……そうか」
 天井を見上げてそう言ったイヴァンの声はどこか不安そうな響きが含まれていた。それに気付きながらもアレンは誤魔化すかのように唐突に話を変えた。
「ところでイヴァン、お前にひとつだけ頼みがあるんだ」
「なんだ、急に改まって」
「これを開けるような知人はいないだろうか」
 そう言ってアレンは懐から一通の封筒を取り出した。手渡された封筒を開けて中身に目を通したイヴァンは少し驚きながらも首を縦に振った。
「ああ、いるよ。俺が開いてもいいが……」
「いや、ティナと関わりのない家が開いてくれたほうがいい。頼めるか」
「わかった」
 イヴァンは受け取った封筒を服の内側にしまい込みながら快く承諾する。
「ありがとう」

―― これで準備は出来た ――

 イヴァンの協力を得て全てを整えたアレンは遠く離れたティナリアに想いを馳せた。




 力尽くでティナリアを我がものにした日から三日が過ぎたが、食事のときですら彼女は姿を見せることはなかった。
 姿が見えないことに対して不満と心配が胸の中に入り混じっていたが、あんなことをしてしまった手前、どんな顔をしてティナリアに会えばいいのか分からず、ルークから部屋を訪ねることもなかった。
 その日の夜、厨房の横を通り過ぎたときに横目に映った姿にルークはふと足を止めた。二、三歩戻って中を覗き込むと、見知った顔がそこにあった。
「何をしている」
 その声に振り向いたのはアリスだった。
「ティナリアはどうした」
「ティナリア様はご気分が優れないようですので、お食事はお部屋で頂くと仰っております」
 アリスは冷たい目でちらりとルークを見るとそう言った。
 いくらティナリア付きの侍女だからといって使用人としてはあまりにも無礼な態度だが、それよりも彼女が言った言葉に気を取られた。
「具合が悪いのか」
 無茶をしたあと放っておいたせいで体を壊したのかと思い、ルークは内心ぎくりとした。
「……失礼致します」
 ルークの問いかけに答えないまま、アリスは少量の食事をワゴンに載せて厨房から運び出して行った。ガラガラと鳴る音が次第に遠くなっていく。
 その音を聞きながらルークは違う、と思い直した。具合が悪いわけじゃない、と。

―― 俺に会いたくないだけか ――

 そう思うと自分がしたことを棚に上げて苛々とした感情が燻っていく。ルークは廊下を遠く離れていくアリスを追いかけるとその手からワゴンを奪い取った。
「何を……」
「俺が持っていこう」
 驚いて立ち止ったアリスをそのままに、ルークは奪ったワゴンを押して歩き出した。
「お止め下さい!ティナリア様は本当にご気分が……」
「見舞うついでだ。何か不都合でも?」
「…っ……それは…」
 思わず言葉を呑んだアリスを横目に、ルークは意地の悪い笑みを浮かべた。
「ないようだな」
「お、お待ち下さい!ルーク様!」
 いくらアリスが必死になって止めてもルークは振り向きもしなければその足を止めようともしない。そうしているうちにふと曲がり角からベネットが姿を現した。
「おや、どうしたんだね」
 そこでようやく足を止めたルークはベネットに向き直った。
「ティナリアが体調を崩したようで、食事を運んでやろうと思いまして」
「そうか、大事にするよう伝えといてくれ」
「はい」
 ベネットが今度はアリスに目を向ける。
「して、そなたは?」
「あ……私はその……ルーク様のお手を煩わせるわけには、と…」
「よいよい、妻を気遣うのも夫の役目だ」
「……は、い」
 二人の会話を聞きながらちらっと横を見ると、アリスは悔しそうに手をぎゅっと握りしめたまま俯いていた。さすがに総督には口応えするわけにはいかないのだろう。
 ベネットに一礼し、再び廊下を歩き出したルークはちらりと後ろを振り返り、口元に意地の悪い笑みを浮かべた。視線の先にはそれ以上追うことが出来ず、立ち止まったままこちらを睨み付けるアリスの姿があった。
 その視線を無視して先を進み、ティナリアの部屋の前まで来ると、ルークは一瞬躊躇ってから扉をノックした。
「どうぞ」
 部屋の中から細い声が聞こえてくる。少し緊張しながら取っ手に手をかけて扉を開けると、入口を背にして椅子に座っているティナリアの姿が目に入った。
 アリスだと思い込んでいる彼女は振り返ることなく、その隙に部屋に入り込んだルークは扉に鍵をかけた。
「……アリス?どうし…」
 部屋に入ってからずっと黙ったままなことを不思議に思ったティナリアが顔を上げ、窓に映ったルークの姿を目にした瞬間、その顔が凍りついた。
 どうしたの、と問いかけようとした言葉さえ、途中で消えてしまった。
「気分が優れないと聞いたので見舞いに来た」
 ルークが一歩前に出るとティナリアは怯えたように椅子から立ち上がった。ガタンと大きな音が部屋に響く。
「……ア……アリスは…」
「下がらせた」
 そう言いながらティナリアに近付けば、彼女は少しずつ後ずさりをする。その顔はもはや感情を隠し切れず、恐怖の色が浮かんでいた。
 その表情がルークの中の何かを刺激する。
 あの日、腕の中で同じ表情をしていたティナリアを思い出してしまい、ルークは思わず彼女の腕を掴み、自分のほうに引き寄せた。
「放して!」
 ただ抱き寄せただけでティナリアは細い肩を小さく震わせていた。
「そう怯えるな」
 顔を背けたティナリアの首筋には紅い跡が薄らとまだ残っている。その同じ場所にキスを落とすとルークはティナリアの体を抱き上げた。
「いやっ……」
「暴れるな。落とされたいのか」
「放して!何でこんなこと」
 ティナリアの細い腕がルークの胸元を押したり叩いたりしているが、そんなものは彼にとって他愛ない抵抗だ。落とさないようにだけ気を付けながら真っ直ぐに寝室へ向かう。
「俺に嘘を吐いた罰だ」
「嘘なんてついてな……」
「気分が優れない?俺に会いたくなかっただけだろう」
 そう言ってルークはティナリアを乱暴にベッドに降ろすと彼女が起き上がる前にその体を押さえ付け、紅い痕が浮かぶ白く細い首筋に顔を埋めた。小さな悲鳴と共に彼女の首が竦められる。
「お願い……やめて…!」
 しかしティナリアの叫び声は空しく宙に消え、その華奢な体は再びルークの手に落ちていった。




 その日からというもの、ルークは毎日のようにティナリアの体を求めてくるようになった。
 夜毎訪れるそれは初めてのときのような痛みこそなかったものの、最初に植えつけられた憎しみと恐怖をさらに倍増させるには充分だった。
 重ねられた体から感じる体温も、荒い息遣いも、ティナリアにとっては嫌悪するものでしかない。それなのに彼女の体は持ち主の意思に反して、ルークの手にどんどん慣らされていった。
「や……っ…ぁ…」
 唇が肌を這うたび、指が動くたび、熱が打ち込まれるたび、ティナリアの口から小さく声が漏れた。頭では拒絶しているのに、体はルークを受け入れて快楽に負けそうになっていく。
 まるで自分の心と体がバラバラになってしまったようで、それがティナリアの心を余計に引き裂いていった。
「俺の名を呼べ」
 ティナリアを抱くたびにルークはそう言ったが、彼女は一度としてその名を呼ぶことはなかった。必死に苦痛に耐えながら、ただひたすら彼が果てるのを待った。
 腕の中に閉じ込められて朦朧とした意識の中で見上げたルークの表情が時折、辛そうに歪むのを見たような気がした。だが、最後に押し寄せてくる波に全て飲み込まれ、消えていく。

―― どうして…… ――

 いつもそれだけが頭に浮かんだ。
 偽りの花嫁だと言ったのはルークなのに、どうして自分を抱くのか。嫌われるように仕向け、ルークはそれに嵌まったはずではなかったのか。

―― なのにどうして…… ――

 荒々しい行為とは対照的に、ティナリアが意識を手放す直前に頬を撫でるその手だけはいつも優しかった。






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