寝室を出たルークはそのままシンと静まった廊下を歩き、使われていない客間へと入っていった。
テーブルの上にあるランプに火を灯すと棚から酒を取り出してグラスに注ぎ、一息に飲み干す。グラスから口を離したと同時に深いため息が漏れた。
ため息の理由はひとつ。
アレンという見たこともない男に嫉妬し、感情をみせたティナリアに欲情し、初めてだったにもかかわらず自分の感情の赴くままに彼女を抱いてしまったことに対してだ。
「……最低だな」
ぽつりと零れた言葉はどこか他人事のように聞こえ、思わず自嘲するように薄く笑うと、ルークはベッドの端に腰をかけた。誰もいないベッドに目を向けると先ほどのティナリアの姿がそこに浮かび上がる。
痛みに耐えきれずに上げた悲鳴がいまも耳の奥で聞こえているような気がした。
涙を零しながら "やめて" と乞い願うティナリアの体を何度も何度も蹂躙し、挙句の果てに気を失った彼女を無理やり起こしてまでその行為を続けてしまった。
何度もやめようと思ったが、苦しそうな息遣いのなかに時折漏れる甘い声がルークの思考回路を狂わせていった。
こうやってひどい仕打ちをすればティナリアの心はルークに向けられた憎しみでいっぱいになる。ティナリアの心にアレンがいることを知ったルークは、そうやることしか彼女の心を占めることなど出来ない、と思ったのだ。
―― そんなことをしても心は手に入らないのに…… ――
冷静になって考えてみれば、ひどく子供じみている。ようやく頭の冷えたルークは本当に馬鹿なことをした、と後悔した。
独占欲なのか、嫉妬なのか、それとも他の感情なのか。ティナリアの涙を見たときに感じた感情が何だったのかその場では分からなかったが、彼女を抱いたいま、その答えがはっきりと分かった。
全てだ。
ティナリアは自分のものだと主張し、彼女の心の中にいる自分じゃない誰かに嫉妬し、そして自分でも気がつかないうちに彼女に惹かれていたのだった。
ふと、それはいつからだったのだろうか、と考え、ルークは空のグラスを手にしたまま、彼女と初めて会ったときのことを思い起こした。
婚約者として連れてこられたティナリアは美しいだけの人形のようで全く興味が湧かなかった。それどころか、その時に思い描いていたのは彼女とよく似た、しかし似ても似つかない、夜の街で出会った名も知らぬ娘の姿だった。
ティナリアに惹かれたのがいつなのかは正確には分からないが、彼女の感情が無理やり閉じ込められたものだとなんとなく感じた時からすでに気になり始めていたのだろう。決して心を開こうとしない彼女に苛立っていたのは、見せて欲しいと思っていたからに相違ない。
「……ははっ…」
そこまで考えてルークは呆れたような乾いた笑い声をあげた。
ティナリアとは知らずに出会ったあの夜、強がりな嘘を吐いた娘。そして、心を守る為に全ての感情を押し殺し、虚勢を張るティナリア。
結局、ルークは二度、同じ女に心を奪われたのだ。
もっと早くにそれに気付いていれば、そしてティナリアがあの娘だと分かっていれば、違うやり方が出来たかもしれない。だがそう思ってみたところでもうあとの祭りだ。
ルークは自分の愚かな行動に自己嫌悪し、考えるのも嫌になったとでもいうようにベッドに仰向けに倒れた。一度だけ鈍く軋んだ音がやけに耳についた。
天井を見上げながら不意に自室に置いてきたティナリアが心配になった。あれほど乱暴に扱っておきながら心配するなどおこがましいにも程があるが、本気でそう思っているのは確かだった。
最後に触れた唇からは薄らと血の味がしていた。愛してもいない男に無理やり体を開かされ、どれほどの苦痛と恐怖を強いられたことだろう。
そんなことを思いながらルークは目の前に持ってきた自分の手のひらを定まらない視線でぼんやりと眺めた。
部屋を出る直前、ティナリアの頬を撫でようと伸ばしたこの手は寸前のところでぴたりと動きを止めてしまった。欲に塗れたこの手でこれ以上彼女に触れることは許されないような気がしたのだ。
ぎゅっと握りしめるとその手を下ろし、ルークは瞳を閉じた。
物心がついたころからルークは何不自由なく、欲しいものはすべてこの手の中に入れてきた。手に入れられないものなどないと高慢にも心のどこかでそう思っていた。
だが、そんな高慢さはティナリアによって見事に打ち砕かれ、そして深く思い知らされた。
ルークが初めて本気で欲しいと思った女の心は、すでに他の男のものだった。
絶対に手に入れることが出来ないと思えば思うほど想いはどんどん募っていき、ルークの心に暗い影を落としていった。
ルークの部屋を出てから自室へと戻ったティナリアは湯の用意を頼もうとアリスを呼んだ。自分の姿を見て言葉を失っているアリスに抑揚のない声で申し付ける。
「……湯の用意をしてくれる…?」
「は、はい!すぐにご用意致します!」
そう言って部屋を飛び出してから数十分後、息を切らせたアリスが部屋に駆け込んできた。
「ティナリア様、湯の用意が整いました」
ティナリアは窓に向けていた虚ろな瞳をドアのほうに向けた。服はすでに違うものに替えられている。
「……ありがとう…」
虫の鳴くような小さな声でそう言って、ゆっくりと立ち上がるとふらふらしながら湯殿に向かった。
足を動かすたび、麻酔が切れたように今更ながら下腹部に痛みが奔る。鉛でもついているのかと思うほど重たい体を引きずるようにして長い廊下を歩いていく。
後ろからアリスがついてくる足音が聞こえるが、彼女に全てを打ち明けるのはさすがに気が引けた。といっても勘のいいアリスなら、いや、アリスじゃなくてもいまの自分を見れば誰もが気付くだろうが。
ティナリアが足を止めると後ろをついてきていた足音もぴたりと止まった。
「……アリス、ひとりで大丈夫」
「でも……」
「ひとりにさせて」
「……かしこまりました」
俯いたような気配がした後、少し間を置いてからアリスはそう言った。ティナリアはチラリとも振り返ることなく、悲しい顔をしているであろう彼女に向けて心の中でに謝った。
―― ごめんなさい…… ――
心配してくれるのは嬉しいが、いまはアリスにすらこの姿を見られたくはなかった。
そしてようやく湯殿にたどり着いたティナリアはドレスを脱いで、その生々しい紅い跡を再度その目に映した。湯殿は陽の光がたくさん入り込んでいて眩しいほどに明るく、今朝ベッドで見たときよりもはるかに鮮やかにそれを浮かび上がらせた。
行為の証ともいえるその紅い跡は思っていた以上に全身に散っている。ティナリアはそのうちのひとつに指先で触れた。
―― どうして…… ――
昨夜のことを思い出すと嗚咽が込み上げ、体が自然と恐怖に震えてくる。ティナリアは抱きしめるように自分の体に腕をまわした。
どんなに抗っても敵わない力強い腕。咬みつくような口付け。肌を這う指先。そしてティナリアを引き裂いた熱。それらがまざまざと鮮明に蘇ってくる。
恐怖とともにティナリアに植えつけられたのはルークへの憎しみだった。
形だけの妻と言っておきながらも力尽くで自分の体を組み敷いたルークが許せなかった。そして抗い切れず、最後まで許してしまった自分の体が憎かった。
ティナリアはおもむろに石けんを手に取ると全身を隅々まで洗った。力を込めて何度も何度もゴシゴシと擦り、しまいには白い肌が赤くなるほど洗い続けた。しかし、どんなに洗っても体中に残る感触は消えてはくれず、まるで綺麗な体ではなくなったのだと思い知らせるように、ティナリアの肌に、心に、痕を残していた。
何も考えたくない。
何も思い出したくない。
もう気が狂ってしまいそうだ。このまま水に溶けてしまえれば楽になれるだろうか、と馬鹿げた考えすら浮かんでくる。
けれどティナリアは思い留まった。
―― アレンが迎えに来てくれるまで……もう一度逢えるまでは… ――
アレンはきっと来てくれる。
だから、それまでは決して自分を捨てたりなどしない。
細く頼りないただひとつの希望の糸はまだ途切れることなくティナリアの心を繋ぎ止めていた。
アリスは力なく歩いていくティナリアの後ろ姿を見送りながら、重ねていた手をぎゅっと握りしめた。
昨日、夕暮れ前に散歩に出て行ったきり帰ってこなかったティナリアを探し回ったが見つからず、嫌な予感を胸に抱きながら屋敷にいた使用人たちに訊いて回った。
そしてそのうちの一人からルークと一緒にいたのを見た、と聞かされたのだ。
急いでルークの部屋に行ったものの、いくら呼びかけても返事はなく、扉にも鍵がかかっていた。こうなってはもうどうすることも出来ない。
不安なまま夜を明かしたアリスは真っ青な顔をしたティナリアを見て一番恐れていたことが起こったのだ、と悟った。
首筋にいくつも見えた紅い跡。涙で赤く腫れた目。どう考えてもティナリアが望んだことではないのは一目瞭然だった。
「ティナリア様……」
庭に散歩に、などと声をかけなければこんなことにはならなかったかもしれない。アリスは自分の言葉を悔んだ。
アレンと引き裂かれ、望まない結婚で打ちのめされていたティナリアにこれ以上苦しめというのか。あまりにも彼女が哀れだ。
ティナリアの辛そうな背中を見送った後でアリスが歩いてきた廊下をひとり戻り始めたその時、偶然にも向こう側から歩いてくるルークと鉢合わせた。
ルークはティナリアの夫だ。したがってティナリアよりも上の立場であって、本来ならば逆らうことなどもっての外という人物である。だが、アリスにとって仕えるべき主人はティナリアだけだった。
その主人をあのような姿にした張本人を目の前にして平静でいられるはずがない。自分の中にふつふつと湧き上がってくる怒りを抑えることは難しかった。
―― よくもティナリア様を…… ――
その視線に気付いたのか、ルークは歩みを止めてアリスのほうを見やった。
「なんだ」
不機嫌を隠そうともしないルークの態度に余計腹を立て、アリスもぶっきらぼうに答えてやった。
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「ございません」
アリスの態度が気に障ったのか、ルークはため息を吐きながら苛々と言葉を投げつけた。
「主人が主人なら侍女も侍女だな」
自分だけならまだしも、ティナリアまでも侮辱したようなその言い方がアリスの頭に血を上らせた。アリスは思わず出そうになった手は懸命に堪えたが、歩き出したルークの背に向かって勝手に動いた口は止めることが出来なかった。
「……ご自分がなさったことを棚に上げてティナリア様を侮辱しないで下さい」
言ってしまってからハッとして手で押さえたが、口から出てしまった言葉はもう取り返しがつかない。ルークは振り返ると射るような視線をアリスに向けた。
「なに?」
その低い声と視線にアリスは一瞬怯んだが、開き直ってその目をしっかりと見据えた。
「あんなひどいことをしておいて……よくもそんな……」
「あれは俺の妻だ。自分の妻を抱いて何が悪い」
「な……」
アリスはルークの心ないその言葉に唖然とした。そんなアリスを横目で見ながらルークは歩き出そうと体の向きを変える。
「言いたいことはそれだけか」
「………」
アリスが黙ったままでいると、ルークはそのまま背を向けて歩いていった。
―― なんて人…… ――
その後ろ姿を睨みつけながら、アリスの心に怒りが燃え上がる。
アレンがいない今、ティナリアの味方はアリスひとりだ。だが、たかが侍女の分際では彼女を守るのにも限界がある。
島にいたときも感じた無力感が再びアリスを苛んだ。
歯がゆい気持ちを消化しきれないまま、アリスはすでに視界から消えていたルークの歩いていった先を苦々しく睨み、反対方向へと歩いていった。
ティナリアは長い時間をかけて湯浴みを終わらせると、誰にも会わないように人目を避けて自分の部屋に戻っていった。
その心境を察してか部屋にアリスの姿はなく、しかしお茶の用意だけはしっかりとしてある。さすが長年行動を共にしてきただけあって、アリスの気遣いは常にティナリアにとってありがたいものだった。
茶葉をセットされてあったポットにお湯を注ぐと紅茶の香りがふわりと広がる。ティナリアは目を閉じ、ゆっくりとその香りを吸い込んだが、大好きな香りにも全く心は浮かれることなく、吸い込んだ空気を深く吐き出した。
―― これからどうすればいいの…… ――
いくら広いとはいえ、この屋敷で暮らしている限りルークに会わずにいることなど不可能だ。それでもティナリアはなんとか避けられないかと考えたが、一向にいい考えは思い浮かんでこない。
ふと俯いたときに視界に入ってきたのは自らの左手の薬指にはまっている銀の指輪だった。
ティナリアは立ち上がると鏡台の前に立ち、引き出しに隠してあった指輪を取り出した。白い箱に入ったままの指輪はあの日と変わらずにきらきらと海の色に輝いている。
しばらくそれを見つめた後、おもむろに指にはまった銀の指輪を抜き取り、碧い指輪を同じ場所にはめた。そっと指で輪郭をなぞり、自らの頬にすり寄せる。
「……アレン…」
言葉にすれば余計に逢いたくなる。けれど今は想い出でも幻でもなんでもいいからアレンの欠片に触れていたかった。
―― また全てを閉じ込めてしまえばいい…… ――
そう思ったティナリアだったが、このときはまだ気付いていなかった。感情をなくすために作り上げた氷の壁は、一度感情を出してしまったせいでうまく作り直すことが出来なくなっていたことに。
人形の仮面はひび割れ、その隙間から "恐怖" と "憎しみ" 、ふたつの感情が見え隠れしていた。