ティナリアは窓の縁に腰をかけると、少しずつ色が変わっていく高く澄んだ空を見上げた。あと少しすれば陽が傾き始める頃だ。
 夏が近付くにつれて緑豊かに生い茂り、花々が至るところに彩りを添えている屋敷の庭園を眺めていると、ふと視界の端に石畳の上を歩くルークの後ろ姿が映った。彼が向かう先には馬車が止まっており、今日もまたどこかへ行くのか、と頭の隅で思う。
 結婚してからというもの、ルークは毎日のように外出し、ティナリアの部屋を訪れて来ることなど滅多になかった。ティナリア自身もルークを避けるように過ごしていた為、顔を合わせるのは食事の時くらいのものだ。

―― そのほうが私も気が休まる…… ――

 ティナリアはぼんやりとそんなことを思いながらルークの後ろ姿を見送った。結婚以前はどうだったのか、どこへ行っているのかなどは知る由もなく、また知ろうという気も起きない。
「いいお天気ですね」
 静かに話しかけられた振り返ると、すぐそばに真っ白なストールを手にしたアリスが佇んでいた。ちらりと見ればテーブルの上に先程まで広げてあったティーセットはティナリアがぼんやりしているうちに綺麗に片付けられていた。
「折角ですし、少しお庭を歩かれてはいかがです?」
 普段ルークと顔を合わせたがらないティナリアも、彼がいない時間だけは気兼ねなく庭に出ることが出来るだろうと思い、そう声をかける。
 島にいた頃のティナリアは天気がいい日は必ずと言っていいほど外に出て歩いていた。アリスは押しつけたくはなかったが、少しでもその頃のティナリアに戻ってほしかったのだ。
「……うん…」
「たまには気分転換なさらないと」
 気のない返事をするとアリスの少し困った顔が見えた。随分、心配をかけてしまっている。
 確かにアリスの言うとおり、このまま部屋の中に籠ってばかりでは気分どころか体まで壊してしまいそうだった。
「そう、ね。いま出ていくのが見えたし」
 会話らしい会話をしていないルークは気付いていないかもしれないが、ティナリアはまだ一度も彼の名を呼んだことがなかった。もちろんそれは故意に、である。
 一番呼びたい愛おしい人の名を呼べない代わりに、ルークの名前も一切口にしないと心に決めていた。
「少し歩いてくるわ」
 めずらしくその提案に乗ってきたティナリアが立ち上がると、アリスは嬉しそうにストールを差し出した。
「日暮れ前とはいえ、まだ日差しが厳しいので羽織って行かれたほうがよろしいかと」
「ありがとう」
 そう言って受け取るティナリアの表情は変わらず無表情だ。
「私もご一緒いたしましょうか?」
 少し心配になってアリスが声をかけたが、ティナリアは首を横に振った。
「一人で大丈夫」
「左様ですか」
 窓の外をもう一度振り返り、ルークの姿が見えなくなっているのを確認すると、ティナリアはその白いストールを羽織って部屋を出た。
 アリスはもうすっかり見慣れてしまった笑わない彼女の後ろ姿を、扉が閉まるまで寂しそうに見つめていた。




 外に出て日差しの中に足を踏み出すと、あまりの眩しさにティナリアは目を細めた。肌を焼かないようにしっかりとストールをかけ直し、目的もなくゆっくりと歩き出した。
 一人になるとさっきのアリスの表情が頭の中に浮かび上がってくる。
 あの寂しそうな表情といい、アレンと逃げ出そうとしたあの日からずっとアリスはいつも心配そうに見守ってくれていた。
 そんなアリスがいま一番喜ぶのはティナリアが笑顔を見せてやることだろう。そんなことは誰に言われずとも分かっている。だが、意識すればするほど余計に難しく感じてしまうのだ。

―― アリスには笑ってあげたいのに…… ――

 ルークに命じられた時のような作り上げた笑みなら出来かもしれないけれど、そんなものはアリスにはお見通しだろう。
 感情を殺すことに慣れ、親しい人にすら微笑むことが出来なくなってしまった自分がやけに惨めに思えて、ティナリアはひとり俯いた。
 丸や円錐などの形に丁寧に刈り込まれた木々の間を縫って、迷路のように広がる庭をさらに奥へと歩いていく。色鮮やかに咲き乱れる花壇は、花の匂いがむせ返るほどたちこめ、少しくらくらするほどだ。
 ティナリアは背の低い花壇のそばにしゃがみ込むと、その中から小さな花をひとつだけ手折った。

―― 花に囲まれていてもここは……監獄のようだわ… ――

 そんなことを考えながら手持無沙汰にその花をくるくると回していると、ふと足元に何かすり寄ってきた。それと同時にニャー、と小さな声が聞こえる。
 ティナリアが自分の足元に視線をやると、そこには薄茶色の毛色をした子猫がうずくまっていた。
「子猫……」
 そっと手を伸ばしても子猫は逃げることもせず、人懐っこくゴロゴロと喉を鳴らしながらその手に擦り寄ってくる。
「お前、どこから来たの?」
 猫が答えるわけもないが、ティナリアは思わず言葉をかけた。
 優しく撫でてやれば気持ちよさそうに目を細め、ニャーニャー、とまるでせがむように鳴く様子がひどく可愛い。ティナリアは子猫を抱き上げると自らの膝の上に乗せた。
「温かい……」
 子猫の温もりにホッとしたティナリアは撫でながら、ふとあることに気付いた。
「……あの人と同じ色…」
 薄茶色の柔らかな毛色が記憶の中のアレンの髪の色と重なった。
 そう思った瞬間、ティナリアの顔に僅かだが微笑みが広がった。無意識のその笑顔は人形のようなそれではなく、確かにティナリアの心が映し出されたものだった。
「名前はないの?」
 自分が笑っていることにも気付かず、ティナリアは子猫に話しかける。答えるようにニャー、と鳴いた声にティナリアはふっと声を漏らした。
「じゃあ私がつけてあげるわ。何がいいかしら」
 子猫の毛並みを整えるようにそっと撫で続けていたその手がぴたりと止まった。
「…………アレン……」
 ぽつりと呟いたティナリアはニャーニャー、と鳴く子猫を抱きしめる。
「……気に入った?良い名でしょう?」
 子猫はティナリアの手をペロッと舐めると顔をすり寄せてきた。
「アレンは甘えん坊ね」
 再びニャー、と鳴いた子猫が楽しそうに目を細める。だが、反対にティナリアの顔はどんどんかげっていった。一瞬の微笑みもすでにそこにはない。

―― 会いたい…… ――

「……アレン…」
 ティナリアは子猫ではない、その名を呼んだ。
「アレン……会いたい……アレン…」
 その名を口にするたび、心に押し込めていた感情が一気に溢れだし、ティナリアの瞳からぽつりぽつりと涙が零れ落ちていった。
 拭うこともせずに流れ落ちる涙は音もなく服に、土にしみ込んで消えていった。




 ルークがそこに戻ってきたのはただの偶然だった。
 エリザの屋敷に向かおうと馬車に乗ったのだが気が乗らず、結局途中で引き返してきたのだ。すぐに屋敷に戻ってもまたジルに小言を言われるだけだと思い、なんとなく庭に足を向けた。
「………な…いろ…」
 人の声がしたので何気なくそちらに顔を向けると植え込みの隙間から美しい金色の髪がのぞいている。普段、部屋に閉じ籠りがちなティナリアがまさかここにいるとは思いもしなかった。

―― 何をしているんだ? ――

 そう思って声をかけようとしたそのとき、いままで見たことのないティナリアの微笑みがルークの目に飛び込んできた。
 ほんの少し口の端を上げただけの、見逃してしまいそうなほど微かな笑みだったが、ルークは思わず目を奪われ、声も出せずにいた。

―― あれが……本来の笑顔…? ――

 一瞬のその微笑みは、まさに花のようだった。美しく咲き誇る大輪の華ではなく、触れればすぐに散ってしまいそうなほど儚い花。
 ティナリアに気付かれないようルークは咄嗟にその場に身を潜め、彼女の様子をじっと見続けた。
 "アレン" と名付けた子猫とじゃれるティナリアの顔が次第に曇っていくのを不思議そうに眺めていたが、次にティナリアの口から出た言葉にルークは息を呑んだ。
「……会いたい……アレン…」

―― そういう……ことか…… ――

 初めて見るティナリアの涙。
 声も立てずに泣く姿は美しくもあったが、その透明な雫がひとつ、またひとつと落ちていくたび、ルークの心に苛立ちが積み重なっていく。
 ルークはいてもたってもいられずにティナリアのもとに足早に歩み寄っていった。
「アレンとは誰だ」
 突然のルークの声にティナリアはびくっと肩を震わせた。
「………」
 顔を上げずに黙り込んだティナリアに向かって、ルークはさらに険悪な声で問い詰める。
「誰だと聞いているんだ。答えろ」
「……あなたには関係な…」
 関係ない、と言おうとしたティナリアの言葉が途切れるほど強く彼女の腕を引っ張り、半ば無理やり立たせた。膝に乗っていた子猫が驚いてぴょんと飛び降りる。
 ルークはティナリアの腕を掴んだまま、屋敷に向かって歩き出した。子猫の小さな鳴き声が次第に遠くなる。
「放して!放して下さい!」
「いいから来い」
 痛いほどにがっちりと掴んだその手は、いくら振りほどこうとしても一向に放してくれない。そしてルークは自室に入ると、荒々しく閉めた扉にティナリアの背を叩きつけた。
「痛っ……」
 ティナリアは息が止まりそうな衝撃に顔を苦しそうに歪めた。
「関係ない、だと?」
 ルークはそんな彼女を見下ろしながら苛立ちが籠った低い声で言った。
「お前の夫は俺だ」
 そう言うとルークは押さえつけられて身動きが取れないティナリアに顔を寄せた。背けようとするティナリアの唇をとらえ、強引に口付ける。
「や……っ…ん……っ…」
 ルークは唇を離すことなく、咬みつくように激しいキスを繰り返した。息も途切れ途切れになり、苦しくなったティナリアが唇を開いた瞬間、ルークの舌が入り込んでくる。
「んんっ……っ………んっ…」
 逃げようとするティナリアの舌を絡め取り、容赦なく攻め立てた。それは一年前のアレンの優しいキスとも、記憶に新しい先日のルークのキスとも全く違う、荒々しくてまるで獣のようなキスだった。
 先程の庭での出来事で思いがけず感情の壁が緩んでしまったティナリアの心に "恐怖" の二文字が浮かび上がってくる。
 これ以上ないくらいの力で暴れようとしてもルークの腕はびくともせず、ティナリアは彼にされるがままになるしかなかった。




 独占欲なのか、嫉妬なのか。それとも別の感情なのか。
 ただティナリアの心の中に違う誰かがいるということが面白くなくて、関係ないと言われたことに苛ついて、少し怖がらせてやろうと思った。
「……っ……はっ……」
 無理やり奪った唇をようやく離したルークはあまりの驚きに言葉を忘れた。
 そこには人形のティナリアではなく、怯えた表情を浮かべる感情のある彼女がいた。押さえつけた腕もかすかに震えている。
 そしてその表情はあの日、街で助けたあの娘のものだった。
 他人の空似ではない。男たちに追われ、偶然ぶつかったルークを見上げたときのあの表情とまるっきり同じなのだ。

―― まさか……!! ――

 初めて見たときも似ているとは思った。だけどあまりにも感情のないティナリアとは結び付かなかった。
 けれど、いま目の前にいるのは確かにあの娘だった。息も荒く、カタカタと震えながらも視線を逸らせず、恐怖に怯えた瞳でルークをじっと見ている。
 ここで止めるはずだった。怖がらせて終わりにするつもりだった。本当にティナリアを抱こうなどとは思っていなかった。
 だが、ティナリアがあのときの娘だったということ、そしてなにより初めて自分に向けられた感情のある彼女の表情に、ルークは昂る気持ちを抑えられなくなっていた。






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