重厚な扉が開かれ、純白のドレスを身に纏ったティナリアが現れると、その姿に誰もが息をのんだ。
まるで最高級のガラス細工のような繊細な顔立ちに、以前よりほっそりはしているが女性らしい緩やかな曲線を描く体は、溢れるような美しさを湛えていた。
品格のある豪奢なティアラを頭上に戴き、ティナリアはゆっくりとヴェールで覆われた視線を上げる。中央に敷かれた赤く長い絨毯の先には背の高い、黒髪の男が立っていた。
ウォレスの腕を組み、ティナリアはゆっくりと足を踏み出した。
一歩、また一歩と進むにつれ、鉛が付いているのではないかと思うほど重く感じられる。身を翻して駆け出したいのを堪え、ティナリアは懸命に足を前に進めた。
永遠とも思えるほど長く感じられた距離をようやく歩き終え、ティナリアの手はウォレスからルークへと渡された。
残りの道をルークと共に歩き、ティナリアは祭壇の前に静かに立った。
神父が開式を宣言し、神聖なる式が始まる。だが、聖書の言葉も聖歌もティナリアの頭の中をスルスルと通り抜けていくばかりだ。
「ルーク=レイ=クロード。あなたはティナリア=ヴァン=ローレンを妻とし、生涯愛することを誓いますか」
「誓います」
ルークの声が吹き抜けの丸い天井に響く。その声でようやくティナリアは伏せていた目を上げた。
「ティナリア=ヴァン=ローレン。あなたはルーク=レイ=クロードを夫とし、生涯愛することを誓いますか」
「……誓います」
一瞬の間があいて、ティナリアは鈴のような細い声で誓いを立てた。神の前で、多くの人たちの前で、偽りの言葉を吐く。
形ばかりの婚姻に吐き気すら覚えながら隣を横目で見上げれば、アレンとは違う漆黒の髪が目に映る。真っ黒な髪は陽の光も通さずに、端正なその顔をさらに映えさせるように綺麗に縁取っていた。
―― ここにいるのがアレンなら…… ――
「指輪の交換を行います」
神父の言葉にルークとティナリアはゆっくりと向かい合った。
今まで視線を合わそうともしなかったティナリアがじっとルークを見つめる。それに気付いたルークが怪訝そうに小さく首を傾げるが、ティナリアが視線を逸らすことはなかった。
ティナリアの瞳はルークの姿を映しているが、"ルーク" を見てはいなかった。彼女の心の中には優しく微笑むアレンが映っていた。
すらりとしたルークの手がティナリアの華奢な手をとり、その細い指に美しい銀の指輪をはめる。ティナリアも同じように彼に指輪をはめた。
それを確認した神父は満足げに頷き、二人に向かって微笑むと最後の誓いを口にした。
「それでは誓いの口付けを」
ルークの手が薄いヴェールを捲り上げる。霧が晴れたように鮮明になった彼女の表情はやはり凍りついたままであったが、あまりにも美しいその姿にその場にいた全ての者は皆、目を奪われた。
誰よりも早く気を取り戻したルークはそっと彼女の肩に手を置くと、紅くふっくらとした唇に吸い寄せられるように顔を寄せた。
ゆっくりと閉じた瞼の裏に、陽の光に透けてふわりと揺れる薄茶色の髪が浮かび上がる。
優しく包み込む腕。穏やかに呼ぶ声。たった一人の大好きな人の姿。
―― アレン…… ――
閉じた瞳の中でティナリアはアレンの幻と誓いの口付けを交わしていた。
「おめでとうございます」
「お幸せに」
ありきたりな祝福の言葉がシャワーのように降りかかる。
式を終えた二人はクロード家の大広間へと移っていた。ホールの中では盛大な宴が開かれ、伯爵や侯爵など名立たる人物を含め、大勢の人々が集まってきている。
「ルーク様、ティナリア様、このたびはご結婚、誠におめでとうございます」
一人の若い男が壇の下に跪きながら祝辞を述べる。
「ああ、ありがとう」
男はティナリアの顔をちらっと見てすぐにルークに視線を戻すと、他愛ない話を少ししてその場を去った。彼の後ろにズラッと並んだ人々が間髪を入れずに次々と挨拶にやってくる。
その人々の列もやっと落ち着いてきたと思ったとき、隣から冷たい声が聞こえてきた。
「なにをそんな仏頂面している」
「……隣にいるだけではいけませんか」
まっすぐに前を向いたまま、ティナリアも冷めた声で返すと隣で立ち上がる気配がした。
「ああ」
ルークはティナリアのすぐ横に立つとその細い肩を抱き寄せ、人々が見ている目の前で平然とキスをしてきた。
「……っ……ん…」
呆気にとられながらもティナリアはルークの腕から逃れようともがいた。が、もちろん敵うはずもなく、その間も彼の唇は離れてはくれない。周りのざわめきがどこか遠くに聞こえた。
「……はっ…」
ルークはようやく唇を離すと自分の陰で隠すように真正面からティナリアの視線をとらえる。
「微笑え」
唐突に言われた言葉の意味が分からず、ティナリアは無言のまま睨むようにルークを見つめ返した。
「言っただろう、幸せな花嫁の姿を装え、と」
屋敷に来たその日に、確かにルークはそう言っていた。
―― くだらない…… ――
ティナリアは心の中で従うことしか出来ないこの状況を、そして自分を嘲笑った。
「そんなことも出来ないの……か…」
その瞬間、あの夜から一度も見せることのなかった微笑みがティナリアの顔に浮かんだ。
しかし、それは以前の花のような笑顔ではなく、無機質な人形のように美しいだけのものだった。冷たく氷のような笑顔。
だが、初めて見るティナリアの微笑みにルークは思わず言葉に詰まらせた。
「……それでいい」
一言そう言うとルークは手を離し、自分の椅子に戻っていった。
そんなことがあって以降、ティナリアは人形のような微笑みをその顔に張り付け、それを見た者は皆、ことごとく魅了されていった。
だが、社交の場にほとんど出ることがないまま嫁いだティナリアは大勢の人に慣れておらず、不安や緊張もあったせいで長く続く宴に酔ったように気分が悪くなってしまった。もとから白い肌がより一層蒼白になっている。
「気分が悪いのか」
ティナリアを連れて挨拶に回っていたルークが彼女の異変に気付いた。抱いた肩が震えているような気がしたのだ。
「……いえ……何ともありません」
そう言ったティナリアの顔を覗き込むと、明らかに具合が悪そうな様子だった。
「顔が青いな。部屋に戻るか」
「結構です」
笑顔のままの頑なな返答にムッとしたルークは挨拶もそこそこに、強引にティナリアを廊下に連れ出した。
「戻るぞ」
ティナリアの返事も聞かないうちにさっさと歩き出した。肩を抱いたルークが少し速足になっただけで、ティナリアはそれについていけず足元がふらついた。
「あっ」
「……世話の焼ける娘だな」
呆れたようにため息をつくとルークが足を止める。それと同時にティナリアの体がふわりと浮かび上がった。力強いルークの腕がティナリアの細い体を軽々と抱き上げている。
突然のことに驚いたティナリアだったが、いまは暴れるほどの気力はない。それでも力の入らない腕でルークの胸を押して精一杯の抵抗を試みた。
「……降ろして下さい……自分で歩けます…」
「黙れ」
些細な抵抗などものともせず、有無を言わせないその一言でティナリアを黙らせると、彼女を抱き上げたまま部屋まで連れていった。
中に入りベッドにティナリアを降ろすと、ルークはその傍らに立ったまま彼女を見下ろした。
「平気か」
「……先程も何ともないと申し上げました」
ルークの視線に気付いているはずなのにティナリアは顔を上げようとしない。それどころかさっきまでの微笑みもすでにその顔から消え去っていた。
「あなたが心配される必要などありません。放っておいて下さい」
その言葉に苛ついて、気付けばルークはティナリアの手を掴み、ベッドの上に押さえつけていた。
「……何を…」
「心配だと?自惚れるな」
嘲るように冷たく言い捨てると、なにか言おうとしたティナリアの唇を無理矢理塞いだ。
「……っ……や…」
「初夜に倒れられては抱けなくなると思っただけだ」
真上から見下ろされるルークの冷たい瞳に、ティナリアも冷たく感情のない視線を返す。
「ご冗談を。可愛げのない女はお断りだ、とご自分で仰ったでしょう」
「妻としての務めは果たしてもらう、とも言ったはずだが?」
ギシ、と鈍い音を立ててベッドが軋んだ。普段は気にも留めない小さな音が、静まり返った部屋の中ではやけに大きく耳に響く。
ルークは再び塞いだティナリアの唇からゆっくりと離れると、彼女の瞳を間近で見つめた。
「………」
それでもなお無感情なティナリアの瞳に、ルークは気が削がれたように彼女から体を起こした。
「お前のような小娘では手を出す気にもならん」
つまらなさそうにそう言うと、ルークはベッドから降りてそのまま部屋を出ていった。
ティナリアは押し倒された状態のままで、ルークに掴まれた腕を自分の目の前に持ってきた。強く掴まれた跡は鈍い痛みを伴って、赤くくっきりと浮かび上がっていた。
―― なんで急に…… ――
ついさっきの光景を思い出すと、余計に気分が悪くなってくる。
ティナリアはその腕を瞼の上に降ろして視界を遮ると、暗闇の中に全ての感情を吐き出した。
来客に引き止められながらもなんとか自室にたどり着いたルークは明かりもつけずに椅子に座る。靴を脱ぎ捨てると、だらしなくテーブルの上に足を乗せた。
無意識のうちに深いため息をつき、酒を一口呷った。氷を入れただけのウイスキーが口の中に苦く広がる。
目を閉じると純白のドレスを身に纏ったティナリアの姿が、そして初めて見たあの微笑みが瞼の裏に鮮やかに映る。
確かに美しかった。
ルークが目を奪われたのも事実だ。だが、なにか腑に落ちないものがあった。
―― 誓いの口付けの時、何か……いや、誰かを見ていた……? ――
あの時感じたほんの少しの違和感。どこか遠くを見つめているような彼女の瞳。あの時、彼女の瞳には自分の姿は映っていなかった。
人だろうと物だろうと、自分を通して違う何かを見られた不快感がいまだにルークの胸の中に燻っていた。
そしてもう一つ。
きっとティナリアの感情は欠落しているわけではない。
―― まるで感情を殺しているような…… ――
そう思う根拠はひとつもない。
だが、なんとなくそう思うのだ。あまりにも無表情すぎるからかもしれない。
それにルークはどことなく突っかかってくるようなティナリアの態度も気になっていた。ルークを完全に拒絶し、あえて嫌われるようにしているかのようにも感じられる。
―― だが、もしそうだとしてもあそこまで無感情になれるものなのだろうか…… ――
無理矢理ベッドに押さえつけて唇を奪ったときですら、ルークに向けられた瞳には恐怖や嫌悪感が全く浮かんでいなかった。ただ冷たく視線を合わせただけだ。
そのことを思い出しているうちに、ふとティナリアの唇の感触が甦ってくる。紅く小さい唇はふっくらとして柔らかく、まるで瑞々しい果実のようだった。
手を出す気にはならないと言った言葉は嘘ではなかったが、もしもティナリアがあのキスに応えていたならどうなってかは分からない。
「はっ……何を考えている…」
ルークは声に出して自嘲するように笑った。
いつも好んで飲んでいる酒も今日はまったく美味いと思えず、グラスに半分残したままテーブルを離れベッドに横になる。
明日になればまた無感情なティナリアの顔を見ることになると思うと、自然とため息がこぼれた。どう扱っていいのか分からないなんて初めてのことだった。
そんなことを考えながら瞳を閉じるとさすがに疲れが出たのか、数分もしないうちにルークはうつらうつらとし始める。
意識が朦朧としていく中、瞼の裏に映ったのは一度も見たことがないはずの幸せそうに笑うティナリアの姿だった。