窓から見下ろした海は薄曇りの空の下で輝きを失っている。窓を開けると凍えそうなほど冷たい空気が部屋の中に流れ込んできた。あと一週間もすればこの島は雪に覆われるだろう。
 ティナリアの心は白く凍てついたこの地と同じように分厚い氷に覆われて、いまではもう微笑むことすらなくなっていた。
 あの夜以来、アレンからは手紙も来訪もない。
 もちろんウォレスがそれらの一切を遮っているのだろうと容易に想像がついた。ローレンの権力を使えばアレンとの接触を断たせることなど赤子の手を捻るよりも簡単なことだ。
 けれど、あの夜のあの言葉だけがいまにも壊れてしまいそうなティナリアの心をなんとか繋ぎ止めていた。
「ティナリア様、お風邪を引かれますよ」
 何も考えずにぼんやりしていると、後ろから聞きなれた優しい声がした。声の方を振り向くとアリスが扉の横に立っている。
「アリス」
 アレンと引き離されたばかりの頃に比べると、アリスとだけはかなりまともに言葉を交わすようになっていた。
「……今日も雪が降るかしら」
 ティナリアは視線を窓の外に戻しながらそう言った。
「そうですね。ずいぶんと冷えてきたのでおそらくは」
「このままずっと降り続けてくれたらいいのに」
 無表情のまま、呟いたティナリアにアリスはかけるべき言葉が見つからなかった。そんなアリスを見てティナリアは少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい。困らせたわね」
「そんなこと……」
 そう言いながらも確かにアリスは戸惑っていた。
 ティナリアの話す言葉にも以前のような無邪気さは感じられなくなり、口数も少なくなっている。
 おしゃべりが大好きで、嬉しいときは花のように笑い、悲しいときは素直に涙を流すティナリアを知っているからこそ、いまの感情のかけらも見えない彼女に困惑していた。
「あ……降ってきたわ」
 ティナリアの声にアリスも窓の外に目を向けると、白い雪がはらはらと音もなく、曇った空から落ち始めていた。
 それから島に本格的な冬がやってくると例年よりも凍てつく寒さに見舞われ、夏の穏やかさが嘘のように海は凪ぐことなく、天然の要塞のようにティナリアを島に閉じ込めていった。




「ティナリア様、ドレスのお直しを」
「首飾りはいかがいたしましょう」
「ティアラはこちらを」
 季節は流れて春になり、まわりが婚礼の準備に追われて日に日に慌ただしくなっていくのをティナリアは他人事のようにただ黙って眺めていた。
 レースを贅沢に使った純白のドレスも、美しく輝くティアラも、どうでもよかった。
 女性ならば手を叩いて喜びそうな品々を見ても興味を全く示さないティナリアに、さすがのアリスも今回ばかりはドレスだなんだと騒ぐ気にはなれなかった。
 逆にそんなものをティナリアに見せるな、と叫びだしてしまいそうだ。
「アリスに任せるわ」
 だが、ティナリアはそんなアリスにただそれだけを言うと部屋から出ていった。
 ストールを羽織って外に出ると、まだ肌寒い風が吹く海辺を歩いていく。自分の足が砂を踏む音と波の音だけが聞こえてくる。
 砂に足をとられそうになりながらも一歩一歩、ゆっくりと進んでいく。そしてある場所まで来るとピタリと足を止めた。一年前の誕生日、アレンと幸せな約束を交わしたあの場所だ。
 幸せだった。幸せになると信じていた。
 けれど、あの幸せな瞬間からたったの一年後、ティナリアは幸せとは掛け離れた気持ちを抱いて生まれ育ったこの島を出て王都に赴いていく。
 アレンではない別の男の妻になるために。
 島を出たいと願っていた。だけどこんな形でなど望んでいなかった。
「……アレン…」
 ティナリアの震えるような小さな声は海の音にかき消されていく。涙はもう出ない。
 しばらくその場に立ち尽くしたままだったが、何かの覚悟を決めるかのように一度しっかりと瞳を閉じると、ゆっくり屋敷へと戻って行った。




 それから数日して結婚式の一週間前。ティナリアはクロード家の屋敷に入るため、ついに島を出る時がやってきた。
 一度嫁いでしまえば今までのように簡単に帰ってこられるわけではない。普通なら感傷に浸ることもあるのだろうが、今のティナリアには小さくなっていく島に何の感情も湧いてこなかった。
 無言のまま、ただじっとアレンとの思い出の詰まった故郷の島を見つめているだけだった。
「お寂しいですか?」
 たった一人、付き人として連れてきたアリスが躊躇いがちに聞いてきた。
 ティナリアは首を横に振るとアリスの目を見た。真正面からアリスの瞳を見たのはいつ以来だっただろう、と思いながら言葉を発する。
「……寂しくはないわ」
「もうしばらくは戻ってくることも叶わないですね」
「そうね」
 もし、一つだけ心残りがあるとすればもう海がすぐには見られなくなってしまうということかもしれない。
 ティナリアは海が好きだった。
 きらきらと輝きながら果てしなく広がる大海原。自分の未来もきっとこんな風に広がっているのだ、とそう思える海が好きだった。
 だが、それももう見ることは出来ない。
 ティナリアの未来は運命という荒波に飲み込まれ、陽の光の届かない、暗く深い底に沈んでしまった。
 そんな感傷に浸っていると不意に温かなものがティナリアの手を優しく包み込んだ。顔をあげてみればアリスが真っ直ぐにこちらを見つめ、手を握っている。
「ティナリア様……私はずっとおそばにおります」
 アリスのその言葉にティナリアは少しだけ俯き、小さな頃から側にあった温かい手をきゅっと握り返した。
「……ありがとう…」
 小さな声で答えたティナリアがアリスには泣いているように見えた。




 港に着くとすぐに馬車に乗り込み、一行はクロード家に向かった。
 ガタガタと揺れる車内から外を眺めてみるが、夜会に出席するために来た時のような感動は何もなかった。隣に座っているアリスもそんなティナリアの気持ちを察したのか、静かに目を伏せている。
 ようやく着いた頃にはすでに陽は落ち、辺りは薄暗くなっていた。
「ようこそ、ティナリア嬢。長旅で疲れただろう、中に入って休むといい」
 クロード家のエントランスに入るとすぐにルークが出迎えにやってきた。使用人に荷物を運ばせると、自らティナリアを部屋に案内する。
 目的の場所に着くとルークは扉を開け、ティナリアに入るように手で促した。中は落ち着いた色合いの広い部屋で、重厚な造りの家具が置かれている。
「これからはここがあなたの部屋だ」
「恐れ入ります」
 それだけを言うとティナリアは相変わらず目を伏せたまま、ルークが部屋から出て行くのを待った。が、いつまでたっても彼がその場を去る気配はない。
 それどころかまじまじとティナリアの顔を見つめている。
「……何か?」
 怪訝に思ったティナリアは視線を上げると、思いきってルークに尋ねてみた。すると彼は口元に笑みを浮かべ、言った。
「先日から一度も笑顔を見せてくれていないと思ってね」
 口元は笑んでいるが、その瞳は笑っていないように見える。ルークの試すような視線にティナリアはなんとなく逃げるように顔を背けた。
「……それが何か?」
「いや、別に」
 淡々とした会話が続く。顔を背けたままでいても感じる彼の視線の居心地悪さに、ティナリアは思わず心の内にあるものを言葉として吐き出していた。
「私は」
「………」
「私はこの婚姻を望んだわけではありません」
 黙って聞いているルークに、ティナリアはさらに言葉を続けた。
「だから………あなたを愛することはありません。あなたに愛されたいとも思わない」
「なるほど。だから笑顔を見せる必要もない、と。これはずいぶんと手厳しいお言葉だ」
 ルークの口から乾いた笑い声が零れる。ゆっくりと近付いてくる彼の表情が険しくなっていることにティナリアはまだ気付いていない。
 ティナリアはそばまで来た彼に顎を乱暴に掴まれ、背けていた顔をぐいっとルークの方に向けさせられた。
「……なっ…」
「愛することはない?愛されたいとも思わない?それは奇遇だな、俺も可愛げのない女はお断りだ。好きにすればいい」
 文句を言おうとしたティナリアを遮り、冷たく鋭い視線を彼女に投げ付ける。ルークの不機嫌そうな声はまだ続いた。
「だが、妻としての務めは果たしてもらう。いいな」
 ルークの射るような視線にも命令口調にも動じず、ティナリアは顎にかかった彼の手を払いのけた。パシッと小さな音が部屋に響く。
「……触らないで」
「はっ、本当に可愛くない小娘だ。まあいい、式の当日くらいは幸せな花嫁の姿でも装ってくれよ」
 そう言い捨てるとルークは振り向きもせずに部屋を出ていった。
 バタンと扉が閉まる音を聞き、ティナリアはため息をついた。一人残された部屋でぽつりと呟く。
「……幸せな……花嫁…」
 ルークの投げ捨てた言葉が耳に残った。
 それを頭の隅に追いやり、ティナリアは品のいいレースのカーテンがかかった窓に目を向けた。ランプに照らされて暗闇に浮かび上がったのは見慣れた海ではなく、青々とした葉を茂らせた木々だった。
 ここに来るまでの数ヶ月、ティナリアは幽閉されているようなものだった。そして、ここでもきっと自由など与えられることはない。

―― 閉じ込められる場所が変わっただけ…… ――

 そう思うことでティナリアは自分の心を守ろうとした。張りつめた心をほんの少しでも緩めてしまえば、おそらくあっという間に崩れてしまうだろう。
 そしてその日の夜、部屋に来たアリスが心配そうに尋ねてきた。
「ルーク様もこの婚姻を快く思っていらっしゃらないのでしょうか」
 どうやら夕食の時の冷めた空気が気になったらしい。確かに二人が言葉を交わしたのは数えるほどであった。
「どうかしら。単に私が気に入らないだけでしょう」
 ティナリアは少しだけ首を傾げながらそう言った。自分に向けられたあの冷たい視線が思い出される。
「そんな……ティナリア様を気に入らないだなんて…」
「いいのよ。そういう風に仕向けたのは私だから」

―― そう、思いきり嫌えばいい……そうして早く私を解放して… ――

 嫌われれば嫌われるほど、ルークは近付いてこないだろう。そうなれば夫婦としての責務も果たせず、いつか離縁の話が出てくるはずだ。それこそがティナリアの目的だった。
 そう思いながらティナリアは無意識のうちに胸元に手を当てる。
 ぎゅっと握りしめたそこには、アレンからもらった大切なあの碧い指輪がしまい込まれていた。




"あなたを愛することはありません。あなたに愛されたいとも思わない"

 夕食を終え、自室に戻ったルークの頭の中に無機質なティナリアの声が響いた。
「なんなんだ……あの女は…」
 夕食の時も一度たりとも自分の方を見ず、会話らしい会話もなかった。
 ルーク自身、この婚姻に乗り気ではなかったものの、ああまで否定されるとなぜか無性に腹が立つ。ルークは苛々としながらベッドに身を投げ出した。
 ひと眠りしようかと思ったところにノックの音が聞こえてくる。
「なんだ」
「ルーク様、ティナリア様のところへ行かなくてよろしいのですか?」
 アリスと同い年くらいだろうか、金髪の青年が扉の隙間からひょっこり顔をのぞかせた。
「知らん」
 青年は不機嫌なルークの言葉にもめげず、むしろ腰に手を当てて小言を言う体制をとった。
「いけませんよ。ティナリア様はルーク様の奥方になられるのですからお優しくして差し上げませんと」
「相変わらずうるさいな、ジル。向こうがいらんと言ったのだ」
 ジルと呼ばれた青年は仕方がない、というように小さくため息をついた。
「ルーク様は短気でいけませんね。もう少し……」
「うるさい」
 ルークはジルの言葉を遮ると、彼に背を向けた。その背中に向かってジルが続ける。
「きっとまだいらしたばかりで心細いのですよ」
 その言葉にルークは背を向けたまま、ハッと嘲るように笑った。
「ですからもっと……」
「寝る」
 ルークが再度ジルの言葉を遮った。有無を言わさぬ雰囲気がその背中から漂っている。
「……お休みなさいませ」
 ジルは肩を竦め、呆れたようにそう言うと部屋を出ていった。
 一人きりになった静かな部屋の中で思い出されるのは全身で拒絶を示したティナリアの姿。
 無機質な冷たい声。人形のような無表情。振り払った小さな白い手。
「心細いなど……あんなもの、どう見たって俺を嫌っている態度だろうが」
 それらを思い出すだけで苛立ちはますます募り、ルークの胸の中に意地の悪い感情が膨れ上がってくる。

―― 向こうが拒絶したんだ。優しくしてやる必要なんてないだろう…… ――

 頭ではティナリアは別人だと分かっているのに、どうしてもあの娘と重ねてしまう自分がいた。そしてあまりに違いすぎるティナリアの態度にいちいち腹を立てているのだ。
 思い通りにならないことに癇癪を起こす子供のようだ、と自分でも呆れてしまう。
 ルークは気持ちを落ち着かせるように深く息をつくと、眠れそうもないのにその瞳をしっかりと閉じた。




 婚礼の日はもうすぐそこまで迫っていた。
 ティナリアは無。ルークは苛立ち。
 それぞれの感情を胸に抱いたまま、刻一刻と時間だけが過ぎていった。






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