「ティナリア、準備は出来たか」
ノックのあと、ウォレスが部屋に入ってくる。王都にあるタウンハウスに着いたのは昨日のことだった。長く苦痛に感じていた一日一日もいつの間にか過ぎていき、とうとう名前しか知らない婚約者との顔合わせの日を迎えていた。
ティナリアはあれから少し痩せ、バラのようだった頬も色を失っていまでは雪のように白くなっている。美しさは健在だがその姿は儚げで、触れたら消えてしまいそうだ。
返事もなくゆっくりと立ち上がったティナリアの後ろ姿をアリスが心配そうに見守る。
全ての用意を整えたティナリアはウォレスと共に馬車に乗り込むと、クロード家の屋敷に向かって出発した。馬車の中は交わす言葉もなく、重苦しい空気が漂っている。
「……お前は私を憎んでいるのだろうな…」
ウォレスが独り言のようにぼそっと呟いた。ティナリアは窓の外に視線を向けて返事をしない。
その一言の会話すら続かず、また沈黙が訪れた。その状態のまま、小一時間ほど揺られたのだろうか、馬の嘶きとともに馬車は静かに停止した。
先にウォレスが降り、残されたティナリアに手を差し伸べる。一瞬躊躇ってからその手をとって馬車から降りると、目の前には立派な屋敷がそびえ立っていた。
「ここがクロード総督のお屋敷だ」
そう言うとウォレスは玄関に向かって歩き出し、ティナリアはそのあとを黙ってついていく。
歩き出すと身に纏った薄紅色のドレスが風に揺れた。初めての夜会でアリスが懸命に選んでくれたあのドレスだ。
あのときはあんなにも楽しい気持ちで着ていたのに、いまはただ重たく、息苦しいだけだ。あのときの気持ちも全てが遠い過去のようで靄がかかったように感じられる。
―― いつか……必ず… ――
ティナリアはそっと瞳を閉じた。
そして再び瞳を開いたとき、そこにはかつてその顔に浮かんでいた愛らしい表情の一切が消えた、ただ美しいだけの人形のような彼女の姿があった。
屋敷に入ると広々としたエントランスが広がっていた。ホール全体に華美にならない程度の装飾が施され、品の良さが漂っている。しかし、ティナリアはそれらを見ようとはせず、ただ黙ってウォレスの後ろについているだけだった。
そうしてしばらくすると、奥から少し恰幅のいい壮年の男が現れた。
「遠いところようこそおいで下さいました、ローレン卿」
クロード総督家、現当主ベネット=ハンス=クロードである。威厳のあるその顔に穏やかな笑みが浮かんでいる。
「これはクロード総督閣下、お招き頂き光栄でございます」
ウォレスはベネットに深く頭を下げ、丁寧に挨拶を交わした。
「これが娘のティナリアです」
ベネットが後ろに立っていたティナリアに視線を向けると、ティナリアは一歩前に出てドレスをつまんでお辞儀をする。
「……ティナリア=ヴァン=ローレンと申します」
透き通る小さな声でそう言ったティナリアは顔を上げてからも伏し目がちにしたままだったが、総督はティナリアの顔を見て、思わず感嘆の声を漏らした。
「これは……聞きしに勝る美しさですな」
「まだ小娘ですよ」
目を丸くしたベネットに向けてウォレスは少しだけ自慢気な声で、しかし軽く否定してみせた。
「ああ、こんなところに立たせたままで申し訳ない。こちらにどうぞ」
ベネットは思い出したように二人の前に立って案内をし始めた。
そのあとについて広い屋敷の中を一歩進むごとに、ティナリアの心は少しずつ麻痺していくかのように何も感じなくなっていった。
―― これでいい……何も思わなければ苦しいこともない……悲しいことも…… ――
案内された部屋に入ると、その中央には綺麗に飾り付けられた長い食卓が置いてあった。その上にある蝋燭と壁に掛けられたランプの光がゆらゆらと揺れ、柔らかく部屋を照らしていた。
ふと、その光の中に一人の男の後ろ姿がティナリアの視界の端に映った。窓際に立つその男はすらりとした長身で、ランプの光にあたっても透けることのない漆黒の髪を後ろでひとつにまとめている。
ティナリアがそちらに目をやったとき、その男が振り向いた。そしてティナリアの姿をとらえた瞬間、彼の瞳は驚いたように大きく見開かれた。
「ルーク、もう来ていたのか」
ベネットの声にはっとしてルークと呼ばれたその男はティナリアから目を離した。
「……ええ、思ったよりも早くに仕事が終わりましたので」
動揺したのをうまく隠してにこやかに微笑みながら、もう一度ちらりとティナリアに視線を向けた。
―― まさか……な… ――
「ローレン卿、こちらが息子のルークです」
「はじめまして、ローレン卿。ルーク=レイ=クロードと申します」
低く、心地いい声が部屋に響く。
「では皆が揃ったことだ。少し早いが晩餐にしよう」
そう言ってベネットは執事に声をかける。
恭しく頭を下げたその執事は部屋の奥に消えていった。
ルークはぐるりとテーブルをまわってティナリアのもとに行くと、さりげなくその椅子を引いた。
「どうぞ」
「………」
黙ったまま、ティナリアは引かれた椅子に静かに座った。ルークもティナリアの目の前に用意された自分の席に座る。
全員が着席すると、次々と料理が並べられ、ベネットはワインが注がれたグラスを目の高さに持ち上げると朗々と乾杯の声を上げた。
「ローレン家と我がクロード家の未来に」
その声に皆がグラスを持ち上げた。ティナリアもまたグラスを掲げたが、その視線は伏せられたままだった。
「では改めて紹介しよう。ルーク、こちらがお前の婚約者、ティナリア=ヴァン=ローレン嬢だ」
「……ティナリア=ヴァン=ローレンと申します」
頭を軽く下げたティナリアのその声は、全く温度の感じられないものだった。
「ルーク=レイ=クロードと申します。こんな美しい人を娶ることが出来るとは私は幸せ者ですね」
一度も視線を上げないティナリアに向かってにこりと微笑むと、彼女が僅かに顔を横に背けたような気がした。ルークはその態度に少しむっとしたが、顔には出さず笑顔を保つ。
「申し訳ない、娘は少々恥ずかしがり屋でして」
「いえ、女性はそのくらいのほうが」
苦笑いのウォレスに軽く返したルークは、食事が始まってからも目の前に座るティナリアの顔をじっと見つめ、そして何とも言えない違和感を感じていた。
―― これが "華の乙女"? ――
確かに美しいが、これではまるで人形のようだ。外見がどれほど美しくてもこのような女性が "華の乙女" と騒がれるであろうか、とルークは訝しがった。
「ルーク、そんなに見つめてはティナリア嬢が顔を上げられないであろう」
笑いながら冗談交じりに言ったベネットの言葉にルークも笑って誤魔化す。
「あまり美しいものですからつい見とれてしまいました」
その一言にウォレスとベネットは笑っていたが、ティナリアだけは相変わらず無言で目を伏せている。彼女がこの屋敷に来てから発した言葉は自分の名前だけであった。
―― それにしても似ている……だが… ――
部屋に入ってきたティナリアを見たその瞬間から、ルークの頭の中には四ヶ月近く前に街で助けた娘の姿が思い浮かんでいた。
夜の街で出会った表情が豊かで、可愛らしい嘘をついたあの美しい娘。ルークはあの日からふとした拍子に思い出してはもう一度会いたいと思っていた。
いま目の前にいる女性はその娘にあまりにも似ていた。しかし、ルークにはどうしても同じ人物だとは思えなかった。
あの娘に比べたらティナリアはまるで表情がない。緊張しているとかそういうものではなく、感情が欠落しているようだった。
―― 似ているだけ……か… ――
ルークはティナリアから視線を外すと目の前に用意された食事に手をつけた。
横ではウォレスとベネットが今後のことについて話し込んでいる。ティナリアもそしてルークも、それをまるで他人事のように聞きながら淡々と食事をし終えた。
婚約話を詰めるために別室に移動したあと、ルークはずっとティナリアの近くにいたが、会話もなく視線を合わそうとすらしない彼女を持て余していた。
もともとルークもこの婚姻には乗り気ではなかった上、いくらあの娘に似ているからといってもこんなに愛想のない女が妻になると思うと先が思いやられる。
ルークはそう思いながらも横目で気付かれないようにティナリアを見つめた。
金色の髪も、透けるような白い肌もよく似ている。でもあの娘の頬は薄い薔薇色をしていたが、ティナリアは血が通っていないのかと思うほど青白い。伏し目がちなところも違っていた。
そうしてしばらく観察していたが、ずっとじろじろ見るわけにもいかない。
ルークが視線の置きどころに困って、仕方なしにテーブルの上に置かれたティーカップをじっと見つめていると、ガチャッと音がしてウォレスとベネットが入ってきた。
「では二人の挙式はティナリア嬢の十七歳の誕生日ということでよろしいですな」
「ええ」
二人の話し合いで最終的にそうまとまり、互いに握手を交わしてその日の晩餐は終わった。
エントランスを出るとローレン家の馬車がすでに待機していた。ルークはティナリアが馬車に乗るために支えてやろうと手を差し出したが、彼女はちらりと見ただけでいつまでもその手を取ろうとしない。
業を煮やしたルークが自らティナリアの手をとる。しっとりとした肌の感触にふと思いついて、その滑らかな甲に唇を落とした。
ティナリアの白い手がぴくっと震えたが、その顔からはやはり何の感情も読み取ることが出来なかった。
そのまま馬車に乗り込ませるとルークは一歩下がって馬車が見えなくなるまで見送った。
「あれが俺の婚約者……か…」
会いたいと思っていた娘によく似た、しかしあの娘とは正反対の人形のような婚約者。あと半年もすれば自分の妻となる女性。
―― どうせならあの娘であればよかったのに…… ――
そう思ってからルークはふっと自分の考えに苦笑して部屋に戻っていった。
タウンハウスへと向かう馬車の中でティナリアは頭の中を空にしたままじっと空に浮かぶ月を見ていた。
何も考えない。何も感じない。それはティナリアが自分を守るために行った本能の行動だった。だが、その中でふと引っかかるものがあった。
―― あの声…… ――
ルークの低い声が耳に響いた。
どこかで聞いたことがある声だと思ったけれど、どこで聞いたのか思い出せない。だけど、何故か心がかき乱されるような気がした。
帰り際に落とされたあの口付けの柔らかな感触もまだ手の甲に残っている。
ティナリアは目を閉じてそれらを頭の中から追い出した。
―― どうでもいい……関係ないわ… ――
「ティナリア、もう少し愛想よく出来ないのか」
しばらくしてウォレスの不機嫌な声が聞こえてきた。
「……情が関係ないというのなら愛想も関係ないのではありませんか」
ティナリアの言葉は以前ウォレス自身が言ったことだった。冷たく淡々と返すティナリアに深く息を吐くともうそれ以上口を出さず、来た時と同じように黙ったまま馬車に揺られていった。
タウンハウスに着くとすぐにアリスが迎えに出てきた。心配そうな表情が一目で見てとれる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
部屋で着替えを手伝ってもらっているとアリスがおずおずと口を開いた。
「ティナリア様……いかがでしたか…?」
「……式は来年の私の誕生日ですって」
アリスと目を合わせないまま小さな声で報告する。
「そう……ですか…」
その言葉を最後に部屋はしんと静まり返った。
何も考えない。何も感じない。
それなのにティナリアは疲れ切っていた。全身がだるくて仕方がない。早めに休むと言ってアリスを部屋から出すと、ティナリアはベッドの上に横になった。
目を閉じて暗闇に一人きりになるとなんとも言い難い感情に襲われた。
―― このまま目が覚めなければいいのに…… ――
そう思いながらティナリアはいつの間にか眠りの世界に落ちていった。