「……アレン……アレン…」
 小さな声でその名を呼ぶ。が、返事はなかった。

―― まだ来てないのかしら……それともやっぱり… ――

 そこまで考えたところでアレンの声が耳に届いた。
「ティナ、こっちだ」
「アレン!」
 ティナリアはその姿を見て駆け寄っていく。
 さっきまで胸を締め付けていた不安はアレンの腕の中に飛び込んだ瞬間に溶けてなくなった。この腕さえあれば不安に思うことなど一つもない、そう思えた。
「よかった……来てくれたのね…」
 涙の浮かんだ瞳で見上げれば、アレンは優しく微笑んで彼女の頬にそっとキスを落とした。
「当り前だろう。さあ、ゆっくりはしていられない。あっちに船を用意してあるから」
 アレンの手が肩に回され、ティナリアは歩き始めた。砂を踏む音と波の音だけが二人を包む。まるでこの世界に二人しかいないような錯覚を起こしてしまいそうだ。
 しかし、後ろからゆっくりと彼らに近付く人影があった。
「ティナリア、どこへ行くんだ?」
 その低い、威厳に満ちた声にティナリアはびくっと肩を震わせてその場に凍りついた。
「アレン君、こんな時間に連れ出すとは少々常識外れではないかね」
 ゆっくりと振り向くティナリアの目に映ったのは腕組みをしながらじっとこちらを見ているウォレスと、その傍らに立っているパーシェと警備兵の姿だった。
「……お父…様…」
 波の音にかき消されてしまいそうなほど小さく震えた声。アレンは護るようにしてその背にティナリアを隠した。
「ティナリア、こちらへ戻って来なさい」
「……嫌です……私はクロード家になんて嫁ぎません…」
「まだそんな我儘わがままを言っているのか」
 ウォレスの深いため息が聞こえてくる。それでもティナリアはアレンの外套を掴んだまま、頑としてそこから動こうとしなかった。
「我儘なんかじゃない!愛してる人のそばに居たいだけなの!」
「それが我儘だと言っているんだ」
 そう言ってウォレスは一度目を閉じると、俯いたティナリアからアレンに視線を移した。射るような視線にアレンは思わず足が竦みそうになる。
「アレン君、君は跡取りではなかったかな?お父上には……」
「関係ありません。ただ……ただティナと共に生きていきたいだけです」
 アレンはウォレスの威圧感に負けないように、しっかりとその目を見つめ、強い口調で言い返した。
「……そこまで娘を想ってくれるのは有難いが、連れていかせる訳にはいかんのだよ」
 ウォレスが僅かに手を上げると、いままで黙っていたパーシェが警備兵を連れて二人のもとに歩いていく。アレンの目の前に立ち、冷たい視線を落とした。
「ティグス様、ティナリア様をお放し下さい」
「彼女はこの婚姻を望んでなどいない!」
 背の高いパーシェを少し見上げるようにアレンは叫んだ。
「……ウォレス様のご意思です」
 静かにそう言った直後、鈍い音がしたと思うとアレンが呻き声をあげて膝から崩れ落ちていった。
「……っ…う…」
「いやぁ!アレン!!」
 ティナリアはがばっとアレンに覆いかぶさって警備兵からの二撃目を防いだ。
 そんな彼女をパーシェは容赦なくアレンから引きはがす。ティナリアがいくら暴れたところで彼の腕はびくともせず、呆気なくウォレスのもとに運ばれてしまった。
「さあ、戻るぞ」
「嫌っ!放して!アレン!!」
 ウォレスにしっかりと掴まれた肩を振りほどけずに、顔だけをアレンに向ける。
 思い切り強烈な一撃を鳩尾にくらったアレンは、苦しそうに息をしながらも砂に塗れた顔を上げてウォレスに懇願した。
「……ティ…ナ……お願いします…ウォレス…様……ティナを…」
 ウォレスは一度だけアレンに視線を戻した。
「アレン君、二度とティナリアの前に現れないでくれ」
 それだけを冷たく言い捨てるとティナリアの肩を引いて屋敷へと歩いて行った。
「…いやあっ……アレン……アレン!!」
 悲痛な叫び声が夜の海に響き、ティナリアの瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。アレンの姿も、まわりの景色も、涙で滲んでもうなにも見えなくなっていた。
「……ティナ!必ず迎えに行くから待っ……っ…」
 アレンの言葉は再び打ち込まれた拳によって途切れてしまった。苦しそうにむせ返るアレンに向かってパーシェは機械のように冷静な声で告げる。
「ティナリア様を想うのであれば、二度とお近付きにならないで下さい」
「……ティ…ナ……」
 意識が朦朧として蹲ったままのアレンを警備兵が担ぎ上げ、パーシェと共に船に向かう。パーシェは中にいた数名の乗組員に話をつけ、アレンを引き取らせるとすぐに船を出航させた。
 ティナリアが望み、アレンが願った未来は潰え、船は彼一人を乗せて静かに島から離れていった。




 アレンと引き離されてから二週間が過ぎてもティナリアの時間はあの夜から動くことはなかった。
 あの夜、屋敷に連れ戻されたティナリアは部屋に入れられ、そこから船が遠ざかっていくのを黙って見ていた。涙でぼやけた視界の中、その船はついに見えなくなってしまった。
 そのあとも体中の水分がなくなってしまうんじゃないかと思うほど涙を流した。いくら泣いて涙が枯れることはなく、はらはらと音もなく落ちていくばかりだった。
 アレンがいなくなってしまった今、ティナリアはまるで真っ暗な穴に一人落ちてしまったようにその場から動けず、立ち尽くしてしまっていた。
 そしてウォレスはそんな彼女をより厳しい監視の下に置き、ほとんど幽閉に近い状態で屋敷に留めた。逃げ出す気力もなくなってしまったのか、ティナリアは自ら部屋に閉じこもり、誰とも顔を合わせようとしなかった。
 ただ一人、アリスのみが部屋に入ることを許されたが、そのアリスにすら話しかけることもせず、ティナリアは日を追うごとに衰弱していくようだった。
「ティナリア様、今日はお天気がよろしいですよ。お散歩に……」
「………」
 アリスはあえて明るい声でそう言ったが、ティナリアの反応は全くなかった。反応がないどころかアリスのほうを見向きもしない。
 以前の彼女ならば無反応でいることなどあり得なかった。明るいその笑顔でアリスの手を引き、外へと飛び出していたであろう。
「……ティナリア様…」
 目を伏せたままぴくりとも動かないティナリアに視線を向けると、アリスもまた悲しそうに視線を落とした。

―― このままではティナリア様があまりにも…… ――

 あの夜、別れを告げたティナリアが部屋に連れ戻された時の泣き崩れる姿がアリスの頭をかすめた。
 アリスはキュッと唇を結ぶと、ティナリアの部屋をあとにしてウォレスの部屋へと歩調を速めた。その威圧的な扉の前で深呼吸を数回繰り返すと、震える手で遠慮がちにノックをする。
「入れ」
 ウォレスの声が聞こえてくる。アリスは恐る恐るその扉を開き、中へ入っていった。
「し、失礼致します」
 いくらティナリア付きの侍女といえども、主と直接話をすることなど滅多になかった。緊張で握りしめた手のひらがしっとりと汗ばんでくる。
「何の用だ」
 ちらっと顔を上げてアリスを認めると、ウォレスはまた机の書類に視線を落とす。アリスはドアからすぐのところに立ったまま息を吸い込むと、震えそうになるのを抑えながら声を出した。
「ウォレス様、ティナリア様を自由にして差し上げて下さいませ」
 その言葉にウォレスが鋭い視線をアリスに向ける。アリスはその視線に身を竦ませ、思わず俯いた。
「お前が口出しをすることではない」
 ウォレスはその一言で冷たく切り捨てる。
「しかし、あのままではティナリア様が……せめて監視を緩めて下さいませんか」
 それでも食い下がるアリスに、ウォレスはため息をついた。
「アリス。ティナリアに免じて今回のことは許した」
 あの日、アリスが逃げ出したティナリアを止めることもせず、その背を押したことをパーシェの報告でウォレスは知っていた。
 本来ならば即刻、屋敷から追い出されていたであろう。しかし、幼いころから付き従っていたアリスまで取り上げるのはさすがに忍びないと思い、ティナリアの為に免除したのだ。
「………」
 アリスは言葉に詰まって黙り込んだ。
「だが、二度目はない。金輪際、この件について口を出すな」
 アリスはウォレスの迫力に気圧され、何も言い返すことが出来ずに頭を下げるとすごすごと退室した。
 何も出来ない自分が悔しくて、歯痒くて、せめてその瞳にあふれる涙が落ちないように堪えながら広い廊下を歩いていった。

 
 
 
 ティナリアはアリスが出て行ったあと、明るい日差しが燦々さんさんと入り込む窓に目をやった。アリスが言っていたように天気がよく、空は晴れ渡り、澄み切った青が広がっている。
 それなのにティナリアのその瞳にはそれらがひとつも映っていなかった。太陽の暖かさも、風の心地よさもいまは何も感じられない。
 目を閉じればあの夜の倒れたアレンの姿が鮮明に脳裏に浮かんでくる。怪我の程度もどうだったのか分からない状況で、ティナリアはアレンのことだけを考えていた。

―― 私のせいで…… ――

 自分が無茶を言ったせいでアレンは傷つき、倒れた。そしておそらく二度と会うことすら叶わなくなってしまっただろう。
 ティナリアが頭を抱え、自己嫌悪に陥ったそのとき、ノックの音が響いて誰かが入ってくる気配がした。それでも腕に顔を埋めたまま、ティナリアは振り向きもしなかった。
「ティナリア様、またお食事を召し上がられていないのですか」
 パーシェの高くもなく低くもない落ち着いた声がティナリアの耳に届いた。朝に持ってきた食事は全て手つかずのまま冷めきっている。カチャカチャとそれらを下げる音だけがやけに大きく部屋の中に響いた。
「このままではお体を壊します。少しでよろしいですので召し上がって下さい」
 そう言ってパーシェは持ってきた昼食をティナリアの目の前のテーブルに置いた。湯気の立ったスープの香りがふわっと広がる。
「……出てって…」
 ティナリアの口から久々に出たその声は、少し掠れて弱々しく聞こえる。
「召し上がられるまでここにおります。ウォレス様からのご命令ですので」
 淡々と言うパーシェの言葉にティナリアは苛立ちを隠し切れず、ようやく顔を上げると彼と視線を合わせた。
「出てってと言っているでしょう」
 突き放したような言い方でパーシェを睨みつける。
 ティナリアはあの日、自分をウォレスのもとへと引き戻したパーシェが許せなかった。
 ウォレスの命令だと頭では分かっていても心がそれを否定し、誰でも彼でも憎みたい真っ黒な感情が胸の中に渦巻いていた。
「ティナリア様」
「出てって!!」
 泣きそうな叫び声にティナリアのそばに寄ろうとしたパーシェの足が止まる。いつも無表情なパーシェの顔に一瞬だけ辛そうな表情が浮かんだ。
 ティナリアはその表情にハッとしてパーシェから目を逸らした。
「……お食事は置いておきます。どうか少しでも召し上がって下さい」
 それだけ言うとパーシェはその部屋をあとにした。部屋の中にまた静寂が訪れる。
 初めて見せた彼の表情にティナリアは若干戸惑ったが、憎しみで満ちている感情の中でそれはあっという間に消えていった。
 ティナリアはもう一度、窓の外に視線を向けた。

"必ず迎えに行くから待っ……"

 アレンが言った最後の一言。途切れ途切れにティナリアの耳に届いた言葉。
 きっと無理なことだと分かっている。だけどいまはそれを信じて待っていたかった。

―― アレン…… ――

 そっと目を閉じると幸せだった頃が蘇り、涙が一筋、その白い頬を流れて落ちた。






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