真っ白な神殿の廊下を美雨は顔を洗おうと手洗い場に向かって歩いていた。
この世界————ラーグに来てからすでに十日が経っていた。空は相変わらず闇に覆われてどんよりと暗く、朝なのか夜なのかさえ曖昧にさせる。
突き当りの角を曲がってすぐにある目的地に着くと、持ってきたタオルを横に置いて顔を洗った。冷たい水が肌に当たり、まだ覚め切っていなかった意識がはっきりと覚醒する。
タオルで濡れた顔を拭きながら顔を上げた美雨は不意に鏡に映った自分の顔を見て、ふう、と小さく息を吐いた。
―— ほんと……顔だけはそっくり… ―—
そこには美陽と同じ顔が冴えない表情をして映っていた。いつも明るく輝いていた美陽の瞳を思い出し、美雨は鏡に映る自分の瞳にそっと触れた。
冷たいガラスの感触だけが指先に伝わってくる。
「……美陽…」
美雨は小さな声でその名前を呟いた。
この十日間、美雨は外に出ることもなく、神殿の中に与えられた部屋とその周辺を歩くことしか出来なかった為、否応なしに考える時間が出来てしまった。
初めのうち頭の中を占めていたのは美陽や両親のことだった。
自分が消えてしまったことで彼らに心配をかけているのではないか、いや、心配なんてしていないんじゃないか、とそればかりが堂々巡りに浮かんでいた。
しかし、時間が経ち精神的にも落ち着きが出てくると、どうして美陽が元の世界に戻り、代わりのように自分がこの世界へ来たのか、その疑問が浮かび上がってきた。
そもそも何故自分たち二人がこんな目に遭っているのか、という苛立ちも覚えたが、それでも考えていくうちにひとつの仮説に思い当たった。
あっているのかどうかも定かではないただの仮説だが、何もわからないよりは
幾許かマシだと思えた。
そうして混乱していた頭の中がある程度まで整理されると、やがて考えることはこの世界でどうやって生きていくか、ということに変わった。
戻る方法を考えなかったわけではない。だが何故だか分からないがそれは無理なのだ、という思いの方が強く早々に諦めていた。そうなれば戻ることが出来ない以上、この世界で暮らしていくより他はない。
アヴァードから聞いたお伽噺のような話以外にここがどういう世界で、どんな人々がいて、どんな暮らしをしているのか、それすらも分からない。そんな状態で外に放り出されれば生きていくのは困難だろう。
生きることに執着しているわけではない。だが、こんな異世界に来てわけも分からないまま死ぬつもりも毛頭なかった。
それに例の仮説が正しければ美雨にはしなくてはならないことがあった。
考え抜いて出した結論を思い出し、美雨は小さくため息を吐いた。
―— こうする以外、どうしようもない…… ―—
ともすれば弱りそうになる自分の心に言い聞かせるように強く思った。
美雨はきゅっと唇を結ぶと、もう一度鏡に向き直った。妹と同じ顔を見つめ、その人に話しかけるように口を開く。
「……そっちのことはよろしくね」
そう言って美雨はするりと鏡から手を離し、静かにその場を立ち去った。
部屋に戻ると美雨はこの世界にやって来た時の服を身に
纏った。
ゆったりとしたドルマンニットにオフホワイトのロングスカート。どちらも特別気に入っていたわけではない。それでもこれを着るのも最後だと思うだけで何故かやけに懐かしく大切に感じる。
美雨は鏡の前でくるりと回るとその姿を記憶に留めた。
よし、と心の中で呟くと、美雨は扉を開けて隣の部屋へと向かった。一度だけ深く息を吸い込み、その手で目の前にある扉を叩いた。
「はい」
中からくぐもった声が答える。
「美雨です」
一息置いてから美雨が答えると数秒後、すぐに扉が開いた。
「どうした?」
そう言いながら出て来た男は美雨よりも頭一つ分以上も上に顔があった。金髪の短い髪が引き立たせている精悍な顔立ちを見上げ、美雨は手短に要件を告げた。
「あの、アヴァード様とお話がしたいんですが」
「分かった、案内しよう」
彼は深い緑色の瞳を柔らかく細めながらそう言うと、美雨の前に立って廊下を歩き出した。
その背中を追って歩を進めていくうちに美雨の頬に少し冷たい風が当たった。ふと周りを見れば吹き抜けになって開けた場所に出ており、その先にあった建物に目が留まった。
―— 何だろう…… ―—
見覚えがあるような、ないような、そんな気がして美雨は思わず足を止めた。数歩先を歩いていた男は美雨がついて来ていないことに気付き、彼女のそばに戻ってくる。
「どうした?」
「………」
その声に目を合わせたものの、美雨は黙ったまますぐに視線を戻した。その視線を追った彼は納得したようにああ、と小さく頷いた。
「覚えてるのか?」
彼の問いに美雨は首を傾げた。首を横に振るには覚えがある気がするし、縦に振るほどには覚えがなさすぎる。
そんな彼女を見て男は口を開いた。
「あなたが現れた場所だ。"
白花の
社" と呼ばれている」
「……私が…?」
その言葉に美雨はゆっくりと辺りを見回した。そう言われればそれが、というわけではないが周りの風景には薄っすらと見覚えがある気がする。
「そうだ」
―— 白花の……社… ―—
その名前にあの日見た白い花を思い出す。どこかから切り取ってきたように部屋の中に咲いていたのは可憐な白い花だった。
「社のことも気になるだろうが、今はアヴァード様に会うのが先だろう?」
思いを巡らせていた美雨は彼の言葉にハッとして素直に頷いた。
自分がこの世界に現れた場所というのも確かに気になるところだが、それよりも今は彼の言う通りアヴァードに会うことのほうが先決だ。決心が鈍らないうちに彼に話さなければならないことがある。
「では行こう」
そう言って踵を返して再び歩き始めた彼の後について美雨もまた歩き出した。
ようやく大きな扉の前で足を止めると、彼は軽くそれを叩いた。静かな廊下にノックの音が響く。
「誰かの」
中からアヴァードの声が聞こえる。
「ディオンです。ミウが話をしたいというので連れて参りました」
「入ってよいぞ」
入室の許可が下りるとディオンはゆっくりと扉を開けた。ギイっという蝶番の鈍い音が耳につく。彼は扉を押さえながら美雨を中に促し、その後に続いた。
アヴァードは窓側に置かれた椅子に座っていた。彼の前にどっしりと構えている重厚な机の上には書類やら本が積み重なっている。その間から覗く彼の顔はいつも通り知的で穏やかだった。
「おはよう、ミウ。よく眠れたかの?」
「はい」
頷きながら返事をすると彼は満足気に微笑んだ。
「それは何より。ふむ、顔色も大分良いようじゃ」
アヴァードはそう言いながら立ち上がると部屋の中央まで歩を進め、美雨にもそばに来るように手招きをする。美雨が近くまで歩いていくと彼は覗き込むように彼女の瞳を見つめた。その全てを見透かすような蒼が少し怖く感じられた。
「して、話とはなんじゃ」
「………」
いきなり本題を振られ、美雨はアヴァードから視線を逸らすように少しだけ
俯いた。その仕草だけで察したのか、アヴァードは扉の前に立っているディオンに顔を向けた。
「ディオン、すまぬが隣の部屋で待っていて貰えるかの」
「はい」
特に気にする様子もなく、ディオンは頭を下げるとドアノブに手をかけた。連れて来てもらった礼を言う暇もなく彼の姿は扉の奥へと消えてしまう。
パタン、と扉の閉まる音が聞こえて一拍置いた後、アヴァードはもう一度美雨の瞳を見つめた。美雨も今度は逸らすことなく、じっと彼の瞳を見つめ返す。
するとアヴァードがふっと目元を和らげた。
「良い瞳をしておる」
穏やかな声が耳に届く。アヴァードにはすでに何を言おうとしているのか分かっているのだろうか、とそんなことが頭の隅を掠めた。
「さて、それではそなたの心を聞こうかの」
その一言に美雨は鏡の前でしたように再び唇をきゅっと結んだ。
この二週間、考えて考えて考えてようやく出した答え。この選択が正しいのか、それとも間違っているのか、それは解らない。
だけどこれ以外に道はないと思えた。
息を吸い込み、心を鎮める。美雨は顔を上げるとアヴァードの瞳をしっかりと見つめた。
そしてゆっくりと口を開き、言葉を紡いだ。
「私……巫女になります」
はっきりとした美雨の声が静寂に包まれた部屋の中に響く。音もなく流れる空気にランプの灯りがゆらゆらと頼りなく揺れていた。