目を覚ました美雨は大きくため息を吐いた。
 明らかにアパートにあるものとは違う大きなベッドに、真上にはまるでお伽噺とぎばなしに出てくるような薄絹の天蓋てんがい。それを見て美雨は再び目を瞑った。
 
―— 夢じゃなかった…… ―—
 
 夢の続きにしてはあまりにも出来過ぎている。最後の頼みとでもいうように恐る恐る目を開くが、彼女の目に映ったのはやはりさっきと変わらないものだった。
 美雨は諦めて身を起こすと、天蓋を押し上げて足を床に下した。ベッドに腰掛け、しばらくしてから気怠そうに立ち上がる。
 ひどくのろのろとした動きだが仕方ない。起き抜けのせいもあるが、それよりも頭痛と倦怠感が残っていたからだ。
 喉の渇きを覚え、美雨は部屋の中をきょろきょろと見渡した。テーブルに置いてある白いナプキンと水差しに目が留まる。
 美雨はテーブルに近付くと水差しからグラスに水を注ぎ、一息に飲み干した。あまりにも喉が渇いていたせいか、冷たい水が体の隅々まで行きわたるようだった。
 思わずふう、と息を零した美雨はグラスを片手に持ったまま、そっとナプキンを取った。その下にあったのは一人分の食事だった。
 お粥のようなものとスープがあり、簡素ではあるがその匂いは十分に食欲をそそる。不思議なものでそれまで空腹を感じていなくても、それが呼び水となって急にお腹が減るものだ。
 美雨は自分のお腹に手を当てると小さく苦笑した。
「こんな時でもお腹って空くのね」
 そう独り言ちると皿の横に置いてあるスプーンを手に取り、立ったままスープを口に運んだ。
「……美味しい」
 すっかり冷めてしまってはいるものの、濃すぎない味付けのスープは美味しかった。美雨はそばにあった椅子に座ると並んでいる食事に手を付けた。
 お米ではないがそれに似た穀物のようなものを柔らかくしたものはまさにお粥のようで、不調を訴える体にもすんなりと入っていく。
 腹が減っては何とやら、確かに食べることで気力が湧く気がする。それどころか一口、また一口と飲み込むたびに倦怠感が薄れ、体がこの世界に馴染んでいくように感じられた。
「………」
 カチャっと小さな音を立て、美雨はスプーンを置いた。
 この世界に馴染み始めた体。
 それはもう元の世界に帰ることが出来ない、という事実を彼女自身に知らしめているようであった。
「美陽」
 そう呟くと美雨はゆっくりと窓の外に視線を向けた。
 今が朝なのか夜なのかすらも分からないほど暗く沈んだ空。見るたびに心まで暗くなってしまいそうな空を見つめ、美雨は遥か遠くの世界にいる妹を想った。
 
―— 美陽……目を覚ました…? ―—
 
 病院のベッドの上で眠る彼女の姿を思い出しながら心の中で問いかける。ここにいては確かめようもないけれど、何故か美陽が意識を取り戻したという確信があった。
 一年以上も目を覚ますことのなかった美陽が戻ってきたとなれば、きっと両親は泣いて喜んでいることだろう。
 そこまで思いを巡らせると、美雨はゆっくりと自分の手に視線を落とした。
 
―— お母さん…… ―—
 
 どんなふうにこの世界に来てしまったのかは分からないが、向こうの世界にあった自分という存在が消えたのは確かだ。
 飲みかけのコーヒーや机の上に広がったままのレポート。元の世界の美雨の部屋に残っているものたち。それらは美雨がついさっきまでそこにいたという証だ。
 その痕跡を残したままいなくなった自分を両親は、そして目覚めた美陽はどう思うだろう。
 突然消えた娘を心配しているだろうか。それとも―—―—。
 美雨はきゅっと手を握りしめ、椅子の背にもたれた。仰ぐように天井を見つめたのとほぼ同時にノックの音が耳に届いた。
「ミウ様」
 扉の向こうから聞こえるくぐもった声は聞き覚えがあった。美雨はもたれた体を起こしながら扉に視線を向けた。
「はい」
 少し大きめな声でそう返事をすれば、失礼します、という声と共に扉がゆっくりと開いた。




「もう起きていたんですね。体調はいかがです?」
 レイリーは椅子に座る美雨を見つけると柔らかく微笑んでそう言った。
「もう大丈夫です」
「よかった」
 もともと色白なんだろうが、昨夜から見れば確かに顔色もいいようだ。彼女の目の前にある食事が半分くらい減っているのを横目でちらっと確認して安堵する。
「少しは召し上がれたようですね。簡素なものしか出せずに申し訳ないのですが」
「……いえ…ごちそうさまでした」
 そう言って小さく頭を下げる彼女を見てレイリーはふっと笑い、言葉を継いだ。
「遅くなってしまいましたが、改めて自己紹介を。私はレイリーと申します。どうぞお見知りおきを」
 レイリーは胸に手を添えて頭を下げた。数秒して顔を上げると、じっとこちらを見つめている彼女の瞳とぶつかった。警戒しているような、無防備なような、どちらともいえない不思議な瞳だった。
「……真山美雨…です」
 小さな声で律儀に答える彼女に優しく微笑みを返す。
「ミウ様、何か足りないものなどはありませんか?」
 そう問うと彼女は困ったように眉をひそめた。何だろうかと思っていると、ややあってから言いにくそうに彼女が口を開いた。
「あの…… "様" はやめてもらえませんか」
「何故?」
「そんな風に呼ばれるのはちょっと……慣れなくて」
 聞き覚えのあるフレーズに思わずレイリーは声を零して笑ってしまった。そして何故笑われているのか分からずにぽかんとしている美雨に、彼は笑いを収めてその理由を教えてあげた。
「妹君も同じように言ってましたよ。双子とは言うことまで似るものなんでしょうか」
 そう言ったとき、美雨の瞳が一瞬かげったように見えた。彼女はそのまま視線を下げ、少しだけ顔を背けるような仕草をみせる。
 何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか、と思ったがそれ以上表情を変えない彼女からは何の感情も読み取ることは出来なかった。
「……では失礼して。ミウ、何か足りないものなどはありませんか?」
 二人の間に流れたシンとした空気を振り払うようにレイリーは先程と同じ質問をした。下がっていた視線がレイリーのほうに戻ると彼は内心でホッと息を吐いた。
「着替えは申し訳ないですが、ミハルの服をお使い下さい。すぐに新しいものを用意させますので」
 そう言いながらレイリーが部屋の隅に置かれた箪笥に視線を移すと、彼女もそれを追うようにそちらを見た。
「いえ、美陽のがあるのならそれで十分です」
 淡々と受け答えをする彼女にレイリーは昨日と同じ印象を受けた。どこか冷めた瞳と年齢に合わない落ち着き様。
 
―— 心底を探るのは難しそうだ ―—

 職業柄、その人の瞳を見ればそれとなく感情を拾うことが出来るのだが、美雨のように分かりにくい人間もたまにいる。彼女はまさにそのタイプであった。
 そういうときは少しずつ時間をかけて心を開かせるしかない。
 焦ることはない、とレイリーは自分に言い聞かせた。アヴァードの言うとおり、焦って追い詰めても何もならない。
「ところで、昨日アヴァード様と話をされた時に部屋にいた者達を覚えていますか?」
「……四人の男の人…ですか?」
 唇に軽く握った指を当て、考える素振りを見せた美雨が少しだけ思い出したようにぽつりと呟いた。その答えにレイリーが首を縦に振る。
「私を含めあの場にいた四人は皆、神官です。あなたのそばにいるように仰せ付かってます」
「……神官…」
 しっかりと受け止めながら聞いている彼女に、レイリーは微笑みながら話を続ける。
「昨日は私でしたが、しばらくの間この部屋の隣には四人のうち誰かが必ずいるようにしています。突然、このような場所に来てしまって戸惑うこともあるでしょう。何か困ったことがあったらすぐに言って下さいね」
「はい」
 小さく頷く美雨を見ながら、恐らく彼女が自分たちを頼ってくることはないだろう、とレイリーは感じていた。
 
―— 今はまだ仕方ないか ―—
 
 自分が望まないまま、訳のわからない異世界にいきなり放り込まれたのだ。取り乱さないだけ大したもので、警戒するのは当たり前といえば当たり前かもしれない。
 それでもレイリーは少しでも彼女の警戒心が薄れるように、と出来得る限りの穏やかさでにっこりと微笑みかけた。
「それから、もしも体調が十分なら今からこの部屋の近くを案内しようと思うのですが」
 巫女になるかならないかは別として、ここで暮らす以上この部屋だけに籠っているわけにはいかないだろう。浴場や手洗い場など生活に必要な場所を教えておかねばならない。
「如何です?」
「………」
 その提案に少し考えたようではあったが、美雨はこくんと頷くと椅子から立ち上がった。レイリーは隣に並ぶと彼女を促して部屋を後にした。






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