「……とても優しい方ね」
 レイリーと共に去って行った美雨の姿が見えなくなってしばらくした後、ラウラがぽつりと零した。
「兄さん、あの方は……ミハル様ではないよね?」
「……ああ、彼女はミハルの双子の姉で、新しい光の巫女だ」
 確信したようなカヤの問いに否は言えず、クートがそう答えると彼女は静かに目を瞑った。
「いつ気付いた?」
 レイリーの後ろから美雨が現れたあの一瞬、思わず息が止まった。
 名を呼びかけてすぐ、ここに美陽がいるわけがない、あれは美陽に扮した美雨だ、と気付いて口を噤んだが、クートですら見間違えるほどよく似ていた。
 美陽に双子の姉がいると知らなかったラウラが気付くとは思わなかった。
「途中まで本当にミハル様だと思っていたけど、さっき手を握られた時にね」
 そう言って泣き笑いのままラウラが振り返った。
「たった半年足らずだったけど、これでもミハル様のお傍にいた時間は私が一番長いのよ?」
「そうだったな」
 その悪戯っぽい、懐かしい笑みにクートの口元にも笑みが浮かぶ。
 しかしラウラのその笑みはすぐに翳ってしまった。
「ミハル様も時折寂しそうな顔をすることはあったけど、あんな笑い方はしなかったわ」
「え?」
「あんな風に……悲しいのを押し込めたみたいに笑わなかった」
「………」
 先ほどの美雨の顔がクートの脳裏に過る。
 いつも表情が変わらず、冷たくすら見える美雨が初めて見せた笑顔。
 そのことに驚いていたからか、元よりそういった機微に疎いだけなのか、笑顔の裏にある感情になど気付きもしなかった。自分には明るく朗らかに見えていたものが、ラウラにはそのように映っていたらしい。
 あくまでも美陽になりきる為の笑顔。
 ならば彼女の本心は、感情は、何を思って何を感じていたのだろうか。
「きっと私の為にミハル様になって下さったのよね」
「そう、なんだろうな」
 昨日の一件の後、マティアスから全て聞いたのだろう。ラウラの現状を知って美雨なりに考えた結果の行動なのだと分かる。
 ラウラは何処か遠くに想いを馳せるように、美雨が出ていった扉を眺めた。
「本当にミハル様に言われたみたいだった。ずっと苦しかったのが嘘みた……っ…」
 言葉を詰まらせてラウラが両手で顔を覆った。
 小さな嗚咽を漏らす彼女の肩をそっと撫でながら、クートは分厚く重たい空を見上げて息を吐いた。




 この地域は寒暖差が激しく、夜になれば昼の熱気は立ち消えて急激に冷える。ひんやりとした石造りの廊下を歩いていたクートは美雨の部屋の前で立ち止まった。
 つい先ほど食堂にカヤの姿があったから恐らくいま美雨は一人で部屋にいるはずだ。
 昼間のことで話をしに来たのだが、美雨に対する態度からカヤには快く思われていないことを自覚しているので、彼女がいないタイミングを見計らって来たのだった。
 柄にもなく緊張しているのか、落ち着かない心を押し込め、ふう、と小さく息を吐き出した後、クートは静かに扉をノックした。
 数秒経ってもう一度ノックをしても応えがない。しかし、部屋の中に人の気配はある。
 寝ているのかもしれない、と出直そうと踵を返した時、中からガタンと何かが倒れたような音が聞こえた。
「ミウ?」
 再度の呼びかけにも答える気配がなく、怪訝に思ったクートは扉を開けた。そしてランプの灯った部屋に入ってすぐ、その異変に気付いた。
 鏡台の側に小さく蹲った美雨の姿。零れる呻き声と不規則な呼吸。
「……っ…」
「ミウ?!」
 咄嗟に駆け寄った美雨の肩に手をかけて驚いた。
 苦し気に眉を顰めた表情、体は小さく震え、唇や頬は血の気が引いて真っ青だった。さらには背まであったはずの髪は不揃いに切られて床に散らばっている。
「どうした?! 何があった?!」
 呼び掛けながら室内にサッと目を走らせるが、彼女の他に誰かがいたような気配はない。
 苦しげな浅い呼吸を繰り返す中で、瞼がぴくりと動いて薄く開いた。ぼんやりと焦点の合わない瞳がこちらを向く。
 一見したところ外傷はなさそうだが、ギュッときつく腹の上で押さえられている手に気付き、クートはそれに己の手を重ねた。
「腹が痛むのか?!」
「……ク…ト…」
 ようやく自分を抱えているのが誰なのか気付いたらしい。その瞬間、覗き込んだ彼女の瞳が泣きそうに歪んだ。
「……っ…どうして助けを呼ばない?!」
 半ば怒鳴るように問いかける。
 声もまともに出せないほどなのだから、助けを呼びたくても呼べなかったのだということくらい分かっている。だが、彼女の弱った姿を見た瞬間、頭の中が沸騰したようになった。
「いまレイリーを呼んでくるから」
 そう言って立ち上がりかけると不意につん、と裾が引っ張られた。そちらに目を向けると己の服を力なく掴んで首を振る美雨の姿が目に映った。
「いら……な…い」
「何言ってんだ。すぐ薬を」
「少し、したら……納まる、から…」
「だけど」
「……いらな…っ…」
 美雨は掴んだ袖を放そうとせず、頑なに首を振り続ける。
「くそっ」
 クートは小さく悪態をつくと、蹲る美雨の膝と背に手を差し入れ、彼女の体を持ち上げた。
 なるべく振動を与えないようにベッドまで運ぶとその上にそっと下ろし、彼女の髪をかき上げてやる。滑らかな額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
「……な…さ…」
 不意に美雨が小さく声を出したが聞き取れず、クートはもう一度聞き返した。
「なんだ?」
「ごめ……なさ…い」
「っ」
 その言葉に息を飲む。
 クートの脳裏にマティアスの言葉が蘇った。

"ミウは誰よりも自分自身を責めている。君が思うより遥に強くね"

「ごめ……さ…」
 譫言のように同じ言葉を繰り返す美雨の肩をそっと撫でる。
「……落ち着け、大丈夫だ。ゆっくり息を吸え」
 そう言ってやれば美雨は震えながらも小さく息を吸い込み、吐き出した。
「そうだ。ゆっくり、もう一度」
 何度かそうやって繰り返し、ようやく美雨の呼吸が落ち着いてきたようだ。安堵したクートの耳に再び美雨の声が聞こえた。
「ごめ……な…さ…」
「もういい」
「……ごめ…」
「もういいから。ミウ…………ごめん」
 クートの言葉が聞こえたのかどうか、美雨はすうっと目を閉じ、そのまま意識を手放した。
 上掛けをかけ、それから彼女の額に浮かぶ汗を自分の袖で拭ってやる。そのまま手をするりと滑らせ、クートはすっかり短くなった彼女の髪に触れた。
 肩につかないほどの短く不揃いな髪は恐らく自分で切ったのだろう。
 先程は外敵が紛れ込んだのかと慌ててしまったが、よくよく冷静になって考えればそうではないとすぐに分かる。今日の彼女の行動を鑑みるに、次にラウラと会った時のことを考えてだろう。
 次に会うことがあれば、その時は美陽ではなく美雨として会うことになる。そこでラウラに別人だと印象付ける為、会うかどうかも分からないのにただその為だけに、背まであった綺麗な黒髪をバッサリと切ったのだ。
 小さな息を立てながら眠る美雨の顔をじっと見つめる。
 そこにいたのは普段見せている何事にも動じないような凛とした女性ではなく、少しのあどけなさを残した、ただの少女だった。
 クートは己の手のひらに視線を落とし、それをきつく握りしめた。
「……何を……やってんだ、俺は」
 抱き上げた時の華奢な体、軽い体重。どれをとっても男の自分とは似ても似つかない。歳だってラウラとそう変わらない。そんな小さな肩にこの世界の全てを背負っているのだ。
 それなのに、そんな彼女に自分は今まで一体何をしていたのだ。
 護るべき者と分かっていながら負の感情に呑まれ、子供のように幼稚な不満をぶつけていただけだ。
 美雨や美陽が悪いのではないことくらい、本当はとっくに気付いていた。それでも認められなかったのは自分の感情の捌け口を見つけることが出来なかったからだ。
 最愛の妹が理不尽に傷つけられ、その怒りをどこに持っていけばいいのか分からなかった。
 だけど本当に一番腹を立てていたのは自分自身に対してだ。
 美陽を護ることが出来なかった。ラウラを護ることが出来なかった。何も出来なかった情けない自分がひどく腹立たしかった。
 そんな中、新たに現れた巫女をすんなりと受け入れた他の皆は自分よりもはるかに聡く、はるかに大人で、反感を持っている自分だけが取り残されているような気分になり、焦りだけがクートを追い立てた。
 焦りは迷いになり、苛立ちは向かう先を見失って美雨へとぶつけられた。

―― 俺は、馬鹿だ ――

 彼女は被害者だ、とマティアスは言った。たった一人で見知らぬ地に放り出された、と。
 誰も知る者のいない世界で、本来なら護り手となるべき者から護られず、それどころか理不尽な苛立ちをぶつけられ、敵意を当てられて、どれほど不安になったことだろう。
 それなのに彼女は自分の所為だから、と全て受け入れ、更にはその張本人にまで心を砕いた。
 黒髪を一束持ち上げれば、短くなったそれがはらりと手から零れ落ちていく。
「……ミウ…」
 いつの間にか穏やかになっていた美雨の寝息のみが聞こえる静寂の中、クートは彼女の血の気の失った白い手を取り、その滑らかな甲にそっと額を押し当てた。
 まるで懺悔をしているようなその姿はとても静謐な空気を纏っていた。






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